〈魔泉〉攻略中13
カムイは〈魔泉〉の縁に立っていた。もう一歩か二歩前に進めば、そこはまさに崖っぷちだ。足元を覗き込めば、奈落が口をあけているだろう。吹き上がる瘴気が強風を巻き起こし、気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうだった。
彼がこんなにも〈魔泉〉に近づいたのは、実はこれが初めてである(ただし、落ちてしまった時は除く)。〈ゲートキーパー〉を倒すときも、こんなに近づくと逆にやりにくいので、もう少し後ろの方から半身像を形成している。つまりここまで近づく必要が今まではなかったのだ。
それなのに今は、こうして際の際まで近づいている。それは「次元境界壁復元作戦」のための、事前実験を行うためだった。瘴気を堰き止めるための積層結界。それを展開する魔道具が、先日ついに完成したのである。
『積層結界の魔道具が完成した。実験を行うぞ』
ロロイヤが唐突にそう宣言したのは昨日のことである。翌日(つまり今日)はまだ〈ゲートキーパー〉が再出現するまで時間があり、乱獲以外に特別な予定もなかったので、彼の要望どおり実験を行うことになったのだ。
ロロイヤが実験のために用意した魔道具は、銘を〈魔神の双眸〉という。「双眸」とはつまり「両目」のことであり、この魔道具は二つ一組で成り立っていた。〈ゲートキーパー〉の巨大魔昌石が素材として使われている。
深紅のそれらを双眸に見立てているのなら、魔神とはつまり〈ゲートキーパー〉のことに他ならない。そのことに気付き、カムイは「皮肉な名前だな」と思った。〈魔泉〉の門番の心臓を使って、そこから噴出す瘴気を堰き止めようというのだから。同時に「積層結界と関係ないじゃん」とも気付く。まあ、〈魔泉〉関連ということでいいのだろう。
「カムイ君、魔道具をセットしましょう」
アストールにそう言われ、カムイは〈魔泉〉の縁から一歩下がった。そんな彼の足もとにアストールが台座をストレージアイテムから取り出してセットする。次にその台座に〈魔神の双眸〉の片方を縦に設置する。ちなみに台座は魔道具ではない。巨大魔昌石を縦に設置するための、本当にただの台座である。
〈魔神の双眸〉のもう片方は、〈魔泉〉の対岸に同じように設置されているはずである。この二つをシンクロさせて発動し、積層結界を展開するのだ。ただ魔道具が二つあるからには、それを発動させる人員も二人必要になる。片方はカムイなのだが、もう片方は〈獣化〉したミラルダが担当することになっていた。
『カムイはともかく、ミラルダは魔力が足りるか、少し心配だな』
『妾が、かえ?』
ロロイヤの懸念に、ミラルダが目を丸くした。彼女たち〈妖狐族〉は、尻尾の数に応じて魔力を溜め込むという特性を持っている。しかも溜め込むことができる魔力量は、尻尾の数に比例するのではなく、尻尾の数の二乗に比例するのだ。これが妖狐族において尻尾の数が非常に重要になってくる理由だった。
さてミラルダはユニークスキル【存在進化】によって、三尾から九尾へと存在の格を進化させている。そうすると溜め込むことができる魔力量は、本人を基準にして九の二乗倍、つまり八一倍になる。
圧倒的を通り越して非常識な、いや理不尽な魔力量と言っていい。ロロイヤもそれは承知しているはずなのだが、しかしそれを踏まえた上で彼は「魔力が足りなくなるかもしれない」という。
『〈魔泉〉は巨大だからな。展開する結界も相応な大きさになる。しかも積層結界は展開し続けなければならない。八一人分で、さてどれほどもつかな……』
ロロイヤは思案気にそう呟いた。それを確かめるための事前実験なのだが、しかしそれ以外にも確かめたい事はある。結界を維持できる時間があまりに短くては困るのだ。それで〈魔法符:魔力回復用〉を百枚ほど用意することになった。ミラルダの隣にキキが張り付き、コレを使って彼女の魔力を回復させていく予定だ。
