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私の価値は、この帳簿が知っています

作者: 夢見叶

「君との婚約は破棄する」

 燭台の炎が揺れた。伯爵家の執務室に、アドルフ様の声が冷たく響く。

「横領犯と添い遂げる趣味はないのでね」

 隣に立つ女性——オーレリア・ブレヒト嬢が、口元を扇で隠しながら笑った。

「まあ、リーネ様ったら。七年もこの家の帳簿を預かっておきながら、まさか手をつけていらしたなんて」

 私は黙っていた。

 違う、と叫ぶことはできた。でも、アドルフ様の目を見れば分かる。彼はもう、私の言葉など聞く気がない。

「弁明は?」

「……ありません」

「そうか。では、三日後の財務監査局の査問会に出席してもらう。それまでに荷物をまとめておけ」

 私は深く頭を下げた。

 七年だ。

 十二歳から十九歳まで、私はこの家の数字を守ってきた。領地の収支、税の計算、商人との取引記録。誰にも褒められなかったけれど、この家の帳簿に一銭の狂いも出さなかったことが、私の誇りだった。

 その誇りが、今日、踏みにじられた。

「下がってよいぞ」

 私は無言で執務室を出た。


 廊下を歩きながら、私は自分の部屋へ向かった。

 涙は出なかった。悔しさはある。でも、それ以上に心が凪いでいる。

 分かっていたのだ。アドルフ様が私を見ていないことは、とうの昔に。

 私には魔力がない。美貌もない。社交の才もない。あるのは、数字を読む目だけ。

 婚約は政略だった。ヴァルトシュタイン子爵家が持つ「帳簿の技術」を、伯爵家が欲しがった。それだけの話。

 オーレリア嬢が現れた時点で、私の役目は終わっていたのだ。

 部屋に入り、私は棚の奥から一冊の帳簿を取り出した。

 古びた革表紙。中には、私がこの七年間つけ続けた「控え」がある。

 伯爵家の正式な帳簿とは別に、全ての取引を自分の手で写し取ったもの。帳簿係としての習慣だった。万が一、正式な記録が失われた時のために。

 これがあれば、証明できる。

 私が横領などしていないことを。

 私は帳簿を胸に抱え、最低限の荷物だけを鞄に詰めた。


 屋敷の裏口から出ようとした時、馬車が停まっているのが見えた。

 見覚えのない紋章。黒地に銀の天秤——王国財務監査局の印だ。

「……どちら様ですか」

 私が声をかけると、馬車の扉が開いた。

 降りてきたのは、長身の男性だった。黒髪に灰色の瞳。整った顔立ちだが、表情がない。まるで数字のように無機質な印象を受ける。

「リーネ・ヴァルトシュタインか」

「はい」

「俺はクラウス・ノイエンドルフ。財務監査官の長だ」

 息を呑んだ。

 ノイエンドルフ公爵。王国で最も厳格な数字の番人と呼ばれる人物。不正を働いた貴族を何人も断罪してきたと聞く。

「査問会の件で参った——と言いたいところだが、違う」

 彼の視線が、私の胸元に落ちた。

 正確には、私が抱えている帳簿に。

「その帳簿、俺に見せろ」

「……なぜ、これがあると?」

「ヴァルトシュタイン家の帳簿係は、必ず控えを取る。お前の父もそうだった」

 父を知っている。その言葉に、少しだけ心が揺れた。

「……見せたところで、何が変わるのですか」

「さあな。だが、お前は今から査問会に出る身だ。味方は多い方がいい」

 味方。

 その言葉が、妙に温かく響いた。

「……分かりました」

 私は、彼の馬車に乗り込んだ。


 ノイエンドルフ公爵邸は、王都の中心部にあった。

「ここで待て」

 応接室に通され、私は革張りの椅子に座った。クラウス様は向かいに座り、私から帳簿を受け取った。

 頁をめくる音だけが響く。

 五分。十分。十五分。

 彼は一言も発しなかった。ただ、灰色の瞳が数字の列を追い続けている。

「……七年分、全てあるな」

 ようやく口を開いた彼の声には、感情がなかった。

