壮大な回り道4
藤咲呉羽の家庭事情は複雑である。彼女は庶子で、母と娘二人だけの、母子家庭で育った。ただその母は彼女が幼い頃に病で死んだ。そして藤咲家に養女として引取られた。藤咲家には、歳の離れた兄が一人いる。
「もとの世界に、妹が、いるんだ……」
呉羽はルペにそう言った。彼女が言う妹とは、同じ母親から生まれた妹ではない。血の繋がらない、つまり藤咲家の末娘でもない。半分だけ血の繋がった、同じ父親を持つ妹である。余談であるが、呉羽のために藤咲家を探したのは、この父親だった。
父親の姓は津守という。つまり津守家だ。そして津守家はいわゆる陰陽師の家系だった。呉羽が父親に引取られなかったのも、それが関係している。つまり彼女には陰陽師としての資質がなかったので母親と二人暮らしだったし、その母が死んだ後も津守家に引取られることなく養子に出されたのだ。
「なにそれヒドイ!」
「あっちの世界では、良くあることだよ」
憤るルペを、呉羽はそう言って宥めた。「良くある」というのは、決していいことではないだろう。ただそういうことが良くあるおかげで、藤咲家は呉羽を快く引取り、そして大切にしてくれたともいえる。これを「不幸中の幸い」というのは、あるいは皮肉かも知れない。
さて母親が死に、藤咲家に養女として引取られるまでの間、彼女は父親の家である津守家で生活していた。妹と会ったのはそのときだ。ただ、紹介されたわけではない。むしろ津守家では、子供たちを遭遇させないように気をつけていたのではないだろうか。呉羽はそう思っている。
しかしそれでも、二人は出会った。
津守家で生活する間、呉羽に宛がわれたのは広い敷地の隅にある、いわゆる離れだった。別に監禁されていたわけでも、軟禁されていたわけでもないので外に出るのは自由だったが、しかし当時の彼女は母親を失ったばかりの幼子。生来の活発さはなりを潜め、部屋で大人しくしていることが多かった。
あまりに大人しいので、やがて呉羽は放っておかれるようになった。彼女の世話は基本的に津守家の使用人たちが行っていたのだが、彼らにとってそれはいわば余計な仕事。幼くして母親と死に別れてしまった少女を不憫には思うものの、しかし彼女にばかりかまけているわけにはいかない。
それで、手がかからないのをいい事に、やがて放置気味になってしまったのだ。彼女の大人しさに大人たちが油断した、ということなのだろう。そしてそれが、誰も思っても見なかった邂逅へと繋がったのだ。
「ある日、ふと窓の外を見たら、とてもいい天気でな。離れのすぐ近くには野花が咲いている場所もあって、ちょっと外に出てみようと思ったんだ」
この時周りに大人がいれば、呉羽はその人に声をかけただろう。しかし例によって彼女は一人。それで彼女は誰にも告げずに外へ出た。とはいえ、そう遠くへ行くわけではない。目的の場所は、子供の足でほんの数十歩程度のところだった。
季節が良かったこともあるのだろう。色鮮やかに咲き誇る瑞々しい野花を見て、幼い呉羽は頬をほころばせた。あるいは母親を亡くしてから、初めて浮かべた笑顔だったかもしれない。
白い色の花に手を伸ばす。少し躊躇ってから、彼女はその花を摘み取った。そのまま鼻に近づけると、青臭い香りがする。周囲には同じ白い花がたくさん咲いていたので、呉羽はそちらにも手を伸ばし、そして花冠を作り始めた。
しばらくして花冠が完成すると、呉羽の目に涙がこみ上げてくる。花冠の作り方を教えてくれたのは彼女の母親だ。一緒に作ったこともある。けれども今は一人ぼっち。楽しかった思い出が、胸に突き刺さる。
そんな時である。呉羽が妹に、津守桜華に出会ったのは。
『わあ……! すごい、お花のかんむり! きれい!』