もっとも、それだけ大量の魔力を込め続けなければならないのは、カムイも同じである。自分の方こそ魔力不足にならないよう、彼は準備を始めた。【Absorption】と〈オドの実〉の出力を上げ、吸収したエネルギーを〈白夜叉〉のオーラに変換する。そしてそのオーラを足元から樹の根のように地中に広げていく。〈魔泉〉のすぐ近くだけあって、地中の瘴気は大量にあった。これなら十分に足りるだろう。
ちなみに【ヘルプ軍曹監修・ミリタリーレーション】は使っていない。〈ゲートキーパー〉戦じゃないから、と言って断固拒否したのだ。そもそも一割くらいしかブーストされないのだから、それを頼りにしても仕方がないと言うのがカムイの意見だ。まあ、いざとなったら【ヘルプ軍曹監修・ミリタリードッグタグ2.0】もある。不安はない。
さて、そうこうしている内に、〈魔泉〉の上空に強い光が灯った。イスメルと一緒に【ペルセス】の背に乗っているカレンが、発光用の魔道具を使ったのだ。両岸で〈魔神の双眸〉の準備ができたことを知らせる合図である。
(そろそろだな……)
その合図を見て、カムイは身構えた。合図の光は一旦消えると、今度はゆっくりと点滅する。魔道具を発動させるタイミングを合わせるための、いわばカウントダウンだ。そして三度目の点灯に合わせて、カムイは〈魔神の双眸〉の片割れに魔力をこめた。
「……っ、コレ……!」
カムイは一瞬顔を歪めた。魔道具が要求する魔力量が膨大だったのだ。彼が纏っていた白夜叉のオーラの厚みが半分ほど薄くなる。今までになかったことだ。ただそれでも何とか吸収と放出のバランスを取り、彼は魔道具を安定して駆動させる。そしてミラルダの方も安定させることができたらしい。
(風が、止んだ……?)
さっきまで耳元でうるさく鳴っていた風が止んだことに、カムイは気がついた。彼は魔道具に魔力を込めながら、視線をふとその奥へ、つまり〈魔泉〉のほうへ向けた。噴出す黒い竜巻はそこにはない。そこにはぽっかりと空いた大穴、そしてその大穴のそこを覆う紅色の結界があった。
「は、はは……」
「まさか、本当に……」
カムイが圧倒されたように乾いた笑みを浮かべる。アストールも言葉がない様子だ。〈魔泉〉を一時的に塞ぎ瘴気を堰き止めること。それが今回の事前実験の目的の一つである事は、二人も承知している。
「できる訳がない」と諦めていたわけではないし、それどころか「たぶんできるんだろう」と考えてもいた。しかしこうして本当に瘴気の噴出が止まっているのを見ると、まるで夢でも見ているような気分になる。
視線を少し遠くへやれば、対岸にいるミラルダたちの姿が見える。ついさっきまでは、噴出す瘴気に視界を遮られて見えなかった。仲間の姿を見て、カムイの中に現実感が戻ってくる。
(本当に……)
そして同時にこう思う。本当に〈魔泉〉を塞げるかもしれない、と。〈魔泉〉はもうアンタッチャブルではないし、攻略不可能でもない。暗闇の中、伸ばし続けてきた手は、確かに何かに触れたのだ。
さて、今しがたカムイとミラルダが発動させた積層結界についてである。結界は隙間なく〈魔泉〉を覆っていて、瘴気が漏れ出してくることはない。事前に決めたように結界はすり鉢状になっていて、縁から中心部にかけてだんだんと深くなっている。
ただ、もちろんというか、〈魔泉〉の底まで達しているわけではない。せいぜい十メートル弱、といったところか。今日はやらないが、本番ではここに集めた大量の魔昌石を投入することになる。
結界の色は、前述したとおり紅色。深紅というよりも若干ピンクに近い。半透明で、結界が積層になっていることが目視で確認できる。さらにその下では、瘴気が轟々と渦巻いていた。
さて、瘴気を堰き止め始めてから数分。目の前の光景に驚きつつも、アストールは油断なく身構えていた。そんな彼が、どこかホッとしたようでこう呟いた。
「…………極大型が出現する様子は、ありませんね」
