2 異変と女
ぴぃぴぃと鳴る笛と鈴の音。腹を揺さぶられてシュトリは呻いた。まだ寝かせてくれ、まだ眠いのだ。
しかし次の瞬間、腹にどすんと飛び込まれ、その衝撃に瞼をこじ開けられる。腹の上に、もうすっかり寝巻きから着替え、笛をくわえたお子様が馬乗りになっていた。左右色違いの目でシュトリを覗き込み、ぴ、と笛を吹いた。
「アル……」
シュトリは両手で顔を擦った。ずいぶんと乱暴な起こし方である。普段、アルはシュトリを起こさない。シュトリが起きるとすでに森へと繰り出したあとで、部屋はもぬけの殻だ。子どもながら保護者が疲れているのを知ってなのか、遊ぶことで頭がいっぱいでシュトリのことなぞ頭にないのか。おそらくは後者だ。しかし、今日は何故わざわざ起こしたのか。
「なに……どうした」
昨日、寝ずでいるつもりだったことを思い出し、やってしまったと思った。べったりと引っ付くアルを抱えたまま、いつの間にか眠ってしまったのだ。
「寝て悪かった……」
寝ぼけ眼のシュトリの顔面に、アルが紙を広げた。シュトリは目を凝らした。ヘタクソな字で「かわでひとがたおれてる」。
「お前、川に行くなって言ったろ」
寝ぼけた頭は検討違いなことを喋らせる。
「人……人が倒れてるって本当か?」
ぴゅう、と笛を鳴らし、頷いた。
「化け物じゃなくてか?」
また肯定の笛を吹いた。
「そりゃあまた……面倒な」
正直な気持ちがぽろりと漏れた。ぐうたらして過ごすはずの休暇に面倒事が転がりこんできた。昨日の騒ぎはそれが原因だ。川のあたりも狼の縄張りだが、もう狼が騒がないということは、高い確率で死んでいる。
じっとアルを眺めると特に動揺した様子はない。ということは死体はきれいなままなのだろう。シュトリは重いため息をついた。アルの頭を撫でる。
「……様子見てくるから、お前はここにいろよ」
子どもを腹から下ろし、手早く着替えたシュトリは外へ出た。スコップを片手に獣道を進むと視界が開け、川原に出る。どういう自然現象なのか、一つだけごろりと転がった岩がある。その後ろに白い足が見えた。
おいおい、マジかよ。シュトリは天を仰いだ。恐る恐る岩影を覗く。
四肢を投げ出し、薄汚れた白いドレスの娘がそこに倒れていた。どこかでひっかかったのか、太もものあたりまでスカートが裂け際どい格好だった。山の中に白いドレスなど、普通の格好ではない。確かに顔色は悪いが、死体の色ではなかった。
「おい、あんた、生きてるか。てか人間か」
森で出会う娘にはまったく良い思い出がない。総じて化け物だったからだ。中には本物の人間の娘の皮を被り、謀ろうとした木もある。その木のうろには白骨がつまっていた。
「い、いきなり食いついたりするなよ……おい、あんた」
青白い頬を叩く。娘の横にはショルダーバッグと、嘔吐物がはねちり、すえた臭いを放っていた。さすがに化け物はこんな手の込んだことはしない。遭難者だ。それとも、自殺か。白いドレスで着飾って死のうとでも思ったのか。この樹海は自殺者が多く集まるところだった。しかしそれは樹海のごく浅い表面での話で、普通はここまで奥には入って来ないし、入れない。
岩の間に食べかけのりんごがあった。
「あんた、これ食べたのか」
樹海の果実や木の実は同じ種類でも毒を持つものがある。安易に食べると中毒を起こした。それも身をもって知っている。経験済みだ。
生きていることを確認し、頬を張って無理矢理起こすと、水辺まで引き摺り、水を飲ませ、吐かせた。涙目でぼうっとしている娘は喋る気力もないらしい。
腕を掴み、なんとか娘を背負う。右手首に青い鬱血のあとがちらりと覗いた。シュトリは娘を背に家路を急ぐ。助けなければという使命感の反面、なんで俺が人助けなんか、とシュトリは内心文句を垂れた。白いドレス姿の女が樹海に迷い込むなど、まともな理由のはずがない。休暇が女の世話に費やされる予感がした。だからと言って見捨てるわけにもいかないし、あの川で死なれるのは困る。あそこはアルの遊び場だ。
それにしても、とシュトリは内心で唸った。背中で柔らかい膨らみが潰れている。女に触れるのは約1年振りだ。妙な気分になる。