彼女、桜華は目を輝かせながら呉羽に近づいた。その視線は呉羽が持つ花冠に注がれている。呉羽はそれに気付くと、鼻をすすってからぎこちない手つきでその花冠を彼女の頭に載せた。
『あげる』
『わぁぁ……! ありがとうございます!』
きちんと躾けられていたのだろう。桜華は満面の笑みを浮かべると、勢いよく頭を下げてお礼を言った。あまりに勢いがよすぎて花冠が落ちてしまい、呉羽は小さく笑いながらもう一度それを彼女の頭に載せた。
『一緒に、作ってみる?』
『ホント!? やる!』
顔を輝かせながら、桜華は歓声を上げてそう答えた。そして二人は並んで座り、一緒に白い花を摘んで花冠を作る。大した話はしなかったし、その時はお互い名前を名乗ることも忘れていた。当然、お互いが腹違いの姉妹だなどということは、二人とも知るはずもない。けれどもそれは確かに温かい時間だった。
それが、呉羽が桜華と過ごした最初で最新の思い出だ。その後、二人が顔を合わせることはなかった。その時のことで大人たちから何か言われたり叱られたりしたわけではなかったが、恐らく二人を合わせることがないよう、手回しがされたのだろうと呉羽は思っている。
「あの時の女の子が妹、津守桜華であることは、藤咲の家に行って、津守の家のことを調べていたときに、初めて知ったよ」
少し自嘲気味な口調で、呉羽はそう話した。津守家は陰陽士のなかでも名門で、しかも藤咲家には伝手が多い。調べるのは比較的簡単だった。年齢的に考え、彼女こそがあの日の少女であることを確信した時、呉羽は言葉にできない衝撃を味わった。
当時、津守桜華はすでに陰陽士としての仕事を始めていた。陰陽士としての仕事とはつまり、怪や悪霊などの調伏であり、戦闘を伴うことも珍しくはない。あの日の少女が、自分よりも幼い少女が、そんな危険なことをしているのだ。それを想像して、呉羽は胸を締め付けられた。
「妹さんのこと、心配?」
「……ああ、心配だ」
少し躊躇ってから、呉羽は自分の心情をそう言葉にした。その気持ちが強くなったのは、実はこの世界に来てからだ。モンスターという異形を相手に戦闘を経験し、桜華が身を置いている世界を、少なくともその一部を初めて理解できたのである。
最初の戦闘は、恐ろしかったことしか覚えていない。終わってみれば圧勝だったわけだが、あそこまで明確な殺意と悪意をぶつけられたのは初めてだった。身体は硬直し、足が震えた。倒した後は、思わずへたり込んでしまった。
戦闘そのものには、すぐに慣れた。それはプレイヤーとしての高い身体能力と、強力なユニークスキルがあったおかげだ。モンスターに対し、プレイヤーの方が圧倒的に強いことが分かり、それが余裕に繋がったのだ。
その一方で、呉羽はこんなことも考えるようになった。桜華のほうはどうなのだろうか、と。
戦闘には慣れたが、しかし最初に味わった恐怖は鮮明に思えている。しかも桜華にはユニークスキルなどというものはない。手持ちの才能だけでなんとかしなければならないのだ。恐怖に耐えながら気丈に戦う妹の姿が、呉羽の脳裏に浮かんだ。
バイアスが利いているのは認めよう。しかし呉羽にとって、桜華の姿はあの日の幼い姿のままで止まっているのだ。それが基準になってしまうのは仕方がない。か弱い妹が戦う姿に、彼女は胸を痛めた。
デスゲームが始まってからカムイと合流するまでの間、呉羽はずっと一人きりだった。さらに情報も何も入ってこないから、考えるのは自然ともとの世界のことばかりだ。家族のことがしきりに頭をよぎったのは、ある種のホームシックだったのかもしれない。
それでも自暴自棄にならずに済んだのは、このゲームの設定のおかげだった。ゲームがクリアされたら、プレイヤーはもとの世界のもとの時間軸に戻る。初期設定の際に、確かにそう聞いた。