カムイも無言で頷く。瘴気を堰き止める際に懸念されていたのが、極大型モンスターの出現である。もしコレが出現し積層結界を突き破って出てくるようなら、事前実験どころか計画自体を練り直す必要があった。
だが、今のところ懸念されていた極大型モンスターの出現はない。もちろん実験が終わるまで油断はできない。ただずっと身構えているだけでは実験が進まないし、イスメルが出現に備えて上空で待機している。それでロロイヤは次の指示を出した。
「キュリー、【ラプラスの棺】を発動しろ」
「了解です。……囲い、括り、閉じ込めろ、【ラプラスの棺】!」
指示に従って、キュリアズが【ラプラスの棺】を発動する。ドーム状の大きな結界が展開され、瘴気の噴出していない大穴とその周辺を内部に納めた。カムイたちも内側にいる。【ラプラスの棺】の中に入るのは初めてで、彼は興味深そうに“天井”を眺めた。
この結界はいわば巨大な檻だが、同時に彼らを守る城壁でもある。つまり周辺で出現したモンスターを寄せ付けないための防壁なのだ。ただ、最初からそれを狙っていたわけではない。最大の目的は周囲の高濃度瘴気が内側へ流れ込まないようにすることである。
「棺の展開を確認。よし、リム、クレハ。内部に残った瘴気の浄化を始めてくれ」
「は、はい!」
「了解しました」
ロロイヤの指示に従い、呉羽が結界内部の瘴気をかき集め、それをリムが浄化していく。【ラプラスの棺】は結構大きな結界なので、何度か魔力を回復させる必要があった。カムイに余裕がないことも想定して〈魔法符:魔力回復用〉も五十枚ほど用意していたのだが、幸いというかそれに出番はなかった。
「カムイ君、大丈夫ですか?」
「はい。まあ、なんとか……」
今までにないことだが、カムイの魔力も結構ギリギリだった。それだけ〈魔神の双眸〉が要求する魔力量が多いのだ。それでもリムや呉羽はもちろん、【ラプラスの棺】の再充填もしたのだから、ギリギリなりながらも上手にやりくりしているというべきか。もう少しオーラの根を広げておけば良かった、と彼は思った。
さて、結界内部の浄化は順調に進んでいる。結界の外には高濃度の瘴気が漂っているはずだが、それでも極大型を出現させるときの濃度には及ばないことは明白で、そのおかげなのか結界が侵食され破られる気配は今のところない。
ただ、何も問題がないわけではなかった。浄化が進み、結界内の瘴気濃度が下がるにつれ、地面から瘴気が滲み出始めたのである。かつて呉羽とカムイが“結界”を試したときに起こったのと同じ現象である。ロロイヤはその様子を、視線を鋭くして見据えた。
「ふむ、聞いていた通りだな……。やはり瘴気濃度の差が大きくなると、それを埋める方向に動くのだな」
「で、爺さん。どうすんだ。実験は中止か?」
「いや、続行する。どのみち本番でも同じ現象が起こるのだ。先んじて地中の瘴気を減らしておけば、本番では少しは楽になるだろうよ」
ロロイヤのその言い分に、アストールは肩をすくめた。実際に本番で楽になるかはともかく、こういう問題点を洗い出すのが事前実験の目的なのだ。ここで止めていては意味がない。その点については彼も同じ意見だった。
ただ、地中から滲み出てきた瘴気を、すぐに全て浄化できるわけではない。瘴気濃度が多少上がるくらいは問題ないが、しかしモンスターが出現する。戦力的には大した事のない相手だが、しかし〈魔神の双眸〉を破壊されると大問題だ。
いや、破壊されないとしても、倒されたり魔力の供給を妨げられたりすれば、積層結界を維持できなくなる。本番でそんなことになれば、今までに集めた魔昌石が全て奈落の底へ消えてしまうだろう。
それでアーキッドたちは近づいてくるモンスターの駆除を開始した。呉羽は積極的には動かないが、しかしリムに近づくモンスターは彼女が排除していく。そして同じことがミラルダたちの側でも行われていた。
「駆除しろ。モンスターを近づけるな」
「りょ~かい!」
