壮大な回り道7
カムイのプレッシャーが増す。〈オドの実〉の出力を上げたのだ、とアストールは直感した。それを裏付けるかのように、彼が“グローブ”を形成する。いよいよ追い詰められてきたようですね、とアストールは胸中で頷いた。
(まあ、そうでなければ困りますが……)
アストールは内心でそう苦笑した。ここまでは彼がカムイをほぼ完全にやり込めている。ただそれが出来ているのは、ひとえにカムイのメンタルコンディションが最悪だからだ。心が乱れ戦える状態ではないところに最大限付け込む事で、アストールは何とか優勢を保っているのである。
(薄氷の上を歩いているような、綱渡りをしているような……)
現在の趨勢を、アストールはそう表現した。カムイは強い。例えメンタルコンディションが最悪でも、地力がしっかりとしているから大きくは崩れない。ずっと繰り返してきた、呉羽やイスメルとの稽古の成果だ。
普通であれば、アストールに勝ち目はない。彼もそれを認めている。表面上は余裕ぶっているが、実は背中に冷や汗がダラダラだ。先ほど“アーム”に掴まれた右腕はまだ痛い。もしかしたら、骨にヒビでも入ったかもしれない。魔力は回復できたが体力はそうもいかないし、着実に追い詰められているのは間違いなく彼のほうだった。
(それでも……)
それでも、ここでカムイを一人出て行かせるわけにはいかない。アストールはそう心に決めていた。アーキッドなどは「好きにさせればいい」と言うだろうが、彼はそうは思わない。だからこうして立ち塞がっている。
理由は幾つかあるし、その中には打算的なものも含まれている。ここでカムイが抜ければ〈魔泉〉の調査だけでなく、日々の稼ぎにも大きな影響が出るだろう。ただそれはあくまでもついでの理由でしかない。
最大の理由は、やはり「仲間だから」だ。これまでに結構長い時間、一緒に旅をし、一緒に戦い、一緒にこの世界に挑んできた。それなのにこんな形で分かれるのは寂しいではないか。そしてその辺りのことを全く考えていないカムイには腹が立つ。最初に彼が言った「怒っている」というのは、言葉通りの本音なのだ。
(さて、と……)
胸中でそう呟いて頭を切り替え、アストールは集中力を高める。怒っていはいるが、しかしその感情に振り回されることはない。むしろ力に変えることができている。カムイとは対照的に、彼のメンタルはベストコンディションだった。
間合いを計るカムイから目をそらさずにしっかりと視界に捉えたまま、アストールは脳裏でこの戦いに勝つための方策を考える。今回、辛勝はできない。それではカムイに出奔を諦めさせることができないし、そもそもギリギリの状態ではあっという間にひっくり返されてしまうだろう。
(いえ、まあ、ギリギリにはなってしまうのでしょうけど……)
それをカムイに悟らせてはいけない。少なくとも表面上は圧倒しなければならないのだ。カムイ相手にそれをするのは、アストールにとっては相当の難事である。ただ彼の精神状態が最悪なのはプラス材料だ。下手な演技でも、よほどのボロを出さなければバレることはないだろう。
それでどう勝つかだが、「表面上は圧倒」という条件を考慮に入れると、やはり意識を刈り取るのが一番だろう。そのためには強力な一撃をクリティカルヒットさせる必要があるが、アストールの手札でそれを実現するのは難しい。
というのも、彼が繰り出しうる強力な一撃というのはすでに二度、しかもまともにヒットさせている。つまり〈エアロ・エンチャント〉を付加した風の刃と、〈サンダー・エンチャント〉を付加した雷撃だ。
だがそれらの攻撃も、一時的なダメージにはなったが、すぐに回復されてしまい全体としてみれば全くの無意味だった。つまりアストールが普通に攻撃するだけでは、カムイをダウンさせることは出来ないのだ。
(厄介なのは……)
この場合、厄介なのは【Absorption】よりも〈白夜叉〉だ。あの防御に守られている限り、アストールはカムイにクリティカルヒットを入れることができない。コレを剥ぎ取り、回復するまでの一瞬に一撃を入れる。難しいが、勝つためにはやるしかない。