言い方を変えればもとの世界の時間は止まっているのだ。こうしてゲームを攻略している間は、少なくとも桜華がさらに危険な目に遭うことはない。そう自分に言い聞かせ、呉羽は心の平静を保った。
「それじゃあ、クレハがこの世界に来たのって、妹さんのため?」
「いや、わたしが叶えたかった願いは、もっと個人的なことだよ。受け継げなかった、その力が欲しかったんだ」
ルペの問いに、呉羽は苦笑しながらそう答えた。彼女の願いは「血の繋がった家族と暮らすこと」であり、そのために彼女は陰陽師としての能力を求めていた。その力さえあればすべては上手く行くと、そう思っていたのだ。
けれどもカムイと合流し、それから〈山陰の拠点〉へ向かい、そこでアストールやリムと出会うと、彼女の願いは少しずつ変化していった。ユニークスキルを持つ集団のなかで、彼女はふとこう考えたのである。
『もし、ユニークスキルがなかったら』と。
きっと見向きもされなかったに違いない。それどころか嘲弄され、差別され、理不尽に迫害されるのだ。リムやアストールを見よ。ユニークスキルが戦闘向きではないという、ただそれだけで冷遇されてしまっている。では無能な者がどういう扱いを受けるのか、火を見るよりも明らかに思えた。
そしてその時、呉羽ははたと気がついた。それはつまり自分が津守の家に引取られた場合と同じなのではないか、と。周りが陰陽師ばかりの環境で、しかしその力を持たない呉羽が津守の姓を名乗ってそこに混じったらどうなるのか。その結果を想像し、彼女はようやく父親の考えに想いをはせられるようになったのだった。
決して、厄介払いをされたわけではなかった。そう思えるようになった時、呉羽は自分がいかに身勝手だったかにも気がついて恥ずかしくなった。特に藤咲の両親には申し訳ない気持ちでいっぱいである。あれだけ良くしてもらったのに、その恩をまったく顧みていなかった。あの人たちはきっとそのことに気付いていただろう。それなのに彼らは呉羽のことを暖かく見守っていてくれたのである。それは紛れもない、家族の温かさだった。
「血の繋がった家族と一緒に暮らしたい」という当初の願いは、徐々に薄れていった。結局、無いもの強請りをしていただけなのだと気がついたのだ。それまでの自分が我儘な子供に思えてきて、恥ずかしさのあまり寝袋の中で悶絶したものである。
その一方で、陰陽師としての能力はやはり欲しいと思っている。いや、別に陰陽師でなくてもいいのだが、もとの世界でも戦える力が欲しい。それが今の呉羽の願いで、それを目標に彼女はゲーム攻略に励んでいた。
戦う力を求めるその根底は、やはり桜華のことがある。彼女は戦っている。戦っているのだ。呉羽は自らの意志とは関係なしにその舞台から弾き出されてしまったが、しかし彼女の場合はその逆だ。自らの意志とは関係なしに、戦いの中へ放り込まれてしまった。そして生まれ持った血筋と力は、彼女がそこから逃れることを許さない。
それが不幸であるとは言わない。けれども傍から見たときに、自らの意志で戦うことを選んだ今の呉羽の立場から見たときに、それをどことなく歪に感じるのもまた確かだ。だからこそこう思うのだ。
「いつか桜華が辛くなった時に、助けてあげられるお姉ちゃんになりたい」と。
それが、呉羽が今このデスゲームを戦う理由だ。それをもう一度、彼女は再確認する。そうだ、それが戦う理由なのだ。他のことに目移りしているだなんて、そんなことは許されない。桜華のためにも、一日も早くこのデスゲームをクリアしなければならないのだ。恋にかまけている暇などない。ない、のだ。
「ねえ、クレハは妹さんのためだけに戦ってるの?」
「それは……」
コチコチに固めた呉羽の心を、ルペの言葉はいとも容易く突き抜けた。桜華のためだけに戦うだなんて、そんなことできるはずがない。呉羽には大切な仲間がいる。彼らのことを度外視するのは不可能だ。したいとも思わない。