「承知!」
デリウスが指示を出すと、ルペとフレクが威勢よくそう応じた。彼らはミラルダの護衛だ。キキもいるが、彼女はミラルダに〈魔法符:魔力回復用〉を使うのに忙しく、戦力にはならない。むしろ彼女を含めて護衛対象だった。
ちなみにイスメルとカレンは上空で積層結界の様子を監視している。残りのメンバーは対岸だ。向こうの様子は分からないが、しかし同じようにモンスターが出現しているのだろう。ただ、デリウスに不安はない。極大型ならばともかく、普通のモンスターにやられるようなやわなメンバーはいないのだ。
「ギィィィイイイイ!」
モンスターが耳障りな雄叫びを上げて襲い掛かってくる。デリウスは【ARCSABER】の青白い刃でそのモンスターを切り伏せた。警戒しつつ周囲を見渡せば、フレクとルペも問題なくモンスターを蹴散らしている。
魔昌石を回収する余裕もあり、こうしてモンスターは出現したものの、大きな障害にはなっていない。数時間程度なら、このまま状況を維持できるだろう。デリウスは内心で小さく安堵した。
しかしながら、問題がそれだけであるは限らない。モンスターよりもはるかに厄介で頭の痛い問題がここへ来て表面化する。それを知らせたのはキキだった。
「も、もう魔法符がない……!」
「ぬ、ぬうぅ……!」
ミラルダも苦虫を噛み潰したようにうめき声を上げる。用意していた〈魔法符:魔力回復用〉が全てなくなったのだ。魔力の回復ができなくなり、ミラルダが溜め込んでいた魔力はどんどんなくなっていく。そしてついに限界が訪れる。
「もう、ムリ、じゃ……!」
魔力がなくなり、ミラルダはその場にくずおれた。彼女がリタイアしてしまったことで、積層結界の半分が維持できなくなる。半分だけでは一分ともたず、〈魔泉〉からは轟音を上げてまた瘴気が噴出し始めた。
「まずいぞ、これは……!」
棺の天蓋を睨みながら、デリウスは厳しい声でそう呟いた。積層結界は消失してしまったが、しかし【ラプラスの棺】はまだ健在だ。ということは棺の障壁に阻まれ、瘴気はその内部に溜まることになる。そして最終的には極大型モンスターが出現することになるだろう。
その様子を、いつもどおり遠くから眺めているだけなら、何も問題はなかっただろう。しかし彼らが今いるのは【ラプラスの棺】の内側だ。瘴気濃度はどんどん上がり続けていくし、そもそもこのままでは〈魔泉〉の縁で極大型モンスターと戦わなければならなくなる。非常に危険な事態だった。
「師匠、瘴気が……!」
「落ち着きなさい。大丈夫です」
再び噴出した瘴気の影響をまず受けたのは、〈魔泉〉の口の直上にいたイスメルとカレンだった。下からの強風に少なからずあおられたものの、イスメルは【ペルセス】の手綱を巧みに操ってすぐにバランスを取り戻す。そして彼女は鋭く視線を左右に走らせた。
噴出す大量の瘴気が【ラプラスの棺】の内部に溜まっていく。そのせいで視界は一秒毎に悪くなっていった。早急にこれらの瘴気を外へ逃がしてやる必要がある。イスメルは手綱を引くと、【ペルセス】を走らせて棺の天蓋を目指した。
「はぁ!」
天馬を走らせながら、イスメルは鋭く右手の剣を振りぬいた。そこから伸びた不可視の刃が、棺の天蓋を切り裂いていく。ただその一撃で棺は崩壊せず、彼女は続けて左手の剣を振るった。
二つの斬線が十字を描いて交差する。そこへ噴出する瘴気が直撃した。大きく傷ついた障壁はそれに耐えることができない。まず棺の頂上部分が吹き飛び、そこから瘴気が外へと勢いよく噴出す。さらにそこから連鎖するようにして障壁が崩壊していき、こうして【ラプラスの棺】は完全に消滅した。
その様子を見て、デリウスは内心で安堵の息を吐いた。ともかくこれで最悪の事態は避けられた。ただ、まだ気を抜ける状況ではない。〈魔泉〉からは大量の瘴気が噴出しており、ここはそのすぐ近くだ。実験を継続できる状態ではないし、ここは撤退するしかないだろう。