そこまで考えたところで、アストールは思考を打ち切った。カムイが動いたのだ。彼は地面を抉るようにして“グローブ”を下から大きく振り上げる。そうやって足もとの土や石をアストールへ向かって飛ばすのだ。
「〈プロテクション〉、〈アクセル〉」
対するアストールは、素早く二つの支援魔法を自分にかけた。防御力を上げるものと、身体能力を上げるものだ。飛んでくる石などについては、これで耐える。これが牽制であることは明白。そうである以上、下手に動いて体勢を崩したり、カムイを見失ったりするわけにはいかないのだ。
カムイが飛ばした土や石が、アストールの身体のあちこちに当る。土はともかく、石は当ると結構痛い。額に一つ当ってしまい、彼はわずかに顔をしかめた。しかしそれでも、視線は相対するカムイから外さない。その気概と集中力は流石だった。
「〈ソーン・バインド〉」
石つぶてをくらいつつ、アストールは三つ目の魔法を唱えた。今度は拘束魔法だ。だが警戒されていたのだろう。カムイはサイドステップでその魔法を回避する。そしてそのまま、彼は前に出た。
「……ッ」
その圧力に、アストールは息を飲んだ。顔が引き攣りそうになるが、それは堪える。余裕ぶった演出はまだ必要なのだ。ただ何もしないでいれば間違いなく顔面を潰されてしまう。それで彼はバックステップでカムイから距離を取った。
幸いにして、〈アクセル〉の効果がまだ残っている。そのおかげで、アストールは一歩で大きく距離を取ることができた。しかしそれでも身体能力と言う意味ではカムイの方が上。稼いだ距離も含め、間合いは二歩で潰される。
だがこの場合、アストールにとって重要なのは稼いだ距離ではなく時間。その間に彼は準備を終えていた。最近繰り返していた極大型モンスターの乱獲。アレにはポイントを稼ぐだけでなく、戦闘訓練という意味合いもある。そして訓練をしていたのは、彼もまた同じなのだ。
「〈ソーン・バインド〉」
アストールが魔法を唱えると同時に、カムイはまたしても、それこそ獣じみた反射神経を発揮してその場から飛び退いた。しかし今度はその魔法を回避しきれない。理由は単純。魔法は二つ分あったのだ。
「これは……!」
カムイが驚いたような声を上げた。一つの詠唱で同じ魔法を二つ発動させる。この技術に彼は心当たりがあった。キュリアズが使う〈ミラースペル〉だ。そして実際、今アストールが使ったのはその〈ミラースペル〉である。
初めてキュリアズの〈ミラースペル〉を見たとき、アストールは純粋に感心した。実戦向きで、使い勝手のいいスキルだと思ったのだ。そして同時にこうも思った。これなら自分も覚えられるのではないか、と。
それでキュリアズからコツを教えてもらい、戦闘訓練中に練習していたのだ。そうしたら、わりと簡単にできた。何しろ、彼のユニークスキルは【支援魔法】そのもの。この分野に関して言えば、間違いなく世界最高の能力を持っている。その能力がいかんなく発揮されたのだ。
ただし、特性上〈ミラースペル〉には向かない魔法もあった。例えば〈アクセル〉だ。この魔法は重ねがけをしようとすると、一回分が弾かれてしまう。これは魔法の特性なので、技術だけではどうしようもない。
その点、〈ソーン・バインド〉は〈ミラースペル〉と組み合わせるのに向いた魔法だった。しかもアストールは独自に研鑽を重ね、二つの魔法を同時にではなくわずかにずらして発動させることができるようになった。つまり一つ目の魔法への反応を見ながら、二つ目の魔法を発動させられるのだ。ちなみに今回カムイを捕まえたのも、〈ミラースペル〉そのもののおかげと言うより、こういう工夫が功を奏したといった方がいいだろう。
「くっ……、ハァ!」
「〈エアロ・エンチャント〉!」
拘束されたカムイが、〈咆撃〉を放つ。アストールは〈テトラ・エレメンツ〉に風属性を増幅する支援魔法をかけてそれを迎え撃つ。つまり衝撃波に風の塊をぶつけて相殺するつもりなのだ。だが実際には〈咆撃〉の方が強く、威力をそぐことしかできなかった。
(くっ……、それでも、これで……!)