「はい」

「一日も欠かさず、取引の全てを記録している」

「帳簿係ですから」

「伯爵家の正式帳簿と照合すれば、どちらが正しいか分かる」

「……はい」

 当然だ。私の控えには、オーレリア嬢が触れた形跡がない。正式帳簿と突き合わせれば、改竄がどちらで行われたか一目瞭然のはず。

「なぜ、伯爵にこれを見せなかった」

 私は少し黙った。

「……信じてもらえないと思ったので」

「なぜだ」

「アドルフ様は、私の数字など見ていませんでしたから」

 自分で言って、少し笑ってしまった。

 七年間、私はずっとそばにいた。でも彼は一度も、私の仕事を褒めてくれなかった。帳簿を開いてくれたことすらない。

 私が守っていたのは、彼にとって空気のようなものだったのだ。

「……愚かな男だ」

 クラウス様が、低く呟いた。

「え?」

「七年間、一銭の狂いもない帳簿を見なかったのか。愚かだ」

 その言葉に、胸が詰まった。

「……ありがとう、ございます」

「礼を言われることではない。事実を言っただけだ」

 彼は帳簿を閉じ、私を見た。

「査問会まで三日ある。この屋敷にいろ」

「ですが——」

「お前を帰す場所はないだろう」

 反論できなかった。

 伯爵家には戻れない。実家も、父が亡くなってからは没落している。

「……ご迷惑では」

「迷惑かどうかは俺が決める」

 有無を言わせない口調だった。

 私は、頷くしかなかった。


 公爵邸での三日間は、不思議な時間だった。

 クラウス様は多忙らしく、日中は執務室にこもっていた。でも、夕食だけは必ず同じ席についた。

「今日の帳簿の照合は終わった」

「……結果は」

「お前の控えが正しい。伯爵家の正式帳簿には、過去二年分の改竄がある」

 やはり。

 オーレリア嬢がこの家に出入りするようになったのは、二年前からだ。

「改竄の手口は稚拙だ。数字の辻褄が合っていない箇所が三十七か所ある」

「そんなにですか」

「素人の仕事だ。帳簿を舐めている」

 彼の声には、わずかに怒りが混じっていた。

「……クラウス様は、数字がお好きなのですね」

 思わず口にすると、彼は少し目を見開いた。

「好き、というのとは違う。数字は嘘をつかない。だから信用している」

「私もです」

 言ってから、恥ずかしくなった。

「……すみません、変なことを」

「変ではない」

 彼は淡々と言った。

「お前の帳簿は美しい。数字の並びに無駄がない。七年間、誰にも認められなかったのは異常だ」

 美しい。

 その言葉が、胸に染みた。

 私はこの七年間、一度もそんなことを言われたことがなかった。

「……ありがとうございます」

「だから、査問会では堂々としていろ。お前の数字が、お前を守る」

 私は頷いた。

 少しだけ、勇気が湧いた気がした。


 査問会の前夜。

 私は眠れずに、廊下を歩いていた。

 窓から月明かりが差し込んでいる。明日で全てが決まる。私の潔白が証明されるか、それとも——

「眠れないのか」

 振り向くと、クラウス様が立っていた。

「……はい」

「俺もだ」

 彼は私の隣に来て、窓の外を見た。

「査問会の日程は、伯爵家には伝えていない」

「え?」

「オーレリア・ブレヒトは、お前が横領犯として裁かれると思っている。だから、自分から出廷するつもりはないだろう」

「では、明日は……」

「奴が知るのは、査問会が始まってからだ。逃げる暇を与えない」

 封鎖。

 彼は最初から、そこまで考えていたのだ。

「……なぜ、そこまで」

「言っただろう。お前の数字は美しいと」

 彼は私を見た。月明かりの下、灰色の瞳が銀に光っている。

「美しいものを汚す奴を、俺は許さない」

 その言葉に、心臓が跳ねた。

「……私は、そんな大層なものでは」

「お前が決めることではない」

 彼の手が伸びて、私の頬に触れた。

