1 異変
夏のレジャーと言えば川釣りである。と言ってもシュトリにはさほど魅力的には映らなかった。なぜなら以前、樹海で遭難したときに食料確保のために何時間も川で粘ったからである。しかし今は樹海から脱し、仕事も得て食料にも金にも困らない身。遅い夏の休暇を取り、アルと飼い猫と共に久しぶりにゆっくりと過ごすため、かつて自分を閉じ込めた樹海に自ら引きこもっていた。
川釣りはアルのお気に入りの遊びの一つだ。シュトリはアルとの空白の時間を埋めようと、連日川釣りに勤しんでいる。
ちなみにシュトリの釣りの腕前はアルにお情けで一匹バケツに入れられるほどだ。アルの方は釣竿を持つとあっさり魚を釣り上げる。3、4匹釣り上げると飽きて、粘るシュトリを置いて猫を構っていた。
この日も朝からのんびりと釣りをしていた。アルのお気に入りの釣り場は、木陰が夏の日差しを遮り、風をよく通す。いつもひんやりと涼しく、森にある家よりも快適に過ごせる。いい避暑地を知ってやがるとシュトリはアルを誉め、敷物を敷き、クッションやお茶、昼食、本や玩具を持ち込み、暑さが和らぐ夕暮れまでここでぐうたらと過ごすのが日課になっていた。虫除けになるキクがあたりに生えているお陰で虫は来ないが、少々独特な臭いがするのが欠点だ。
なかなか反応しない釣竿を持ち、シュトリはうつらうつらとしていた。一通り遊んだアルはシュトリの胡座に座り、胸に寄りかかり、絵本を読んでいた。
猫は無防備にも腹を見せて眠っている。野生の"や"の字もない。
眠たい。アルを膝載せたまま、寝転がろうと上体を倒そうとした。
「アル。蜃気楼だ」
空に浮かび上がった幻をシュトリは指差した。木の緑のすぐ上にゆらゆらと映像が浮かぶ。そこには人が上下逆さまに映っていた。はっきりとしないが、そこは川原で、体格からして男が座り込んでいる。川釣りをしていると、2日に一度は蜃気楼が見えた。時間は日によって違うが、同じ光景が見えた。
いつものようにアルが蜃気楼に手を振り、シュトリも真似して手を振った。
「なんだ、今日は気がつかねえな」
どうも向こうにもこちらが見えているらしく、手を振ると手を振り返してくることがある。逆さまの相手との奇妙な付き合いが続いていた。しかしいつも見えているわけではないようだ。いったいどういう現象なのか知らないが、かすかに声が聞こえてくることもある。元気か、とか飯食ってるかとかそんな肩の力が抜けるような内容だ。
学のないシュトリには蜃気楼が実際どのようなものであるか、わかっていなかった。訳のわからないことが多く起きるこの樹海、気にしたら仕方がないと諦めていた。
「なんかしょぼくれてんなあ、おっさん。なんかあったんか。なあ?」
シュトリを見上げたアルが小首を傾げる。「まあ、生きてりゃいろいろだろうな」とシュトリはぽんぽんとアルの頭を軽く手のひらで叩く。
樹海で遭難し、森の中でたった一人で、犬と暮らしていた子ども――アルと出会い、一年間森で過ごしたお陰で、シュトリは生まれ変わった。短期労働者だったシュトリは職場を転々とし、親の借金、自暴自棄になり賭博と酒で作った借金に追われていた。ある日借金取りと揉み合った拍子に橋から転落し、そのままシュトリは死亡したことになってしまった。ちょうど良いのか悪いのか、数日後に身元不明の水死体が上がったのだ。付近での行方知れずは借金にまみれたシュトリのみ。その頃シュトリは流れ着いた先の樹海で奇跡的に生き延び生活していたが、よくも調査もされずにその死体がシュトリと決めつけられ、荼毘に臥され、その約一年後、顔も知らない親戚が引き取り、葬式をした。ちょうど森から脱したシュトリはその事実を知り、自分の葬式に花を手向けるという奇妙な体験をしている。葬儀と言っても形だけのもので、友人もろくにいないために参列者などいない。喪主の親戚に挨拶をしても、彼らも本当のシュトリの顔など知らないため、気づかれようがなかった。