相殺し切れなかった衝撃波に全身を叩かれながら、しかしアストールは内心で会心の笑みを浮かべた。これで仕込みは済んだ。ここから先は時間との勝負。幸い、〈プロテクション〉がまだ効いていたおかげで、ダメージはそれほど大きくはない。痛みを無視し、彼はすぐさま次の行動に移った。
「〈フレイム・エンチャント〉。……いきますよ、カムイ君」
アストールがそう声をかけると、彼が何をするつもりなのか悟ったのだろう。拘束から抜け出そうともがいていたカムイは顔を引き攣らせた。それに構わず彼は〈テトラ・エレメンツ〉に魔力を込める。火災旋風がカムイを襲った。
「あああああっ!?」
カムイは悲鳴を上げた。ただ、決して酷いダメージを負ったからではない。自分の周囲で炎が吹き荒れるというその状況に焦ったのだ。そして焦りそのままに“グローブ”を振り回す。本来であればあまり褒められた選択ではなかったのだろうが、結果的にそれが拘束を解き炎を散らすことに繋がった。
「こんのぉおおおぉぉぉ!」
怒りに任せて雄叫びを上げ、カムイが“グローブ”で炎を振り払いながら姿を現す。火災旋風のど真ん中にいたというのに、彼の身体や衣服には焦げた痕が少しもない。それだけ〈白夜叉〉の防御力が優れているのだ。
アストールもそれは承知している。それで彼としても、コレで決着が付くとは思っていなかった。火災旋風はただの目くらまし。彼はその間に〈アクセル〉をかけ直し、素早く移動してカムイの背後に回り込む。
「ちっ」
炎を振り払ったカムイが、しかし目の前にアストールがいないことに気付いて視線を左右に走らせる。そして視界の端に彼の姿を捉えて、今度は驚愕に目を見開いた。なんと彼は杖を思いっきり振りかぶっていたのだ。
「はああああああ!」
気合のこもった裂帛の声。杖を振りかぶる姿も、なかなか様になっている。かじった程度だろうが、以前に棒術のようなものを習っていたのだろう。もしかしたら、こうして実際に戦ったこともあるのかもしれない。
しかしそれでも、カムイは脅威を感じてはいなかった。確かに驚きはした。何しろ、純粋な魔法使いであるアストールが物理攻撃に打って出たのだ。まったく予想外で、意表を突かれた、と言っていい。しかし、それだけだ。〈アクセル〉を使っていようとも、彼の攻撃で〈白夜叉〉の防御を抜くことはできない。そう思っていた。
だから、油断した。そしてアストールはその油断に最大限付け込む。この決定的なタイミングで彼は切り札となる仕掛けを発動させた。
「〈トランスファー〉!」
「っ!?」
アストールが魔法を唱えたその瞬間、カムイは今度こそ呆然とした。白い炎のように揺らめき彼を守っていた〈白夜叉〉のオーラ。そのオーラが突然引き剥がされたのだ。完全に消えてしまったわけではないが、目方は十分の一以下にまで減っている。これでは鉄壁の防御力は期待できない。
原因はもちろん、魔力の奪取によるエネルギー不足。しかしどうやってそれを成したのか。〈トランスファー〉を使うためには相手に触れなければならないのだが、しかしアストールはカムイの身体どころかオーラにすら触れていないのに。
種明かしをすれば、アストールはちゃんとカムイのオーラに触れていた。ただし手ではなく、細い魔力糸によって、である。先ほど〈咆撃〉を防いだとき、アストールは〈エクシード・マギ〉を使って魔力を糸状にし、それをカムイに向かって飛ばしてくっ付けておいたのだ。
ただし、これにはリスクもある。魔力糸をくっ付けて置くということは、彼のユニークスキル【Absorption】の影響を受けるということでもある。つまり魔力を吸収されてしまうのだ。〈トランスファー〉を使えば回復できるものの、その場合この仕掛けがネタバレしてしまう。同じ手はもう通用しないだろう。