「明日、お前の価値を世界に証明する。だから今夜は眠れ」

「……はい」

 私は頷いた。

 その夜、不思議と穏やかに眠れた。


 査問会の会場は、財務監査局の大広間だった。

 長テーブルが設けられ、監査官たちが並んでいる。傍聴席には、何人かの貴族の姿も見えた。

 私は証人席に座った。

「では、始める」

 クラウス様が議長席から声を発した。

「本日は、リーネ・ヴァルトシュタインに対する横領容疑の審議を行う」

 扉が開いた。

 アドルフ様とオーレリア嬢が入ってきた。オーレリア嬢の顔が、一瞬で青ざめる。

「な、なぜ今日……聞いていませんわ」

「被告側への通知は、本日の朝に行った」

 クラウス様の声は平坦だった。

「逃亡の恐れがあったのでな」

 オーレリア嬢が私を睨んだ。私は視線をそらさなかった。

「では、審議を進める。まず、告発側の主張を」

 アドルフ様が立ち上がった。

「リーネ・ヴァルトシュタインは、七年間にわたり我が家の帳簿を管理していた。その間、累計で金貨三千枚相当の不正な出金があった。これは横領に他ならない」

「証拠は」

「帳簿の記録だ。ここに持参した」

 アドルフ様が、分厚い帳簿を提出した。

 私は黙って見ていた。

「——では、被告側の反論を」

 クラウス様が私を見た。

 私は立ち上がり、鞄から帳簿を取り出した。

「これは、私が七年間つけ続けた控えの帳簿です」

 会場がざわめいた。

「全ての取引を、一日も欠かさず写し取りました。正式帳簿と照合していただければ、どちらが正しいか分かります」

「異議あり!」

 オーレリア嬢が叫んだ。

「そんな帳簿、今作ったものに決まっています!」

「七年分の紙の劣化、インクの酸化を調べれば分かる」

 クラウス様が冷静に言った。

「既に専門家に鑑定させた。この控え帳簿は、間違いなく七年前から存在している」

 オーレリア嬢の顔が、さらに蒼白になった。

「で、では、照合を」

 監査官たちが二つの帳簿を並べ、確認を始めた。

 一刻ほどが経った。

「——結果が出た」

 監査官の一人が立ち上がった。

「正式帳簿には、過去二年間で三十七か所の改竄が確認された。改竄後の数字は辻褄が合っておらず、明らかに素人の仕業である」

「一方、控え帳簿には改竄の形跡がない。むしろ、正式帳簿が改竄される前の正確な数字が全て記録されている」

「結論として、横領を行ったのはリーネ・ヴァルトシュタインではない」

 会場が静まり返った。

「では、誰が」

 クラウス様が問うた。

「改竄が始まった時期と、オーレリア・ブレヒト嬢が伯爵家に出入りするようになった時期が一致している」

 監査官が続けた。

「また、不正に引き出された金貨の使途を調査したところ、ブレヒト男爵家の借金返済に充てられていた」

「で、出鱈目よ!」

 オーレリア嬢が叫んだ。

「私は何も——」

「記録がある」

 クラウス様が、別の書類を取り出した。

「王都の両替商から証言を得た。金貨を持ち込んだのは、ブレヒト家の使用人だ」

 オーレリア嬢の膝が崩れた。

「そ、そんな……」

「オーレリア・ブレヒト。お前を横領および文書偽造の罪で告発する」

 クラウス様の声が、会場に響いた。


 審議は終わった。

 オーレリア嬢は衛兵に連行されていった。アドルフ様は蒼白な顔で立ち尽くしている。

「リーネ……」

 彼が私に近づいてきた。

「すまなかった。俺は、とんでもない間違いを——」

「いいえ」

 私は静かに首を振った。

「アドルフ様は、最初から私を見ていらっしゃいませんでしたから。見えないものを信じられないのは、当然のことです」

「だが、七年も——」

「七年、私は確かにそばにいました。でも、それだけです」

 私は微笑んだ。

 怒りはなかった。恨みもなかった。ただ、長い夢から覚めたような清々しさがあった。

「お元気で」

 私は彼に背を向けた。