「撤収するぞ。ミラルダ、動けるか?」
「なんとか、の……」
若干苦しそうな様子を見せつつも、ミラルダは四肢に力を込めて立ち上がった。その様子をキキとルペが少し心配そうに見ている。ルペが持っていた〈魔法符:魔力回復用〉を数枚使って回復したものの、あくまでもそれは応急処置。本調子には程遠いはずだが、しかしだからと言ってここで回復を待つわけにもいかない。対岸でも撤退を開始しているだろうし、今は素早く動く必要があった。
「フレク」
「魔道具は回収した。いつでも行けるぞ」
「では先頭を頼む。その後ろにミラルダ。殿は私だ。キキはミラルダの背に乗って側面を警戒。ルペは上空から全体の援護を頼む」
手早く隊列を組み、デリウスたちは撤退を開始した。襲い来るモンスターを叩き伏せながら、あらかじめ決めておいた集合ポイントへ急ぐ。そこにはすでにカムイやアーキッドたちが来ており、さらにそこへイスメルとカレンも到着する。メンバー全員が無事に揃うと、少しだけ安堵した空気がメンバーの間に広がった。
「まだ気は抜くなよ。キュリー、【オーバーゲート】を頼む」
「了解です。……大いなる門、不滅なる扉よ。我の前に道を開け。【オーバーゲート】!」
大した距離ではないものの、カムイたちは転位系の祭儀術式【オーバーゲート】を使って拠点と定めた小高い丘の麓へ撤退した。到着すると、すぐにアーキッドが【HOME】を展開する。
ぞろぞろと連れ立って玄関を通り抜け、彼らはリビングへ向かう。ソファーに身体を預けると、安心したのか誰かが「ふう」と息を吐いた。各自が適当に飲み物やお菓子を用意すると、アーキッドの音頭で事前実験の反省会が始まった。
「そんじゃ言いだしっぺのロロイヤから」
「全体として満足のいく結果だった。最大の問題は、やはり魔道具が消費する魔力の量だな」
ロロイヤがそう言うと、メンバーの視線がミラルダに集中した。魔力切れの影響がまだ抜けないのか、彼女はだるそうに肘掛に身体を預けている。ご自慢の尻尾と狐耳も、今はなんだかすすけて色艶が悪いように見えた。
「まあ、ミラルダがご覧の有様なことからも分かるように、魔力が足りなかったわけだ。キキ、〈魔法符:魔力回復用〉は全部使ったんだよな?」
「使い切った」
アーキッドの問い掛けに、キキは大きく頷いてそう答えた。〈魔法符:魔力回復用〉は百枚ほど用意してあった。プレイヤー換算にすれば、大体三十人分ほどの魔力である。ミラルダが溜め込んでいたのが八一人分だから、合計で一二〇人分ほどの魔力でも足りなかったことになる。
「そうですか……。次はもっと枚数を用意しておいた方が良さそうですね……」
アストールが顎先を撫でながらそう思案気に呟く。確かに〈魔法符:魔力回復用〉をさらに用意しておけば、もう少し長い時間もちはするだろう。しかし結局のところ、それは対処療法でしかない。加えてもう一つ、致命的な問題があった。それをミラルダ自身がこう指摘する。
「じゃがのう……。魔力の回復は、そもそも間に合っておらなんだぞ……?」
ミラルダが言いたいのは、「キキの仕事が無駄だった」ということではない。むしろキキが魔力を回復させた分だけ、積層結界を維持できる時間は延びていたはずだ。ただ彼女が〈魔法符:魔力回復用〉を使って回復する分より、積層結界を維持するために消費する魔力量の方が多いのだ。
となると、どれだけ〈魔法符:魔力回復用〉を大量に用意したとしても、ミラルダ自身が持つ魔力が尽きてしまえばその時点で需要と供給のバランスが崩れ、やはり積層結界は維持できなくなってしまうだろう。単純に多量の魔力を用意すればいい、と言うわけではないのだ。
「カムイの方はどうだったの?」
「まあ何とかもったけど。ちょっと苦しかったかな。もう少し入念に“根”を伸ばしておけば良かった」