『ねえ、クレハはこの世界に来て良かった?』
ルペは先ほどそう尋ねた。それに対し、呉羽は「良かった、と思っている」と答えた。それは本心だ。この世界に来たことに後悔はない。むしろ多くのものを得たと思っている。力も仲間も経験も、すべてこの世界でなければ得られなかったものだ。前途は確かに多難だが、しかし同時に希望もまた同じくらいたくさんあるのだと、呉羽はそう信じている。
「クレハってさ、結構頭でっかちだよね」
「そ、そんなことはないぞ!?」
唐突なその指摘に、呉羽は若干声を裏返らせながらそう答えた。しかしルペはニヤニヤと意地悪げな笑みを浮かべながら、さらにこう言葉を続ける。
「そぉう? でもクレハってさ、『こうあるべきだ』とか、『こうするべきだ』とか、そういう考え方を結構してない?」
呉羽は頬を引きつらせながら視線を泳がせた。心当たりはある。カムイと距離を取ろうと思ったのは、まさにそんな考え方をしたからだ。まさかそれを見抜かれたのだろうか。しかしここで大げさに反応すれば図星と認めるようなもの。呉羽は努めて平静を保つ。それをどう解釈したのか、ルペはさらにこう続ける。
「クレハはさ、何ていうか、もっと我儘になっていいと思うんだよね。もちろん人に迷惑かけちゃダメだけど、この世界でもっと自分のやりたいことをやってもいいんじゃないかな?」
「……ルペはやりたい事があるのか?」
呉羽がそう尋ねると、ルペは「あるよ!」と言って勢いよく身体を起こした。そしてやりたい事を指折りながら数え始める。
「いろんなところを見てみたいし、もっといろんな人からいろんな世界の話も聞いてみたいな。もちろん温泉も入りたい。あとはね、結婚もしたいし、そしたら家族で一緒に空を飛ぶのも楽しそうだよね」
「け、結婚って……。そ、それ本当にこの世界で……?」
「そうだよ。何かヘン?」
「いや、ヘンではないけど……。ルペは意外と欲張りなんだなぁ……」
呉羽が苦笑気味にそう言うと、ルペは「ニシシ」と少し得意げに笑った。そしてご機嫌に足を揺らしながら、自分の考えをこんなふうに語る。
「アタシはさ、プレイヤーはもうこの世界の住人でもあるんだって思ってる。もちろん願い事は叶えたいけど、時間がかかることは分かってるんだから、その間はデスゲームの枠に囚われずに、もっと自由でいいと思うんだ。この世界でじゃないとできないことは、きっといっぱいあるはずだしね」
「この世界でじゃないと、できないこと……」
「そ。そういうことをやらなきゃいけないとは思わないけど、何て言うのかな……。そういうところに、デスゲームとかそういう思惑は抜きにして、アタシたちがここへ来た理由とか意味とか、そういうものがあると思うわけですよ」
それはたぶん、運命とか因果とか、そういうものなのだろう。呉羽はそう思った。大仰な言葉は抜きにしても、ルペの考え方は彼女には新鮮に思える。「この世界が現実だ」という意識はちゃんと持っているつもりだが、それでもまたデスゲームという枠に囚われていたのかもしれない。
まあ、この世界を舞台にデスゲームを攻略しているのは事実なのだから、そこに囚われるという言い方は変かも知れない。ただルペの言いたいことも分かる。ストイックになり過ぎず、視野をもっと広く、ということだ。
そもそも結婚して子供を作ることに関しては、攻略の一部と言うことができる。ポイントが発生するからだ。モンスターを倒したり、瘴気を減らしたりする以外にも、この世界の再生に寄与する方法はあるのだ。視野が狭くなっていては、そういう方法を見落としてしまうだろう。
「この世界に来た意味、か……」
「なんか大げさな言い方だけどね。でも、やっぱりあると思うんだ、そういうのって」