 会場を出ようとした時、クラウス様が私の前に立った。

「リーネ・ヴァルトシュタイン」

「はい」

「一つ、聞いておくことがある」

 彼の灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。

「お前は、これからどうするつもりだ」

「……分かりません。実家に戻っても、もう何もありませんし」

「では、俺の家に来い」

「え……?」

 私は目を見開いた。

「待ってください。それは、どういう——」

「言葉通りの意味だ」

 彼は私の手を取った。

 会場にはまだ多くの貴族がいた。その視線が、一斉に私たちに集まる。

「この者を、我がノイエンドルフ公爵家が迎える」

 会場がどよめいた。

「正式な婚約者としてだ」

「く、クラウス様……」

「お前の数字は美しい。七年間、誰にも認められなかったその価値を、俺が認める」

 彼の手に、力がこもった。

「だから、俺のそばにいろ。二度と、お前を見ない馬鹿の隣には置かない」

 私の目から、涙がこぼれた。

 七年間、流さなかった涙が。

「……はい」

 声が震えた。

「はい、喜んで」

 クラウス様の腕が、私を抱き寄せた。

 会場中の視線を受けながら、私は彼の胸に顔を埋めた。


 帰りの馬車の中で、私は彼の隣に座っていた。

「……本当によろしかったのですか」

「何がだ」

「あんな大勢の前で……」

「逃げられないようにした」

 彼は淡々と言った。

「お前はすぐに自分の価値を疑う。だから、公の場で宣言した。もう撤回はできない」

「……それは、私を逃がさないということですか」

「そうだ」

 彼の手が、私の手を握った。

「お前の帳簿を、俺以外の誰にも渡さない」

「帳簿、ですか」

「比喩だ」

 彼の声が、少しだけ低くなった。

「お前自身を、という意味だ」

 私は笑った。

「……不器用な方ですね」

「数字以外は苦手だ」

「では、私が通訳しましょう」

 私は彼の肩に頭を預けた。

「クラウス様は、私のことが好きなのですね」

「……否定はしない」

「私もです」

 窓の外を、夕日が照らしていた。

「私の価値を、初めて認めてくださったのはあなたでした。だから——」

 私は彼を見上げた。

「これからは、あなたのそばで数字を数えます」

 彼の腕が、私を抱き寄せた。

「——ああ。末永く頼む」

 その声は、数字のように正確で、けれどどこか温かかった。


 新しい朝が来た。

 私は公爵邸の執務室で、帳簿を開いている。

「リーネ、茶だ」

 クラウス様が、湯気の立つカップを置いた。

「ありがとうございます」

「進捗は」

「今月の収支は黒字です。先月より三%増加しています」

「そうか」

 彼は私の隣に座り、一緒に帳簿を覗き込んだ。

「……美しいな」

「数字がですか」

「お前の字がだ」

 私は笑った。

「また比喩ですか」

「今度は違う。本当に、お前の字は整っていて美しい」

「……ありがとうございます」

 彼の手が、私の手に重なった。

 数字だけの関係だった七年間が、嘘のようだ。

 今、私の隣には、私の価値を知っている人がいる。

 それだけで、世界は十分に美しかった。

 ——私の価値は、この帳簿が知っている。

 そしてこの人も。

 それが、私の得た最高の報酬だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


帳簿という地味な武器で戦う令嬢の話を書きたいと思い、この作品が生まれました。数字は嘘をつかない——その信念を貫いたリーネに、少しでも共感していただけたら嬉しいです。


評価・ブックマークをいただけると、とても励みになります。

ありがとうございました。

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