カレンの質問に、カムイはそう答えた。それが聞こえたのか、ミラルダがなんとも言えない顔をする。彼の魔力供給能力に慄いているのだ。一二〇人分をカバーする能力というのは、確かに驚異的だろう。しかもまだ上乗せが可能だというのだから、もう呆れるしかない。
こうなると、魔力量に問題があるのはミラルダだけということになる。ただ、単純に人数を増やせばいいと言う話ではない。むしろ一人二人増えたところで無意味だろう。別のアプローチを考える必要があった。
「時間的には、どうなのだ?」
ブラックコーヒーの香りを楽しみながら、デリウスがそう尋ねた。魔力の消費量が多いとはいえ、〈魔神の双眸〉は確かに発動され、そして瘴気を堰き止めていたのだ。そしてその時間はおよそ三十分程度だった。
その時間は十分とはいい難い。ただ、例えば〈魔法符:魔力回復用〉をもっと用意して、キキ以外にも回復要員も増やすなりすれば、必要な作業時間は稼げるかもしれない。しかしロロイヤの意見は否定的だった。
「実際の作業時間はともかく、あまりギリギリなスケジュールでは動きたくないな。やはり魔道具の改造が必要だろう」
わざわざ「改造」という単語をチョイスしたあたりに彼のマッドサイエンティスト気質を感じ取り、カムイは思わず顔をしかめた。実際に使う側としては、ヘンな改造は本当に勘弁して欲しいのだろう。
もちろん、この話の流れで自爆機能を追加するような真似は、ロロイヤだってしないだろう(いやするかも……?)。まあ、彼の信用のおけない趣味はともかく、今必要な改造とはつまり、魔道具の消費魔力量を抑制することだ。
「爺さん、できるのか?」
アーキッドが少々懐疑的な様子でそう尋ねた。機械にしろ魔道具にしろ、要求されるエネルギーというのは、どんな仕事をするのかによって左右される。逆を言えば、仕事内容が変わっていないのに、必要とされるエネルギーを大幅に減らす事は難しい。1,000Jの仕事には1,000J以上のエネルギーが必要なのだ。
アーキッドの言いたいことが伝わったのかは分からないが、ロロイヤは重々しく「うむ」と頷いた。その様子からして、どうやら腹案が有るらしい。カムイのその直感は当たった。彼はこう言ったのである。
「キファに頼む」
ロロイヤ曰く、そもそも〈魔泉〉の口を積層結界で塞ぐには大量の魔力が必要になる。大きな結界を張るにはそれだけで大量の魔力が必要だし、それを積層にしなければならないのだから、消費魔力量はさらに四倍五倍に膨れ上がる。
それでも普通の結界なら、一度展開してしまえば魔力消費は抑えられる。しかし瘴気を積層結界で堰き止める場合、そうはいかない。外側の結界が瘴気に侵食され崩壊していくので、常に新しい結界を張り続ける必要があるからだ。
要するに、〈魔神の双眸〉はどうあっても膨大な魔力を必要とするのだ。これは設定の変更や、設計の見直しでどうにかなる問題ではない。となれば別の部分で突破口を開くしかなかった。
「本来なら人数をかけるのが正攻法だろう。だが現状それはあまり現実的ではない。コストもかかるしな。しかしだからと言って、魔道具の消費魔力量を抑えようとすれば、今度は結界として役に立たなくなる」
それで非常手段ではあるがキファの【ギフト】に頼ることにした、とロロイヤは言う。非常手段と言いつつ、彼はあまり悔しそうではない。カムイがそのことを指摘すると、彼は小さく苦笑してからこう答えた。
「誰が設計しても、消費魔力量は大きく変わらん」
それは職人の能力の問題ではなく魔道具の仕様の問題だ、とロロイヤは言う。そしてその意識があるからこそ、彼はキファの手を借りることに躊躇いがないのだ。職人というのは良く分からない人種だな、とカムイは思った。
まあ、それはともかくとして。キファの力を借りるのはいい。実際、〈オドの実〉や〈クリスタライザー〉のときもそうした。つまり消費魔力量を抑えるような、そういう【ギフト】を付加してもらうのだ。ただそのためには一つ問題があった。そのことを呉羽がこう指摘する。
「でもキファさんの能力は、自分が作ったものじゃないと使えなかったはずです」
