少女憐憫譚
小学校三年生のとき、クラスで飼っている金魚が死んだ。
みんなが気持ち悪がっている死体を大事そうに両手で掬って校庭の隅に埋めてやったのは亮子で、小石で墓標を作って両手まで合わせている彼女を先生はひどく褒めた。
「なんて優しい子なんだろう!」
確かに亮子は優しい。
今のクラスで私をいじめないのは亮子だけだから。
だからといって亮子と仲がいいということでもない。
彼女は変わり者だから。
◇◇◇
誰もついてきていないことを確かめて校舎裏へ逃げ込む。
そのまま校舎と体育館の間の隙間に体を滑り込ませてうずくまる。
大丈夫、休み時間特有の種々雑多な歓声は遠くて、わたしを追ってきていたやつらの気配も、ここにはない。
ほうっと安堵のため息をついた唇の隣に、濡れきった前髪からたれた滴が一筋流れた。
もちろん制服もぐっしょりと濡れているわけで、どこですりむいたのか膝からは血が流れている。
何しろトイレに入っていたら上からいきなり水をかけられ、驚いて飛び出したところ追い回されて、廊下を引き回されてされたのだ。
ひざの傷ほどひどくはないものの、あちこちに擦り傷やアザができて……痛い。
「は! こんなことをして何が楽しいのかしら」
悪態まじりにつぶやいてみてもここでは誰も聞いてはくれない。
だから急に空しい気分になって、水で重たくなったスカートの裾をしぼった。
繊維にしみこんでいた水分がジャバっと音を立てて足元に流れ落ち、ずり落ちそうなくらいに重たかったスカートが少しだけ軽くなる。
なんだか心も少しだけ軽くなったような気がした。
その爽快さに慰められるような気がして、スカートを絞るという行為に集中しすぎていたのかもしれない。
「かわいそう……」
その声はすぐ背後から聞こえた。
慌てて振り向けばウサギを抱いた亮子がこちらをのぞきこんでいた。
恥ずかしさで体がかっと熱くなり、つい、怒鳴る。
「なに見てンのよ!」
かなり強く怒鳴ったつもりだったのだが、亮子は無反応だった。
彼女の腕の中のウサギも。
ごくありきたりな風に微笑んで、彼女は言った。
「そんなところにいないで、こっちにいらっしゃいよ。誰もいないから大丈夫」
そのとき初めて、私は彼女に抱かれたウサギがぐったりと体をだらしなく弛緩させていることに気づいた。
毛並みはちょうど私のようにびしょぬれで、まるで、いましがた池から引き上げられたような……
「死んでるの!?」
驚きの声は悲鳴に似ていたはずだ。
それでも亮子は眉ひとつ動かさなかったのだから、自分で思ったほど大きな声は出なかったのかもしれない。
亮子はふんわりと微笑んだまま、死体をこちらに掲げて見せた。
「わたし、飼育委員だから」
それがウサギの死体とどう繋がるというのか……ああ、飼育委員だから後始末も仕事のうちなのか……と納得するよりも速く、彼女はその死体をきゅうっと胸の前で抱きしめた。
「かわいそうでしょ?」
確かに亮子は優しいのかもしれない。
私だったらあんなに汚いボロ雑巾みたいな死体、気持ち悪くて抱きしめたりなんかできない。
「本当にかわいそう……」
いつの間にか亮子がこちらをまっすぐに見ているから、それが私に向けられた哀れみの言葉なのだとすぐに気づいた。
「いままで助けてあげられなくてごめんね。でも、大丈夫。もう、そんなかわいそうな目にはあわせないから」
ああ、亮子はやっぱり優しい。
彼女はウサギの死体を片手に抱いたまま、もう片方の手を私にさしのべてくれた。
「ほら、こっちに来て。お葬式をしましょう?」
フシギと力強いその声には一切の嘘がない
だから安心して……私は彼女に向けて手を伸ばす。
細い指が絡まるように繋がれる。
安堵が体中に満ちる。