苦笑を浮かべるルペの言葉に、呉羽は小さく頷いた。デスゲームは抜きにしても、この世界に来た意味は確かにある。いや、あって欲しい。彼女はそう思った。そして彼女の気持ちが徐々に傾いてきたのを察したのだろう。ルペが力強くこう言った。
「だからさ! 絶対に造ろうね、温泉テーマパーク!」
「へ? 温泉テーマパーク?」
急激な話題の転換に、呉羽は思わず間の抜けた声を出した。なぜここで温泉テーマパークが出てくるのか。てっきり遠回しにカムイやカレンとのことを言われているのだと思っていたのに。しかしそんな呉羽の内心の困惑をよそに、ルペは目を輝かせ握りこぶしを作りながら、さらにこう言葉を続ける。
「そうだよ! クレハから話を聞かせてもらって、アタシすっごく楽しみにしてるんだからね」
呉羽は確かに何度か、ルペにもとの世界の温泉テーマパークの様子を話したことがあった。彼女はずいぶんと熱心に聞いていたが、呉羽も同好の士を相手に熱弁を振るった記憶がある。その“布教”の成果がコレかと思うと、誇らしさよりもさきに物悲しさを感じてしまうのはなぜだろう。
「…………つまり、ルペはわたしが最近ちょっとストイックすぎるように見えて、温泉テーマパークの話が反故になるんじゃないか心配したと、そういうことか?」
「うん、そう!」
元気よくそう答えるルペに、呉羽は思わずため息をついた。つまり今までは壮大にすれ違ったまま話をしていたのだ。「この世界に来た意味」って何だ。ちょっと頭が痛い。痛いだけじゃなくて混乱している。そのせいで、気付いたらこんなことを口走っていた。
「わたしはてっきり、カムイとのことで来たんだと思ってたのに……」
「え、カムイがどうかしたの?」
「いや、なんでもない。なんでもないぞ」
「あ、そういえばココへ来る前にカムイがなんか合図をくれたから適当に頷いておいたんだけど、それって向こうも心当たりがあるってこと?」
「うわあ、やめてくれ!」
思わず呉羽は声を上げた。カムイがルペに合図したということは、つまり避けていることにバッチリと気付かれているということだ。自然に振舞っていたはずなのにどうして、と彼女は頭を抱えた。しかしこの際、より重要なのはそういうことではない。
避けていたことに気付かれたのであれば、その行動が例の告白やキスと関係しているということも、すぐに察しが付くだろう。なかったことにしたはずの告白が、ここへきて復活したようなものである。途端に恥ずかしくなって、呉羽は手で顔を覆った。
加えて言うのなら、その反応が良くなかった。つまり二人の間に恥ずかしがるような何かがあるのだと、ルペに教えてしまったのだ。そしてそんな面白そうな話を彼女が見逃すはずがない。
「ねえねえ、カムイと何かあったの?」
好奇心に目を輝かせながら、ルペは呉羽に詰め寄った。仲の良い男と女に何かあったとなれば、色恋沙汰と相場が決まっている。そして世界を問わず女の子はそういう話が大好きなのだ。
「え、ええっと……」
呉羽は視線を泳がせる。そんな彼女にルペはずいっと詰め寄った。その視線は猛禽のように鋭く、そして鼻息は牛のように荒い。結局、誤魔化すことはできず、呉羽はすべてをゲロった。
「うう、もうお嫁にいけない……」
「いや、むしろさっさとお嫁にいけばいいと思うんだけどなぁ……」
真っ赤に染まった顔を両手で隠しながら悶絶する呉羽に、ルペは若干投げやりな口調でそう言った。お腹いっぱいごちそうさま、と言うヤツである。合図をくれたことから察するに、カムイだって呉羽のことを憎からず思っているはず。だったら、本当にさっさとお嫁に行けばいいのだ。
「いや、だってカムイには婚約者のカレンがいるし……」
「別に、一夫多妻なんて珍しくないじゃない」