ロロイヤが作った〈魔神の双眸〉は、〈ゲートキーパー〉の巨大魔昌石を素体にしている。当然のことながら、キファの手は少しも加わっていない。これでは彼女のユニークスキル【ギフト】を使う事はできない。ロロイヤもそのことを認め、一つ頷いてからこう自分の考えを述べる。
「うむ。そこで素体にはマナの結晶体を使う。魔昌石と性質も似ているし、むしろ素体としてのグレードは上かも知れん」
〈クリスタライザー〉で生成されるマナ結晶は、砂状でしかも不純物が含まれている。それを精製して不純物を取り除き、さらにある程度の大きさに再結晶化できるのは、今のところキファだけだ。魔道具の素体に使うマナ結晶体を作ってもらい、さらにその研磨も依頼すれば、それは十分にキファの作品と呼べるだろう。【ギフト】の付加も問題はないはずだった。
「んじゃまあ、魔道具のほうはそうしてもらうとして、他に何か問題点や気になることはあったか?」
「予想はしていたが、やはり地面から瘴気が滲み出てきたな」
アーキッドに促され、デリウスがそう発言する。先ほどまでの事前実験では、【ラプラスの棺】を展開した後、その内部に残った瘴気を浄化するところまでは問題なく進んだ。しかし瘴気濃度が下がると、まるでそれを調整するかのように、地面から瘴気が滲み出てきたのである。
いや、「まるで調整するかのように」というよりは、まさしく調整しているのだろう。そういう調整が働かなければ、地中に染み込んだ瘴気はいつまでたっても取り除くことができないのだから。ただ、こうして滲み出てきた瘴気は実験の妨げになる。
「こちらでは多数のモンスターが出現した。手間取るような相手ではなかったし、魔昌石を回収する余裕もあったが、そちらはどうだった?」
「こちらでもモンスターは出現しました。ただ恐らくですが、そちらよりも数は少なかったと思います」
デリウスの質問に、キュリアズがそう答えた。「数が少なかった」というのは、対岸の様子を遠目にではあるが観察して感じたことだ。都合のいい事に、双方とも魔昌石は全て回収してある。それで個数を比べてみたところ、デリウスたちの方が約三倍も多くモンスターが出現していたことが分かった。
「これは……、やはりリムやカムイがそちら側にいたから、なのか?」
フレクがそういうと、他のメンバーからは「そうだろうな」という声が聞こえた。実際、それ以外には考えられない。リムが浄化していたから瘴気濃度が下がってモンスターの出現が抑制され、またカムイが“根”を張って地中の瘴気を吸収していたのでそもそも空気中に滲み出てくることがなかった。そう考えれば辻褄は合う。
ただ、モンスターはそれほど大きな問題ではない。考えるべきは別にある。そのことをロロイヤがこう指摘した。
「まあ、余裕をもって対処できたのなら、モンスターの方は問題あるまい。むしろ瘴気で問題なのは、魔道具への影響だな」
彼のいう魔道具とは、積層結界を展開する〈魔神の双眸〉のことではない。こちらは瘴気の中でも問題なく動作する。影響が心配されるのは、今日の事前実験ではお目見えしていない、次元境界壁を修復するための魔道具だ。
瘴気はこの世界とは相容れない存在だ。そしてだからこそ害悪となっている。一方、次元境界壁を修復するための魔道具は通常の魔道具とは異なり、いわばこの世界の法則そのものを利用している。その部分が瘴気の影響を受けるのではないか、とロロイヤは懸念しているのだ。
そもそも【ラプラスの棺】を使って〈魔泉〉を隔離し、その内部の瘴気濃度を下げるのはこのためだった。しかし幾ら空気中の瘴気を浄化しても、地中に残った大量の瘴気が滲み出てくる。ロロイヤは渋い顔をしてこう呟いた。
「むぅ……。地中を含め、完全に瘴気をなくすことは難しいか……」
少々悔しげに唸りつつ、彼はそれを認めなければならなかった。ただ、瘴気が滲み出てくるのは地面、つまり足もとからだ。当然、瘴気濃度は下から上がっていく。ドーム型の棺の上部は、比較的瘴気濃度が低いと考えられる。