それからはツテで違法ながら新しい身分証を手に入れ、名前も代えた。戦後の混乱の中で、闇市では違法な商売と割合と繋がりやすい。混乱の中で新しい人物になろうとする客は以外と多いらしい。住まいを樹海の側に移し、酒もタバコも賭博もやめ、がむしゃらに働いた。紆余曲折あってアルを引き取り、怪我をしてからは今いる大手の酒蔵に拾われた。300年も前からある、老舗の有名酒造会社だ。工場よりも遥かに待遇が良く、怪我をしてから無理できない体になったこと、幼い子どもがいることで週に3日、昼過ぎで上がらせて貰えている。
アルとは順調に過ごしている。このまま平穏に暮らせることを願うばかりだ。顔は同じであるので、借金取りに知られる可能性はあるが、"シュトリ"は死亡しているという事実があり、葬式まで挙げている。他人の空似ですませられるだろう。酒もタバコもやめて顔色は良くなり、金銭の不安も消えたためか、顔つきも別人のように柔らかくなっていた。少々太った。
アルがシュトリの胸を叩き、蜃気楼を指差した。首に下げた笛をくわえ、しきりに鳴らした。最近新しく買い与えた小さな笛だ。六芒星の革紐のペンダントに、笛と鈴と家の鍵を付けていつも首に下げていた。
「あぁ?」
見れば蜃気楼の中の男が川の中を進んでいる。上下逆さまなお陰で、どうも危機感がわかないが――川は深く、男は胸の当たりまで水が来ていた。足を滑らせれば川に飲み込まれてしまう。
アルが焦った顔でシュトリを揺さぶり、男を指差す。ぴぃぴぃと鳴る笛とアルが動くたびにちりちりと鳴る鈴がシュトリを責める。
「おい、オッサン、危ねぇぞ!」
アルに促されるまま、代わりに声を張り上げた。すると男がこちらを向き、目が合ったような気がした。顔まではよく分からない。ぐわっと口を開けたのは分かった。顔の下部が赤くなったからだ。
ふとシュトリは耳をすませた。ぴーっ!と暴れるアルから笛を奪い、押さえつける。川のせせらぎ、鳥の鳴き声、木々の葉ずれ以外に何か聞こえてくる。猫もいつの間にか姿勢を整え、耳をピンと立てた。
――む……かえ……
――娘……か……し……
シュトリの耳は男の嗚咽を確かに拾った。アルはぴったりとシュトリに張り付き、耳をすませているようだ。
――娘を返してくれ!
川辺にはっきりと響いた叫びにシュトリはアルを抱えて飛び上がった。
何かを考えるより先にアルを肩に担ぎ上げ、猫を抱えあげた。
――娘を返してくれ!
ひぃぃ、とシュトリは情けなくも悲鳴をあげた。
「知らねえよ、あんたの娘なんざぁ! アル目ぇつぶってろよ!」
ぴ、と笛の返事が聞こえた。笑う膝を叱咤して、シュトリは急いで家に逃げ帰った。背中では男の嗚咽が響いてくる。
シュトリは家に入ると猫を下ろして玄関の鍵を閉めた。アルを抱えたまま窓という窓に鍵をかけ、カーテンを勢いよく引いた。台所の窓だけカーテンがないことがこれほど悔やまれるとは、とシュトリは台所に背を向け、座り込んだ。しっかりとアルを抱え込んだままだ。
「やっぱりただの蜃気楼じゃねえんじゃねえか……心霊現象かよ……勘弁してくれよ……」
水辺は良からぬものが多くいると聞く。
「怖かったな、アル」
下を見ると子どもはきょとんと青と緑の目で見返してくる。ケロリとしたもので決まりが悪い。
そういえば、この子どもも樹海の訳のわからない現象の一部だった。出会ったころは死人のようだった。冷えた体、青白い肌、開いた瞳孔――脈なし、呼吸なし。一閃された喉の傷は致命傷だったはずだ。
動く屍、とこの子どもの今は亡き先代保護者は手記記している。そして今より背が高く、6つか7つくらいだったはずだ。それがシュトリの怪我を切っ掛けに体は小さく、幼くなった。体は温かくなり、瞳孔は収縮するようになり、脈も呼吸もある。シュトリが樹海の奇形生物に負わされたはずの傷は、アルに移った。そのお陰か、シュトリは一命を取り止めたのだった。
「あ、持ち物置きっぱなしだ」
途端にひょいとアルがシュトリの膝から抜け出し、玄関に向かうのをひっ捕まえて膝に戻した。
「明日な、明日。今取りに行かなくたっていいだろうが。てかしばらく川に行くの禁止な」
む、とアルは不満そうだ。
「無理無理無理、呪われたらどうすんだ。な、禁止だ禁止」
不満そうな顔をするアルの頭を撫でて宥める。まだ男の声が残って落ち着かない。
ふとアルが視線を移した。その方向を指をさす。
「……」