か細い呼吸の中、娘が何かもごもごと呟いた。
「なんだって?」
私、死ぬの?、と娘が呟いた。シュトリはため息をついた。
「死なねえよ」
アルの手前、死なせてたまるかと娘を背負い直した。あの子どもはもう3度も死を見ている。一度目は兄だ。病気の兄はシュトリと同じように樹海に迷い込んだ教授に幼いアルを託し、池に身を投げた。二度目は教授だ。アルを預かった教授はアルを連れて樹海を出ようと、一人樹海を探索していたところ遭難し、そのまま死んだ。シュトリはその亡骸と偶然対面し、教授の死を知ったが、アルはまだ教授が帰って来ると思っている。もう絶対に帰ってこないとは気がついてはいるようだが、かばんにジャムを入れて樹海を歩き回るのを止めない。三度目は犬だ。アルに残った最後の家族である犬は、アルとシュトリに襲いかかる魔物の楯になり、その傷が元で死んだ。
ぜいぜいと、よろよろと河原を歩く。体力も力もないシュトリには人一人担ぐのは辛く、ごろごろとした河原の石に足を取られる。女一人背負えないとは情けない。リヤカーに乗せて、早く医者の所に運ぼう。
「しっかりしろよ、あんた。すぐ医者に連れていくからな」
消え入りそうな、頷く声が聞こえる。
「あんた、樹海の林檎食べただろ。ここらへんの林檎は人が食えるもんじゃねえんだよ」
重みでずり下がる女をよいしょと背負い直す。腰と腕にくる。もはや初めに感じた妙な気分など一滴も残っていなかった。 河原を過ぎ、森に足を踏み入れる。獣道だが河原より足場が楽だ。体力作りを兼ねて、まともな道にしようと、木の根や邪魔な石を取り除き、平らに均した甲斐があった。小さくなったアルが躓いて転ぶために始めたことだった。
せっせと女を背負って道を進む。シュトリはぜいぜいと、早く早くと速足になった。森がざわつき始めたのだ。一歩進むたび、アルが待つ家に近づくに連れて木々のざわめきや、鳥の鳴き声が激しくなっていく。森に異物が入り込んだ時の反応だった。どうしてか、この森は外部のものが入り込むを嫌う。アルとシュトリ以外の人間を拒み、迷わせる。シュトリだって不用意に道を逸れれば迷ってしまう。迷わないのはアルだけだ。
左の真新しい獣道から、がさがさと茂みが揺れる音がした。はっと見ると黒々とした狼がじっとこちらを見ている。
シュトリは女を背負い直し、駆け出した。後ろで遠吠えが聞こえた。樹海のあちこちで遠吠えが上がる。本能的な恐怖に肌が粟立った。――狩られる。
狼の軍団は幸いなことに近くには居なかったらしく、なんとか家に駆け込むことが出来た。ドアを閉めるとき、庭にはどっと数頭の狼が飛び込んで来ていた。きょとんとしたアルに鍵をかけさせ、ひとまず女を床に下ろした。静かだと思ったら眠っていたらしい。衰弱からのものだとわかっていても、呑気なやつめと思わざるを得ない。飛びついてきたアルの背中を撫でながら、息をつく。なんとか狩られずにすんだ。外では遠吠えが続いている。
アルはぴぃぴぃと笛を鳴らしてシュトリを見上げ、女を見た。
「生きてたから助けたんだよ」
「……」
アルはじぃっとシュトリを見た。何か言いたげだが、まさか視線だけで思いが分かるわけがない。
濡れた女を見た。着替えさせねばなるまい。
「着替え……」
萎んでいたやましい気持ちがもやもやと浮かんでくる。腹にくっつく子どもを見て、いけないと思い直す。背負った女の重さと狼に追われたことを思い出すと急速に欲求は萎み、悪態まで出てくる。クソ重かったし、すんげー怖かったぞ。
「着替えはどうしたらいいんだろうな? 男ものしかねえんだが」
シュトリの服では大きすぎるが、仕方ないと立ち上がる。そういえば、とはたと立ち止まった。教授とアルの兄の服が残っている。あれならちょうどいいとアルを見下ろして、やめた。アルを刺激するようなことはしたくない。アルはシュトリの袖を握り、じっと女を見ている。
シュトリは自分の服を用意し、桶に湯をくむ。叩いても起きない女の服をなんとかかんとか剥がして全裸にして、無心で泥が跳ね散った手足や顔を拭く。体の方は見てもとくに感想は持たないように努めた。