こんなつらい日があるなんて思いもしなかった無邪気な日、幼いころに母に抱きしめられて守られていたときのような、そんなぬくもり。
「ね、行こう?」
耳のすぐ裏に吹きかけるように唇を寄せた、優しい囁き声。
逆らおうとはひとつも思えない。
だって、亮子は優しい。
手を引かれるままに、気が付くと私は校舎の裏庭の隅っこの藪まで連れてこられていた。
藪といっても大げさなモノではなく、学校の隣の空き地に十数本の雑木が折り重なって生えているだけ。
それでも隠れるにはちょうどいいくらい背の高い草がびっしりと雑木の間に茂っている。
亮子は生い茂った草を慣れた手つきで掻き分けて藪の中へと入り込んだ。
私の手はしっかりと握られたまま。
だからついていくしかない。
草の中を進みながら、亮子が不意にひょいと片足を上げた。
「『墓標』があるから、蹴飛ばさないように気をつけてね」
その足元には、なるほど、握りこぶしより少し大きい石が不自然な感じで置かれている。
細長い楕円形の石なのだが、長い辺のほうが縦になるように、ご丁寧に根元は地面にしっかりと埋められて天に向かって突き出すように。
これが墓標なのだと、一目でわかるほど不自然に置かれている。
「ここにはね、学校に来る途中で見つけた、車にはねられたかわいそうなワンちゃんが埋めてあるの」
「そんなの、捨てておけばいいのに」
「捨てておいたらもっと車に轢かれて、ぐちゃぐちゃになって、かわいそうじゃない」
ぞくっと、脛から上に向かって寒気に似た感覚が走った。
なんだろう、彼女が『かわいそう』という単語を口にするたびに胃の辺りがぞわぞわする。
ぞわぞわ、ぞわぞわと、吐き気があがってくる。
だから、不快感と一緒に口から出たのはいやみったらしい一言だった……はずだ。
「優しいんだね」
それでも亮子は、やっぱり微笑んでいた。
聖母のような、静かな微笑み。
「うん、よく言われる」
そうだ、彼女はいつもこの微笑みで他人を退けている。
クラスの友人がやはりいやみで「優しいね」と声をかけるときも、この微笑みが崩れるのを見たことが無い。
だから彼女は変わり者というレッテルを貼られてはいても、いじめられることは無い。
たぶんみんな、亮子の優しさに気づいているから……?
悩む私の手をそっと放して、彼女はくさむらの中にしゃがみこんだ。
そこにはちょうどウサギがおさまるくらいの穴が掘られていた。
そこに静かな手つきでウサギのなきがらを横たえて、亮子は……微笑みながら両手を合わせる。
「これでかわいそうじゃなくなった。良かったね……」
それから彼女はやおら立ち上がり、傍らにおいてあったスコップで穴にどんどん土を投げ込んでいった。
ひどく慣れた手つきで、どさ、どさりと、土の音がするほど大胆に。
私はなんだか恐ろしくなって、きびすを反そうとした。
だが、亮子は目ざとかった。
「待って。まだお葬式は終わってないよ」
素早く手首をつかまれ、強く引かれる。
その間も亮子は、ずっと優しげな笑みを浮かべていた。
「私は優しいから、かわいそうなものは放っておけない性質なの」
最初にその言葉を亮子に与えたのは誰だろう。
「あのウサちゃんはね、小屋の中で他の仲間にいじめられて、いつも噛み傷だらけで、かわいそうだったの。私に向かって『助けて、助けて』って、いつも目で訴えてたの」
その気持ちが『優しさ』だと、亮子に教えたのは誰?
「だから……あなたがいつも『助けて』って言ってるの、気が付いていたよ」
ひときわ優しく微笑んで、亮子は私を『穴』の前に立たせた。
それは先ほどとは比べ物にならないほど深くて、大きくて……
「やっと、あなたを助けてあげられる」
何の迷いも無く、亮子は私の肩を押した。
深い穴の底に落ちてゆく一瞬の中で、私は思っていた。
――ああ、やっぱり、亮子は優しい……