シュトリの肩、いや、その向こうだ。背後は台所だ。カーテンがなく、むき出しの窓がある。
そろそろと後ろを振り返る。何も、ない。
「……何もないよな?」
こくん、とアルが頷いた。
「……」
アルはわざとらしく小首を傾げた。
「お、と、な、を、か、ら、か、う、な」
悪い子どもの頬をぶにゅと挟みこんだ。
その真夜中だ。そわそわして眠れないシュトリはアルをかまいつつ、本を読みつつだらだらと起きていた。
読書に飽きたシュトリはあくびをしてラグに転がり、子どもと猫を眺める。
アルは寝そべり、足をぱたぱたとさせながら、猫を弄っている。猫は大人しく、耳を引っ張られても髭を引っ張られても、口をこじ開けられても怒らない。度が過ぎると前足で嫌そうにアルの顔を押す。
アルは眠らない。月に3日眠るだけだ。その上何も食べないし、水分も必要ない。最近は一口は食べるようになったが、そういう生き物だった。昼間のことより、この子どもを恐れるべきなのかもしれない。本当はアルは死んでいて、なんらかの意思がこの身体を動かしているのではないのかとふと思うこともある。今は温かみがあり人間らしさはあるけれど、以前は本気でそう思っていた。
以前は今よりもっと人間離れしていた。透けているわ、見ている前でふっと姿を消しては別の場所に移動している神出鬼没のお子様で、マッチを擦らずに指でつつくだけで火をつける。今は透けることも、いきなり姿を消すことはなくなった。足で移動しろ、という言い聞かせが成功したらしい。火付け役だけはたまにやってもらうが。
アルは撫でているうちに寝てしまった猫を、眠たそうに眺めている。アルは眠らないものの、疲れはあるらしく夜中は何もせずじっとしていることが多い。
「アル、ベッドで横になれ」
動くのも億劫なアルを抱えるようにしてベッドに連れていく。アルは酷く軽かった。比喩でもなんでもなく、風に飛ばされそうなほど軽いのだ。実際、風の強い日は遊びに出ない。何も食べないアルの身体は空洞なのだろう。
笛を外させた子どもを布団に押し込み、シュトリもごろりと横なる。
アルは人とは言えないような異形の子どもだったが、ただの子どもだった。寂しければ泣くし、甘えるし、拗ねるし、怒る。しかしそばに人がいなかったせいか、表情が乏しかった。いつも無表情だ。見慣れてくるとかすかな感情の変化を見とることができた。
のし掛かってきたアルの頭を撫でる。どうもシュトリを敷布団にすることに決めたらしい。温い体が暑苦しいが、甘えさせておく。
ラッコのように子どもを腹に乗せたまま、いくらかうつらうつらとした時だ。突然アルががばりと起き上がった。
「ど、どうした」
ぱっちりと目を開き、玄関を見つめている。つられるように見ると、猫までも起き上がり、玄関の方を向き耳を立てている。
周辺で狼の遠吠えが聞こえ、呼応するように二三聞こえた。
アルが枕元に置いた笛を口にくわえた。
家の玄関で狼が吠える。それに答えるようにアルは笛を短く吹いた。
「なんだ、何が起きてる」
アルは玄関を見つめたままシュトリの腹から下り、玄関を向いて座り込む。――臨戦体制だ。
かすかに悲鳴が聞こえた。女の声だ。それほど遠くではない。シュトリは起き上がり、耳を疑った。ここは地元住民はまず入ってはこない樹海の中だ。ましてや夜中など。この樹海に人はシュトリと、人と数えていいのか、アルのみだ。あとは化け物ばかりだった。その化け物は人に化けることもあった。シュトリはそれに一度生きながら体液を吸われかけている。
この森の中で出会う人の姿をしているものは、まず異形だ。――アルも含めて。
狼が吠える。ここ一帯は狼の縄張りだ。その中心はこの家のすぐに近くにある。たまに縄張りに侵入されると、今のように騒ぎ出した。大抵は中心に近づかれる前に追い払い、家の玄関に一匹が終わりを告げるようにやってくる。
ざわざわと不気味に森が音を立て、鳥が叫んだ。招かれざる客がやってくると鳥、木までが騒ぎ出す。こんなことは前にもあった。巨大な熊のような、しかし皮を剥がされ、身体が爛れたグロテスクな化け物が迷いこんだ時だ。狼は太刀打ちできず、化け物の侵入を許し、シュトリとアル、当時飼っていた老犬を襲った。アルを庇ったときの腕や背中の傷跡はいまだに痛む。特に今のように狼が騒ぎ出すとじわじわと熱を持った。