アルは玄関まで離れて犬のぬいぐるみを抱えていた。女に対して遠巻きだ。白いドレスで樹海に迷い込む女なんて、シュトリだって遠巻きにしたい。絶対にろくな事情じゃない。
女の手首にははっきりと手形がついていた。強い力で掴まれたのか、青く鬱血していた。苦労して服を着せながら、シュトリはかつて自分にも手首に手形があったことを思い出していた。
川に流される中で冷たい青白い手に手首を掴まれ、水面まで引き上げられる夢。夢だと思っていたのは、この森に引き上げてくれる"人間"はどこにもいないからだ。待てど暮らせど、この家には大人は帰って来ず、幼いアルと犬しかいなかった。確かに大人がいた痕跡はあるが、家を開けている時間が数日前や数週間という単位ではなかった。そここに貼られたメモはアルが一人でも暮らせるように注意や指示が書かれたもので、紙の端は黄ばんでいた。危ないから登ってはいけないとメモが貼られた、梯子のような階段の先には埃が積もった屋根裏部屋があり、大人がいた形跡があった。小難しい本や達筆な文字が残された紙、子どもが描けるわけがない、上手いどこかの街や海の絵。
屋根裏にいたのは人間ではなく、幽霊だった。シュトリの手首を掴んだ手のように青白い肌をした、アルの兄だ。紺色のブレザーにパンツ、白いシャツ、胸には金糸の校章が輝いていた。
女を暖炉の前に寝かせ、火を強める。夏と言えども、朝は樹海の気温は上がらない。風呂からタライに温泉を汲み、女の膝を立たせて湯につけた。温泉は近くの源泉から引いているため、いつでも温かいお湯が出る。過去に配管工の経験があったお陰で、業者に頼まなくても自分でできる。というか、樹海には頼んでも誰も来てくれない。 湯タンポを作って布団の中に忍ばせ、とりあえず介抱は終えた。シュトリは息をついた。あとは湯加減を見てお湯を変えれば良いだろう。あとは洗濯だ。洗濯物を抱えて風呂場に移動すると、アルが慌ててついてくる。女と二人っきりでいたくないらしい。そういえばアルは人見知りだった。
「ん、アル。ぬいぐるみ落っことすなよ」
蛇口を捻り、風呂桶に水を溜める。外に雨水を溜めるタンクがあり、そこから引いている。シュトリは女の下着を水に浸した。
「あー」
久しぶりだ、女の下着を触るのは。小さいケツだな、と思い、女の裸を思い出す。
「……」
ぬいぐるみを湯船の縁で跳ねさせているアルを一瞥して、シュトリは石鹸をつけてさっさと洗ってしまうと、さっさと暖炉前の柵にかけた。また風呂場に戻る。その後ろもアルがちょろちょろとついて回る。
「どうした、やけについてくるな?」
濡れた手のひらのかわりに腕で頭をぐりぐりと撫でた。むぅ、とアルはうなり、シュトリの腰に抱きついてくる。やたらと甘えただ。
白いドレスのスカートは生地が縦に思いっきり引き裂かれていて、泥がはねちっていた。捨てるしかないような有り様だったが、人のものだ、退屈そうだったアルに足で踏んで洗って貰う。アルの得意な手伝いは洗濯である。水遊びの延長でしかないが。
「おー、よしよし。いい子だな。助かったよ」
満足げなアルを誉め、丸めて絞るとこれは風呂場に干しておく。大きすぎて絞りきれず、水が滴ってしまうからだ。
部屋に戻って足湯のお湯を取り替えた。かばんを思い出し、中身を暖炉の前に広げておく。金と、身分証だ。ミラ=リアラ=リカルド=サンコール=イーズと長い名前が刻まれている。所在地は樹海を超えた先にある村だ。
シュトリは女の側に居たがらないアルを抱えて、ベッドで相手をして午前を過ごした。
午後、アルは緊張しっぱなしで、流石に疲れたのか、シュトリに抱かれているうちに眠りに落ちた。アルは女がいることにそわそわと落ち着かず、緊張で体を強ばらせていた。
シュトリは腕の中の幼児をまじまじと見た。あまり眠らないアルの寝顔は珍しい。じっくり見たことはなかった。アルは眠っていても眠りが浅く、野生動物のように感覚が鋭いため視線ですぐ目を覚ます。
アルは痩せてはいるが、頬は子どもらしくふっくらとしている。薄茶の睫毛は短いが量は多い。少し口の開いた、気が抜けた表情はシュトリを信頼しているためか。シュトリにしがみついて眠るアルについ頬が緩んだ。かわいいじゃないか。これでもう少し血色と肉があれば良いのだが、食べる量はなかなか増えないし、体温は低いままだ。そういう体質なのかもしれない。