仕掛けを隠しておくためには、時間と共に魔力が減っていくのを容認しなければならない。だが魔力が減りすぎてしまえば、魔法使いである彼は何もできなくなってしまう。だからこそ、時間との勝負だったのだ。
「はあああああ!」
そしてアストールはその勝負に勝った。油断していたカムイは防御もできず、横に振りぬかれた杖の一撃が吸い込まれるようにして彼の眉間にきまる。そして杖がへし折れると同時に、そのまま彼の意識を刈り取った。
― ‡ ―
時間は少し遡る。カムイが【HOME】から出て行き、それをアストールとイスメルが追いかけていった、その後のこと。起床した呉羽は顔を洗ってからリビングへと向かう。階段に近づくと、リビングがなにやら騒がしい雰囲気に包まれていることに彼女は気がついた。
「おはようございます。……どうかしたんですか?」
呉羽がそう問い掛けると、まず振り返ったのはミラルダだった。彼女はどこか困ったような、それでいて呆れたような顔をしている。そんな顔をされても何が起きたのかさっぱり分からず呉羽が首をかしげていると、彼女のもとにリムが切羽詰ったような表情を浮かべながら駆け寄ってきた。
「カムイさんが……。それに、トールさんもいないんです……!」
「カムイとトールさんが?」
さすがに怪訝な顔をして、呉羽は階段を足早に下りる。そしてメンバーが固まっているその中へ首を突っ込んだ。その中心にいたのはカレン。彼女は手に小さなメモを持っていて、険しい表情でそれを睨んでいる。
「カレン?」
「…………」
呉羽が声をかけると、カレンは無言のまま手に持っていたメモを彼女に差し出した。それを見て呉羽は目を見開く。そして勢いよく頭をあげる。まるで助けを求めるように周囲のメンバーを見渡す彼女の顔には焦りの色が浮かんでいた。
『今までありがとうございました、さようなら。 カムイ』
メモにはそう書かれていた。間違いなくカムイの字で、書かれているのは別れの言葉だ。「家出の置手紙みたいだな」と呉羽が思ったのは、ある種の現実逃避であったに違いない。
「あのバカ……」
苛立ちの滲む声で、カレンはそう呟いた。カムイがなぜこんな夜逃げじみたマネをしたのか、彼女はおおよそ察しが付いている。つまり、考えても答えが出なかったのだ。いや、答えは出たのかもしれない。出たが、しかしその答えはカレンか呉羽を、もしくはその両方を傷つけるものだったのだ。
(まあ、実質的にどっちかを選べって迫ったようなものだから、それも分からなくはないけど……)
告白し、呉羽の気持ちを指摘した上で、ちゃんと考えろと言い渡したのだ。どちらかを選べとは言っていないが、しかし異世界出身の呉羽を含め、三人は一対一でお付き合いすることが普通とされる社会で生活していた。考えぬいた末に二者択一に突き当たった、というのはありえる話だろう。
(でもだからって……)
逃げなくてもいいではないか。カレンは苛立たしげにそう思った。そもそも自分はちゃんと三人で話し合おうと言ったのだ。それなのに話し合うこともせず、あんな書置きだけ残して出て行ってしまうとは。
情けないというべきか、優しすぎると考えればいいのか。どちらにしてもムカムカする。逃げ出したのだとすればそんなみっともない真似はして欲しくなかったし、優しさが拗れた結果だとすればそんな気遣いは迷惑なだけだ。
それでもカムイに愛想が尽きることはない。カレンはむしろそのことに安堵した。これが惚れた弱みと言うやつか。カレンはそう思いつつため息を吐く。そしてそうしていると、なんだか少し落ち着いてきた。