呉羽が渋ると、ルペはあっさりとそう言った。有翼人の男は大抵戦士になる。ワイバーンと戦う彼らは、当然死傷率が高い。男性の方がたくさん死ぬわけで、そうなると相対的に女性の方が多くなる。一夫一婦制では女性の方が余ってしまうので、有翼人の社会では一夫多妻制が普通だった。
ただ、それはあくまでも有翼人の社会の話である。呉羽が生まれ育った社会では、一夫一婦制が普通。一夫多妻制、下世話な言い方をすれば一人の男性を複数の女性で共有するというやり方は、倫理的にも生理的にも抵抗を覚える。しかしルペの言葉は容赦がない。
「じゃあ、諦めるの?」
「…………っ」
改めて真正面からそう問われ、呉羽は咄嗟に答えることができなかった。想いは封じて距離を取る。そのつもりでいたというのに、しかしはっきり言葉にしようとすると、途端に喉が固まってしまう。それはまるで、心の拒否反応のように思えた。
「無責任なことは言えないけど、ここは異世界なんだからさ。あんまりそういうことは気にしなくてもいいんじゃないかな」
「…………」
「あはは、ごめん。なんか、偉そうなこと言っちゃったね。でもさ、ここのところ、クレハ、全然笑ってないよね?」
「…………っ」
「笑えないのなら、それが答えじゃないかなぁ」
ルペの言葉が呉羽の心に突き刺さる。確かに祝勝会の後、楽しく笑った記憶はない。むしろ塞ぎこんでいた。まだほんの数日なので表には出さずにいられたが、しかし苦しかったことに変わりはない。
そう苦しかったのだ。笑顔が消えてしまうほどに。ルペから指摘されて、呉羽はようやくそのことに気がついた。そして一度気付いてしまうと、もう目をそらすことはできない。もうしばらくなら我慢できるだろう。けれどもすぐに耐えられなくなる。それくらい苦しくて辛いのだ。好きな人から距離を取らなければならないのは。
そしてこの先、例えばカムイとカレンが正式に付き合って結婚したとする。その時、自分は二人を心から祝福できるだろうか。呉羽はそう自問し、しかし「できる」と自答することはできなかった。その光景を想像しただけで、胸が締め付けられてしまう。だが我慢して距離を取り続けた先にあるのは、まさにそういう光景だ。
「アタシは、やっぱりクレハには笑っていて欲しいな」
「ルペ……」
ルペの言葉が、呉羽の心にしみる。けれども、ではどうすればいいのだろうか。答えは出ない。出なかったからこそ、距離を取るという選択肢を選んだのだ。客観的に見て、それが一番丸く収まる方法に思えたからだ。だが実際には収められないかもしれない。自分が笑えていないことを指摘され、呉羽はそう思うようになった。
(きっと、もう……)
きっと、もう元の形には戻れないのだ。ならば丸く収めるのではなくて、別の形を模索しなければならない。そうしなければ、呉羽が心から笑うことはできないのだ。ただ現実の問題として、前述したとおり模索はしたが答えは出なかった。
「アタシも考えるよ。いい方法。一人よりは、多分マシだから」
「ルペ……」
「だからさ、カムイとのこと、もっと聞かせて?」
「それは堪忍してください……」
ちょっと泣きが入った呉羽である。そんな彼女を見てルペがおかしそうに笑った。そしてつられるようにして呉羽も笑う。数日ぶりに笑って、彼女は少しだけ心が軽くなったような気がした。
(ああ、ルペがいてくれて良かった……)
呉羽はそう思った。相談できる相手がいる。話を聞いてくれる相手がいる。それがどんなにかありがたいことか。
ちなみに、やっぱり全部ゲロった。
― ‡ ―
〈ゲートキーパー〉を撃破してから五日目。この日も、まだ〈ゲートキーパー〉は再出現しなかった。〈魔泉〉の偵察に出ていたイスメルとカレンが戻ると、朝食のときに話し合って決めておいた予定通り、メンバーは極大型モンスターの乱獲を開始した。