「何が来てる」
シュトリは起き上がり、壁にかけた猟銃を取った。弾を確認し、窓から外を覗いた。暗くて何も見えない。
ややして、潮が引くように森のざわめきが収まった。とりあえずは招かれざる客の侵入を阻止したらしい。連絡を取り合うかのような狼の遠吠えがよく響く。
振り返るとアルがベッドの下でしっかりと猫を抱いていた。万歳の格好で腹を晒した猫は不機嫌そうに目を細めている。
「今晩寝ずだな。今日はなんなんだ」
ため息をついて壁に銃を戻し、暖炉の前に座り込んだ。薪をくべ、火を強くする。日中は暑いが夜になると寒くなる。森がざわついた夜はどうしてか特に冷えた。背中にくっついてきたアルを抱き上げ、膝に乗せた。猫は定位置の暖炉の前に丸くなる。
「ありゃあ人かねえ、どう思う」
べたりとシュトリにひっついたアルは首を傾げた。そうだよなー、わかんないよなーとわしわしと頭を撫でていたところで、玄関で狼が吠えた。ちょっと待ってろ、と答えたシュトリは台所の棚から取り出したジャーキーを持って、玄関を開けた。そこには一対の目が暗闇の中で爛々と輝いていた。ぽつぽつと生えた夜光きのこが、ぼんやりとその子牛ほどもある影を映した。十分大きいが、あれでまだ子どもの狼だ。そこに目掛けてジャーキーを放る。外敵対処の報告は子どもの狼の役目らしい。
「ご苦労さん」
それをうまく受け取った狼は暗闇に消えていった。
それからシュトリはカンテラを持ち、家の周辺を見て回った。悲鳴が気になったからだ。もしかしたらかつてのシュトリのように遭難者なのかもしれない。狼に死ぬほど追い回されたことがあった。
そこらじゅうに生えた夜光きのこが足元を照らし、森の中は意外にも明るい。しかしそれに安心してはいけない。気を抜くとすぐに迷ってしまうからだ。家の灯りを見失わないように、あたりを歩いた。
がさり、と茂みが動いた。はっとカンテラをかざすと、大きな光る目が覗いた。のっそりと姿を表したのは大きな灰色の狼だった。玄関に来た犬よりもまたさらに大きく、長身のシュトリよりも目線が少し上ほどになる巨大な狼だった。腹が重そうに膨らんでいる。身重なのだ。
「なんだ、灰色か。脅かすなっつの」
じっとシュトリを見つめる目に何か問われているような気になり、「見回りだよ、見回り」と勝手に答えた。
「人間の悲鳴が聞こえたから気になってな」
ぐうう、と狼は牙を剥いて唸った。シュトリはたじろいだ。よく見かけ、襲ってくることはないと分かっていても狼は恐ろしい。
「わかった。帰るよ」
だいたい、もうこの辺に何者かいるとは思ってはいない。もしくは狼が食ってしまったのかもしれない。もし遭難者だった場合、探しもしなかった罪悪感にかられたくないだけだった。目覚めが悪い。
「なあ、人間だったか?」
無駄だと思いつつも、問いかける。大きな鼻で肩を押され、シュトリはわかったよと家に引き返した。狼は玄関先までついてくる。その間、教われるんじゃないかと本能的な恐怖が背筋を凍らせたが、狼はそのような素振りもまったく見せず、家の前に座り込み、じっとシュトリを見た。
「……アルか?」
声が聞こえたのか、玄関からアルがひょっこりと顔を覗かせた。
狼は鼻を寄せてふんふんとアルの匂い嗅ぎ、顔をぺろぺろと舐め上げる。アルは狼の首を撫でたりと恐れることなかった。シュトリは気が気でないが、不思議なことに狼はアルに仇をなすことはしなかった。むしろ外敵から守ってくれている。どうもシュトリが来る前まで、狼がアルの世話をしていたらしい。アルは狼の庇護下にあり、その保護者であるシュトリも同様だった。
アルは狼をひとしきり撫でると、シュトリの腰にひっついた。甘えるような、うるんだ目に、あ、と、以前襲われた後から、アルが森の異変に怯えるようになったことを思い出した。
「……もう出ねぇよ」
狼はふんと鼻を鳴らした。やっと気がついたかと言いたげだ。動物相手に頭が下がる。
「妊娠してんだから、あんま無理するなよ」
負け惜しみのように呟いて、シュトリはアルとひっつけて家に戻った。
狼はぱたぱたと尻尾を振っていた。