(まったくもう……。ヘンなところで思い切りがいいんだから……)
その思い切りの良さがいい方向に発揮されたのが彼女を庇った事故のときで、悪い方向に発揮されたのが今回と言うことなのだろう。そう考えると、なんだか怒るに怒れない。しょうがないなぁ、と思いつつカレンは内心でそう嘆息した。
(それに……)
それに、今回の出来事はカムイだけの責任ではない。彼が悩んで苦しんだその一因は、カレンとの婚約関係にあったと考えて間違いないだろう。となればそれが白紙撤回されていることを隠していた彼女にも、責任の一端があるといえる。カレンは自責の念を強く感じた。
でもやっぱり、こんな夜逃げじみたことをしなくてもいいではないか。せめてちゃんと話し合いたかった。そうしたら自分だって隠していたことをちゃんと話しただろうに。そう思うと、カレンはまたムカムカしてきた。
(うん、一発殴ろう)
そう決めてから、カレンはチラリと呉羽の方を窺った。彼女は本当に訳が分からないらしく、あたふたと取り乱している。その様子からは、彼女のカムイへの想いがどう変化したのかを知ることはできない。突然のこの状況に、まだ心が付いていっていないのだろう。カレンはそう思った。
「それで、その、トールさんもいない、というのは……?」
混乱した様子だった呉羽が、メモとメンバーの間で視線を行ったり来たりさせながらそう尋ねる。この書置きにはカムイの名前しか書かれていない。それなのにどうしてアストールの名前が出てきたのか、疑問に思うのは当然だった。
「ソレを見つけて、急いでトールさんを呼びに行ったら、トールさんもいなくて……!」
そう答えたのはリムだった。今にも泣き出しそうな彼女を見て、呉羽の頭が少しだけ冷える。彼女はリムの頭を優しくなでると、そのまま抱き寄せて背中を摩った。
「もしかして、二人で一緒に出て行ってしまったんでしょうか……?」
「いや、それはないだろう」
呉羽の脳裏をよぎった最悪の可能性を、しかしデリウスが即座に否定した。彼のその意見に、隣にいたキュリアズも思案げな顔をしながらこう同意する。
「そうですね……。アストールさんが一緒なら、出て行くにしても事前に一言あるはず。直前に誘われたのなら、むしろ引き止めるでしょうし……」
「じゃあなんでここにいないのさ?」
ルペが少し苛立たしげにそう尋ねるが、しかし確かなことを答えられるメンバーはいない。重い沈黙がリビングを支配しそうになったそのとき、玄関の方から物音がした。どうやら誰かが外から帰ってきたようだ。
「カムイ!?」
その物音を聞いて、呉羽が飛び出した。一瞬遅れてカレンも彼女に続く。他のメンバーもぞろぞろと玄関へ向かった。玄関にいたのはしかしカムイでもアストールでもなく、なぜかイスメルだった。
「イスメル、さん……? カ、カムイとトールさんを知りませんか!?」
「その二人なら、今しがたアストールをカムイのところへ送ってきたばかりですよ」
「っ、ど、どういうことですか!?」
そう詰め寄る呉羽に、イスメルは事情を説明する。朝早く起きたアストールは、リビングでカムイの書置きを発見。すぐに連れ戻さなければと思ったが、しかし普通に追いかけても追いつくことはできない。それでイスメルを叩き起こし、【ペルセス】で彼のところまで送ってもらった次第だ。
(ん……? ということは……)
その説明を聞いて、カレンはちょっと首をかしげた。ということは、今の今まで、イスメルもまた【HOME】にいなかったことになる。それがアストールのように問題にならなかったのは、彼女が朝寝坊の常習犯で、カレンが起こしに行くまではリビングに降りてこないからだ。そのため、あの場にいたメンバー全員が彼女はまだ部屋で植物と戯れているものと思い込み、いないことに気付かなかったのである。