場所はもちろん例の丘の上で、メンバーは十三人全員が揃っている。なんと瘴気を浄化するよりも稼ぎの効率がいいので、戦力の分散は避けることにしたのだ。リムががっかりしているかもとカムイは思ったのだが、逆に「〈セイクリッドバスター〉でぶっ飛ばしてやります!」とやる気を滾らせていた。頼もしいことである。
カムイとカレン以外のメンバーは、すでに向上薬を服用してある。ちなみに三倍十二時間のヤツだ。そしてイスメルとカレンが配置に付くと、アーキッドがキュリアズに声をかける。それに一つ頷いてから、彼女は【祭儀術式目録】を開いた。
「いきます。……囲い、括り、閉じ込めろ、【ラプラスの棺】!」
展開されたドーム型の結界が、〈魔泉〉をすっぽりと覆って蓋をする。その内部に瘴気が勢いよくたまっていく様子が、丘の上からもよく見えた。そしてほんの一分ほどで【ラプラスの棺】は限界を迎える。身構えるメンバーの目の前で結界が吹き飛び、そして中から巨大なモンスターが飛び出した。
「ギギィィィィイイイイイ!!」
雄叫びを上げて現れたのは、イノシシに似た極大型のモンスターだった。巨大で、体高は20mくらいもあるのではないだろうか。ナイフのように鋭い牙が下あごから生えている。赤い二つの目は小さくつぶらだが、しかしその輝きの禍々しさはまるでこの世の全てを憎んでいるかのようだった。
「ギィ! ギギィ!」
〈魔泉〉の縁に降り立ったモンスターが、噴出す瘴気を背中にして、嘶きながら前足で地面を掻く。その不吉な赤い目が見据えるのは、カムイたちが陣取る小高い丘。そしてモンスターは耳障りな雄叫びと一緒に後ろ足で身体を持ち上げ、前足をつくと同時に猛烈な勢いで走り始めた。
(まさに猪突猛進……!)
カムイは内心で慄き気味にそう呟いた。彼の視線の先では、イノシシ形の巨大モンスターが地響きを立てながら猛然と迫ってくる。その圧たるや結構なものだ。あの勢いのままに体当たりされたら、その威力は〈ゲートキーパー〉の一撃にも匹敵するだろう。ただし、当ればの話であるが。
モンスターが近づいてくるのを無為に待つ必要はない。距離の利を生かすべく、まずは魔弓を持つルペが仕掛けた。相手が反撃できない場所から一方的に攻撃するのは、戦術の中でも上策なのだ。
「そっこぉ!」
元気のいい声を上げながら、ルペが魔弓を射る。放たれたのは【太陽の矢】だ。極大型のように巨大な体躯を持つモンスターには、普通に魔弓を射るだけでは効果が薄い。それで使い捨てのマジックアイテムを使っているのだ。コストはかかるが、その分の成果はきちっと上げてくれるので、なかなか重宝していた。
黄金色の尾を引きながら、【太陽の矢】が宙を駆け抜ける。そしてモンスターのごつい背中に突き刺さり、次の瞬間に爆発した。その衝撃でモンスターの身体が揺らぐが、しかし倒れない。そこへさらにもう一発、二本目の【太陽の矢】が撃ち込まれた。
「ギィィィィィイイ!?」
モンスターは悲鳴を上げながら、今度こそ引っくり返った。だが倒したわけではない。少なくないダメージは負わせたものの、その巨体はいまだに健在だ。苛立たしげに頭を振りながら立ち上がり、赤い不吉な目に怒りを滾らせて丘とそこにいるプレイヤーたちを睨みつける。そして再び猛進するべく全身を力ませるが、しかしその時にはすでにチェックメイトがかけられていた。
「打ち据え、貫き、牙を突き立てろ。【ボルテック・ゾア】!」
銃身にも似た魔法陣が展開される。そして戦略級の魔力砲撃が放たれた。その一撃は、起き上がって態勢を整えていたイノシシ形のモンスターに直撃する。そして文字通り消し飛ばした。モンスターは回避どころか悲鳴を上げる間もなく消滅したのである。モンスターの一部だったものが瘴気へと帰り、あとには大きな魔昌石だけが残った。劇的というよりは、あっけない幕切れだった。