「カレン、上空の瘴気濃度はどうだった?」
「ええっと、それは地面から瘴気が滲み出てきたあとで、ってことですよね? それだと、0.1くらいから徐々に上がって、0.2くらいにはなっていました。ただ、最大でどこまで上がったのかは、よく分からなかったですけど……」
「十分だ。やはり、上空の方が瘴気濃度は上がりにくいな」
そうは言いつつも、ロロイヤの表情は険しいままだった。瘴気濃度が0.2というのは、かなり低い数字だ。しかし少ないながらも、瘴気がまだ存在していることもまた示している。それにこの数字は上空のもの。地表付近はもっと高くなるだろう。その瘴気が次元境界壁を修復するための術式にどう影響するのか、なにぶん初めてのことで予想を立てるのも困難だった。
「今回みたいに、事前に実験する事はできないんですか?」
「次元境界壁の修復実験だぞ。そうそうできる場所などないし、どのみちぶっつけ本番……、いやまてよ……」
アストールに苦笑しつつ答えていたロロイヤが突然真顔になる。確かに次元境界壁の修復実験は難しい。しかしそれ用の魔道具の起動実験なら、それほど難しくはないだろう。つまり〈魔泉〉から離れた場所で魔道具を発動させてみればいいのだ。その時、瘴気に対しどのような反応を見せるのか。それを確認するだけでも、やる意味はある。
「じゃあ、その時にどうしてもダメそうだったら、どうするの?」
「その時はその時だ。また何か考える」
「……いっそのことさ、これも最初からキファさんに頼ったら?」
ルペがそう指摘する。つまり瘴気の影響を受けなくなるような【ギフト】を、次元境界壁を修復するための魔道具に付加してもらうのだ。本当にそれが可能なのかという問題はあるものの、有望な選択肢の一つと言えるだろう。しかしロロイヤの反応は芳しくない。彼は肩をすくめてこう言った。
「あまり頼り切るのは趣味じゃないな」
「……いや、趣味とか、そういう問題じゃないんじゃないかなぁ~?」
そう言ってルペは心底呆れた様子で頭を抱えた。なるほど確かに大多数の人間にとっては、彼女の言うとおりだろう。しかしながらロロイヤにとっては趣味の問題なのだ。そして彼にしかこの魔道具を作れない以上、これはやはり趣味の問題だった。
「……で、爺さん。これからその魔道具の実験でもするのか?」
「いや、そちらはまだ完成していない。だがあと数回もデータを収集すれば、メドは立つだろう。〈魔神の双眸〉も多少は術式を見直すとして。まあ、魔道具関係の方はコッチでやっておく。今日中に欲しいのはマナ結晶だな。明日にはキファの工房に行くぞ」
「んじゃまあ、そうしてもらうとして。他に気になる事はないか?」
ロロイヤが話をまとめたところで、アーキッドがもう一度そう尋ねた。彼はメンバーを見渡すが、次の話題は出てこない。その様子を見て一つ頷くと、彼は最後にこうまとめた。
「気になることが出てきたらまた改めて話し合うとして。反省会はとりあえずここまで。お疲れさん。資金に余裕はあるし、乱獲もなしにして今日はもう休みにしちまおう」
アーキッドの提案に反対の意見は出ず、この日は休暇になった。ただ、ロロイヤに言われたマナ結晶を用意しなければならない。しかも〈ゲートキーパー〉の巨大魔昌石二つ分、いやそれ以上の量だ。到底、麻袋一つでは足りないだろう。加えて時間もかかるだろう。
それでカムイたちは反省会が終わるとすぐに、【HOME】の外へ出てマナ結晶の生成を始めた。キュリアズも同行して【オーバーゲート】の再充填を行う。アストールは〈魔法符:魔力回復用〉の量産に余念がない。そのうちミラルダも来て、空っぽになってしまった魔力を回復させる。
(なんか後始末をしてるみたいだな……)
当らずも遠からず。なんにしても必要な事柄なのだ。早目にやっておくに越したことはないだろう。