(ってか、師匠、アストールさんに起こされて起きるんだ……)
カレンはちょっと脱力する。毎朝イスメルを部屋から引きずり出すのに、彼女はそれはそれは涙ぐましい苦労をしているというのに。まさか弟子だと思って我儘を言っているのではないだろうか。そんな疑惑さえ浮かんでくる。明日からアストールにこの役目を代わってもらえないだろうか。カレンはワリと本気でそう思った。
ちなみにロロイヤもまだ姿を見せていないのだが、これもまた気にするメンバーはいない。部屋で妖しい研究をしているか、妖しい研究のしすぎでまだ寝ているのだろう。彼の行動パターンはこの上なく不安だが、この上なく分かりやすくもあるのだ。
まあそれはそれとして。イスメルの説明を聞いた呉羽は、ひとまず最悪の予想が外れたことに安堵する。アストールがカムイを連れ戻しに向かってくれたというのは、一つ明るい知らせだ。しかし同時に別の思いもこみ上げてくる。彼女はそれをそのままイスメルにぶつけた。
「どうしてイスメルさんだけ戻ってきたんですか……? 二人で説得すればカムイだって……」
「アストールに任せて欲しいと言われましたから。それに、二人だけのほうが話しやすいこともあるでしょうし」
「そんな……!」
思わず呉羽は呻いた。それなりに長い付き合いだし、アストールのことはもちろん彼女も信頼している。しかしカムイはここまで思い切った行動に出たのだ。今更、説得の言葉に耳をかすとは思えなかった。
説得に失敗すれば、最後の手段しかない。つまり力ずくだ。だがアストールは完全後衛職にして、〈テトラ・エレメンツ〉しか攻撃手段を持たない。そんな彼が力ずくでカムイを連れ戻すなんて、どう考えても不可能なように呉羽には思えた。
そしてカレンもまた、内心で同じことを考えていた。アストールが練達の魔法使いであることは知っているが、しかし彼が得意とするのは支援魔法。間合いやポジション以前の問題として、一対一で戦うことには致命的に向かない。
一方のカムイだが、彼はカレンたちと一緒にイスメルとの厳しい稽古を重ねている。ユニークスキルが直接戦闘に関わるものではないとはいえ、彼は間違いなくファイターでアタッカーだ。アストールと戦うことになれば、十中八九は彼が勝つ。それがカレンの見立てだった。
このまま放っておけばアストールの説得は失敗し、カムイは帰ってこない。要するにそれが呉羽とカレンの予想だった。二人の表情が揃って険しくなる。先に不安に耐え切れなくなったのは呉羽のほうだった。
「わたし、わたしもカムイのところへ連れて行ってください!」
「まずはアストールに任せましょう。こういうことは男同士の方が、気兼ねがなくてうまくいくものです。きっと大丈夫ですよ」
イスメルは呉羽の肩に手を置いて、言い聞かせるようにそう言った。しかしそれでも呉羽は少しも安心できない。むしろ彼女が事の重大さを良く分かっていないように思えて苛立つ。他のメンバーにも協力して欲しくて視線を向けるが、しかし彼らの反応は呉羽の期待とは裏腹だった。
「ふむ、ではまずはアストールを待つとするか」
「まあそれが良かろうな」
「夕日をバックに殴り合い……。萌える……」
「ところで、今日の予定はどうするのじゃ?」
「それはアストールが戻って来てから、ロロイヤの爺さんと要相談だな」
そんな言葉を交わしながら、アーキッドたちはリビングへ戻っていく。そんな彼らの反応に、呉羽は背中を見送りながらますます苛立ちを募らせる。そして彼女は居ても立ってもいられなくなり、ついに玄関から外へ飛び出した。結い上げられていない、艶やかな彼女の髪の毛がなびく。