「あ~、イスメル。回収してきてくれ。ポイントに変換してしまって構わないから」
「了解です」
イスメルの背中を見送ると、その場にはなんともいえない雰囲気が漂った。戦闘は完勝であったと言っていい。遠距離から一方的に攻撃し、敵には何もさせずにそのまま屠った。味方の損害は皆無。まさに理想的な展開である。
しかしその一方で、盛大な肩透かしを喰らった感はいなめない。そもそも今日の狩りはポイントを稼ぐことだけが目的ではないのだ。そのことをデリウスがこんなふうに指摘する。
「二人とも、少し残しておいてくれ。すべてそうやって倒されてしまっては、我々の訓練にならないからな」
その要請にルペとキュリアズの二人は揃って頷いた。そしてミラルダが【祭儀術式目録】に魔力を込めて消費したストックを回復すると、そこへちょうどイスメルが戻ってくる。味方に損害は出ていないので回復する必要もない。すぐに二回目が始まった。
さてこの日、カムイたちは午前中に十回、午後に十回、合計で二十回の狩りを行った。回数は多いが、しかし二十体の極大型モンスターを一度に相手したわけではない。一体ずつを二十回というのは、慣れもあるのだろうが、思った以上に余裕があった。
その証拠に、ポーションを一度も使わなかった。ダメージを負わなかったわけではない。接近戦になれば、どうしても多少のダメージは負う。ただ重症を負うことはなかったので、すべて戦闘後に回復魔法で処置したのだ。当然、消費した魔力はカムイとアストールで回復した。
一日の稼ぎは合計で1億Ptと少し。前回と同じく、一体あたりの平均は約500万Ptである。ということは、この数字は【ラプラスの棺】の強度に依存するものなのだと予想された。
「さらに強力な結界が張れれば、平均値も上がるかも知れんぞ?」
上機嫌な様子でロロイヤはそう言った。彼は祝杯なのか琥珀色の液体に氷を浮かべてグラスを傾けている。彼の言うことは多分本当だろう。より強力な結界を張れば、内部にはより多くの瘴気がたまる。結果としてより強力なモンスターが出現し、それを倒せばより多くのポイントが稼げるという寸法だ。
ただ、現状で【ラプラスの棺】以上のものを用意するのは難しい。ことさら強い敵と戦いたいわけではないし、稼ぎ的にも十分なので、カムイとしては平均値を上げる必要性は全く感じなかった。
さて今回の稼ぎだが、まずかかった経費の分を差っ引き、さらに次回の経費分として500万Ptを取り分けた上で、残りを全員に分配した。一人当たりだいたい700万Pt弱である。現時点でこれほど稼いでいるパーティーは、彼らのほかにはないだろう。
(それにしても、良かった……)
夕食を食べながら、カムイは胸中でそう安堵の息を漏らした。チラリと伺う彼の視線の先にいるのは、ルペやフレクと談笑する呉羽だ。
今日の戦闘で、彼女は前回のような無茶な戦い方はしなかった。表情も切羽詰ったような色が消えていて、少し落ち着いた様子だった。「頭が冷えた」といった風だが、カムイは少し違うと思っている。きっとルペが上手く話してくれたのだ。
ただその一方で、カムイたち三人の関係はいまだにぎこちないままだった。このままではダメなのだということは、たぶん三人とも分かっている。分かってはいるが、行動に移せない。いや、どう行動すればいいのかもよく分からない。
(でも、ひとまずは、良かった……)
カムイは自分にそう言い聞かせる。わずかばかりであっても、状況は好転した。少なくとも最悪の方向へは進んでいないはず。あとは時間をかけて対処していけばいい。このときカムイはそう思っていた。
それが甘い考えだったと思い知らされるのは、翌日のことである。
今回はここまでです。
続きは気長にお待ちください。