アルはずっと一人でいたせいか淡白だ。普段無闇にぐずったりせず、あまり甘えてこないし、手がかからない子どもだ。腕が痛む時はさすがにぐずるため、手を焼くが。子どもの甘やかし方などよく知らないシュトリとしては案外側に居やすくほっとしている。しかしアルとの生活に慣れ始めると、街で同年代の子どもが親にべったりな様子が気になり始めた。アルを引き取ると決めた今、アルの子どもらしくない様子にやきもきし始めていた。これからシュトリが責任持って育てていかなくてはならないのだ。バカンスに入り、四六時中一緒にいる今は、少しずつ甘えが出てきている。やっと膝に乗ったり、くっついてくるようになった。恐らくは甘え方などよく知らなかったのだ。
アルを養子にしたものの、幼子との生活は手探り状態だった。シュトリは親の愛情というものをよく知らない。10歳あたりまで両親と暮らしたが、借金を残して夜逃げしてしまった。お陰で膨大な借金をシュトリと妹が背負うことになった。妹は借金取りにつれていかれ行方不明だし、シュトリは厳しい肉体労働の末に傭兵にまで出され、仕事は雑用といえども前線まで行かされた。親には愛情どころか恨みしかない。それに思い出してみれば両親に抱かれた記憶など持っていなかった。子どもを可愛がる気持ちなど持ち合わせていない親だったのだろう。
このまましばらく抱えていようと、薄手の上掛けを手繰り寄せて、アルの肩にかけて抱き直す。
「んぅ」
眉を寄せ、うっすら目を開いて猫みたいなむずがる声を出したアルに「んー?」と返事を返した。思ったより高い声が出てしまって恥ずかしい。しかし聞いているのはアルしかいないし、アルも寝惚けている。背中を撫でていると、また寝入ってしまった。
シュトリは座椅子にゆったりと腰掛けた。森は相変わらずざわつき、シュトリの心臓も不安で鼓動が速い。ミラを異物と見なしているのだろう。狼が家のまわりを徘徊する今、ミラを外には出せなかった。
今日はもう、いろいろと有りすぎて疲れた。厄介な事情を抱えてそうな女は拾うし、樹海はおかしいし、好意的だった狼には牙を剥かれるし、久しぶりに女の裸を見てしまったし。まだ時間は早いが、瞼が重い。我ながら神経が図太いというか、樹海慣れしたというか。シュトリはアルを抱えたまま、うとうと眠りについた。
* * *
アルの兄がぼうっと立っていた。紺色の制服の後ろ姿が、女の顔を覗き込むように屈んだ。
お前、と呟いたはずの声はいつものように音にならない。しかしアルの兄はゆっくりとシュトリを振り返った。紺色に胸ポケットの金の紋章が目立つ。そして首を振る。
なぜ首を振るのか分からない。ミラが助からないとでも言うのか。
ふっと窓辺に現れ、窓を覗き込む。シュトリを振り返ると首を振る。赤い目が何かを真剣に訴えている。なにか言いたげにシュトリを見た。
窓にぎょろりとした茶の大きな目玉が現れ、シュトリは仰け反った――否、体は動かない。大きな目を囲う、ざらついた皺のある赤い肌は見覚えがある。猿だ。巨大な猿が家を覗き込んでいる。ぎょろぎょろと茶色の目玉は何かを探すように左右に動く。
それを背に兄はミラを指差し、首を振る。
――あの女、なんか連れて来やがった。
シュトリははっと理解した。赤い目がじっとシュトリを見る。ふっとシュトリの頭の中に医者の姿が思い浮かぶ。幽霊は医者に連れていけと言いたいのだ。そしてさっさと追い出せと。
そのつもりだけどな、とシュトリは呟いた。しかしそれも声にならない。樹海が不穏で出ていけないんだよ。
学生はミラの側に歩み寄ると、枕元に座り込む。ミラの頭を撫でていた。しかしその半透明の手はミラの頭に触れられず、指先が頭を突き抜け見え隠れする。それでも学生はミラの頭を撫で続ける。幼子を寝付かせるような、優しげな手の動きにシュトリまで眠りを誘われた。どうしてか、シュトリまで頭を撫でられているような気分だった。
下に目を落とすと、腕の中の幼子は安らかに眠っている。シュトリは穏やかな気持ちで、心地よく瞼を閉じた。