「待って!」
呉羽を呼び止めたのは、彼女を追って外へ出たカレンだった。呉羽は足を止めはしたものの、しかし振り返ろうとはしない。そんな彼女の背中へ、カレンはこう尋ねた。
「どこへ、行くの?」
「カムイを、追いかける」
「連れ戻す、ために?」
「連れ戻したいと、思っている。だけど、もしカムイがどうしても帰りたくないと言うなら……、その時はわたしも一緒に行く」
少し硬い声で、しかしはっきりと呉羽はそう答えた。冗談を言っているようには聞こえない。実際、彼女は本気だった。
だがカムイと一緒に行くということは、つまりここを離れメンバーとも別れるということ。これはかなり大きな決断だ。それを呉羽はほぼ即決してしまった。その決断力というか思い切りの良さは、たぶんカムイ以上だ。
(いえ、それだけ正樹のことが好きなのね……)
カレンはそう思った。そう考えた方がしっくり来るし、納得できる。確かに呉羽はそういう少女だ。
一方でカレン自身の内心は複雑だった。カムイを想う呉羽の気持ちは相当強い。それはひしひしと伝わってくる。そのことに否応無く危機感を抱かされるが、しかしその一方で申し訳なさも覚える。婚約が白紙撤回されていることを隠して、これまでずっと彼女にしなくていい我慢や遠慮をさせてきたからだ。
ただ、それももう、今回のことで限界らしい。カレンの沈黙をどう解釈したのかは分からないが、呉羽は拳を握りしめて身体を震わせながら、彼女に背中を向けたまま搾り出すようにしてこう言った。
「……好きなんだ、カムイのことが。どうしょうもなく」
酔っていたあの時をノーカンとするならば、呉羽がカムイへの想いを口にしたのはこれが初めてだった。その相手がカムイ本人ではなくカレンだったというそのことが、彼女が置かれた状況や抱え込んだ事情の拗れ具合を物語っている。
(ああ、言っちゃった……)
呉羽の告白を聞き、カレンの胸にどこか諦めにも似た感情が湧き起こる。だが不思議と嫌悪感は覚えない。むしろなんだか羨ましくすらあった。
(そっか、あたし、呉羽のことが羨ましかったんだ……)
ストンと、カレンはそう納得した。彼女の方がカムイにずっと近い位置にいたというのに、これはおかしな話かもしれない。しかしそれが彼女の素直で正直な気持ちだった。何ら負い目を感じることもなく、罪悪感を覚えることもなく、ただ真っ直ぐにカムイを好きで居られる呉羽が、カレンは羨ましかったのだ。
ただ実際には、呉羽は負い目を感じていたし、罪悪感を覚えていた。とはいえそれはカムイに対してではなく、むしろカレンに対してである。それは二人が婚約者同士であることに起因するものであったから、本当ならば呉羽はそのことで苦しまずに済んだのだ。だからカレンはカムイだけでなく呉羽に対しても負い目があるといえたし、また彼女自身それを自覚していた。
だが同時に、呉羽に対して思うところもある。酔っていたとは言え、彼女は肝心の告白をなかったことにしたのだ。しかもその後はカムイのことを避けていた。事情を考えればカレンにそれを責める筋合いはないのだが、しかしどうしても「なんで今更!」という気持ちが湧いてくる。
もうカレンの頭の中はグチャグチャだった。たぶんカムイもそうだったのだろうし、今目の前にいる呉羽も同じだろう。つまり三人して頭の中がグチャグチャなのだ。だったらもう理性的に考えても仕方がないと開き直り、カレンは言いたいことを言うことにした。
「……うん、知ってるわ。キスしてるところ、見ちゃったし」
「……っ」
「本当は覚えているんでしょう? カムイに告白したことも、キスしたことも」
「……ッ、ああ、覚えて、いる」
一瞬ビクリと身体を震わせてから、呉羽はカレンの指摘を認めた。そもそも呉羽が覚えていなくてもカレンが覚えているのだ。今更「覚えていない」とシラを切ったところで意味はない。なにより呉羽はもうこれ以上、自分の想いを偽って無かったことにはしたくなかった。
「あたしもね、告白したの。好きだって。だから呉羽が怒るのを承知で言うわ。『カムイとは、あたしが一緒に行く』」
「それが……っ、それがっ、一番自然なんだって、分かってるっ! だけどっ、だけどっ、諦められないんだっ!」
そう叫んで、呉羽は振り返った。激情のままにつり上がった彼女の目からは、しかし透明な涙が流れ落ちている。そして彼女は、全身を強張らせながら、ゆっくりと愛刀【草薙剣/天叢雲剣】の柄に手を添えた。それが意味することはただ一つ。カレンが退かないなら、実力行使に打って出る。その決意の表明だ。
「あたしだって、あたしだって諦めたくないっ!」
それを見てカレンは柳眉を跳ね上げた。そしてそう叫ぶと、彼女は腰に吊るした双剣を引き抜いて構える。「そっちがその気なら応戦する」という意思表示だった。
純粋な実力を比べれば、呉羽の方が圧倒的に強い。しかしそんなことはもはやどうでも良かった。抗いもせずに、戦いもせずに二人を見送るだなんて、そんなことは死んでもイヤだった。
「泥棒猫と言われたっていい……。わたしは……、行くんだっ!」
そう叫んで呉羽は愛刀を鞘から引き抜き正面に構えた。目に浮かぶ光は壮絶で、重い風が彼女の周囲に渦巻く。間違いなく、彼女は本気だった。ただカムイの場合と同じく、メンタルコンディションは最悪と言っていい。
カレンが付け込むべき勝機は、たぶんそこにしかない。しかしそうだとしても、彼女には言うべきことがあった。
「一つだけ、言っておくわ」
「なん、だ……?」
「実はね、正樹とあたしの婚約は、白紙撤回されているの。だから、呉羽は泥棒猫なんかじゃないわ」
「っ!」
その瞬間、呉羽は泣き笑いのような表情を浮かべた。彼女は愛刀を構えたまま涙を堪えるが、しかしその甲斐なく新たな涙がその頬を流れる。彼女は顔を俯かせると、左腕の袖で目元をゴシゴシと拭った。そして再び顔を上げると、その目に浮かぶ光は幾分落ち着いたものになっていた。
「……ありがとう。これで、憚るところはなにもない。わたしは、カムイを追いかける」
「いいえ。カムイを追いかけるのはあたしよ」
それだけ言葉を交わすと、二人の少女はそれぞれ黙って意識を集中し剣気を高めた。カレンも呉羽も、手に持った得物以外は着の身着のままと言っていい。特に呉羽は防具を何も身につけていないから、普段に比べ戦闘能力は格段に落ちる。カレンが普段着ているエルフの装束にもわずかながら動きを補助する効果があるので、彼女もまた万全の状態とはいい難い。
しかし二人とも気迫と集中力はいつも以上だった。むしろ外付けの力に頼らない分、五感が鋭く研ぎ澄まされている。いわばトップギアの状態だ。装備品はあくまで装備品。能力の精度という点では、二人ともあるいは今が過去最高の状態かも知れなかった。
じりじりと、二人の少女は剣気をぶつけ合いながら間合いを計る。単純に得物だけを比べば、間合いが広いのは呉羽の方。しかしカレンはイスメルから習った〈伸閃〉を得意としているし、呉羽も風の刃を飛ばす〈風切り〉という剣技を使う。間合いを見切るのは簡単ではない。
「はああああああ!」
「やああああああ!」
視線をぶつけ合うこと数秒。二人はほぼ同時に地面を蹴って前に出た。そうして凄絶な恋の鞘当て(後にキキ談)が始まったのである。