09その手を、離さない
俺たちは、天空環状遺跡を後にし、
再び山道を下り始めた。
下り坂というのは、
登り以上に――老骨には応える。
「……ふう」
足取りが重くなり始めた、そのとき。
またしても、ナディアが振り返り、
いつもの調子で呪文を唱えた。
《もっと、かるくな~れ》
途端に、荷物の重みが消え、
身体までふわりと軽くなる。
――ありがたい。
だが、この一見ふざけた詠唱。
実は、とんでもないことをやってのけている。
そもそも――
魔法の詠唱文というものは、基本的に決まっている。
古より研究され、
最も早く、最も安定して、最大限の効果を発揮できるよう
最適化された“定型文”を用いるのが常だ。
全文を省略することは可能だ。
だがその分、
術者は脳内に正確で揺るぎない術式を描かねばならない。
省略すればするほど、難度は跳ね上がる。
無詠唱となればなおさらだ。
すべてを脳内のイメージだけで具現化するため、
発動できるのは、
――火を出す。
――氷を出す。
といった、極めて単純な魔法に限られる。
それが、常識だ。
にもかかわらず。
ナディアは、自身の感覚に任せたフレーズを口にし、
それでいて、正確無比な重量軽減魔法を発動させている。
これはつまり――
複雑な術式のすべてを、
脳内で完全に、寸分の狂いなく描き切っているということだ。
通常、あり得ない。
すなわち。
ナディアは、
一見適当ともいえる詠唱をしているが、
実際には、とんでもない領域のことを
さらりとやってのけている。
彼女が“天才”であることの、動かぬ証明だ。
勇者パーティに推挙された理由も、
このあたりにあるのだろう。
――ただし。
この天才に、あえて弱点を挙げるとすれば。
それが普通だと思っていること。
自身の能力を、
「誰にでもできること」だと認識している点だ。
チート級の才に、無自覚。
ゆえに、達成感や自己満足感に乏しい。
野心という言葉とも、無縁になりがちだろう。
……まあ。
そういうところも含めて、
守ってやらねばならんのが、
この老魔導士の役目なのだが。
軽くなった足取りで山道を下りながら、
俺は、そんなことを考えていた。
◇
三人娘は、他愛ないおしゃべりを楽しみながら、
軽快に先へ先へと進んでいく。
その少し後ろを、
老体の俺が、遅れ気味になりながら、なんとかついていく。
――そのときだ。
前方に、微かな――だが、背筋を撫でるような、
はっきりとした魔力の気配を感じた。
思わず視線を上げる。
深紅のマント。
風に揺れるその裾の向こうに立つのは――
魔王軍幹部、レティシア・ヴァルグレイヴ。
……またか。
まったく、この、かまってちゃんめ!
彼女は微笑を浮かべたまま、
無言で、杖をこちらへと向けている。
――まずい。
あの構え。
すでに詠唱は完了している……!
前を歩いていた三人も、
一瞬遅れて異変を察知した。
クラリスとアカネが、左右へと跳ぶ。
だが――
「っ……!」
ナディアが、わずかに遅れた。
足を取られ、
バランスを崩し、そのまま地面にしりもちをつく。
その瞬間。
レティシアの視線が、
真っ直ぐに――ナディアへと向いた。
杖の先が、静かに彼女を指す。
「まずい――!」
考えるより早く、
俺は無詠唱で魔力を叩き出した。
火球。
圧縮された炎が、一直線にレティシアへと飛ぶ。
――だが。
彼女は、まるでそれを予期していたかのように、
ひらりと身を翻し、難なくかわした。
次の瞬間。
いつの間にか――
彼女の杖は、俺へと向けられていた。
(しまった……狙いは、俺か!)
――最初から、そう誘導されていた。
レティシアの杖が、眩く光る。
圧倒的な魔力の奔流。
それが、真正面から――
全身に、叩きつけられた。
その魔力の圧を、
全身で感じたところで、
意識は途絶えた。
◇
――その瞬間のことを、
私は、はっきりと覚えている。
――ばたり。
背後で、人が倒れる音がした。
振り返る。
ルドルフが、地面に崩れ落ちていた。
「ルドさん……!」
クラリスとアカネが、ほとんど同時に前へ踏み出す。
剣を抜き、魔女レティシアへと切りかかった。
私は、その場で足を止め、防御魔法の詠唱に入る。
……落ち着け。
リラックスしているときなら、
感覚だけで詠唱を省略し、ぱぱっと魔法を出せる。
でも、こういう――
心が縛られるような状況では、ダメだ。
焦れば焦るほど、イメージが散る。
だから、きっちり詠唱しなければ、魔法は形にならない。
――間に合え。
そう思った、その瞬間。
クラリスとアカネが間合いを詰めるよりも早く、
魔女は、またしても姿を消した。
残ったのは――声だけ。
「ははっ。どうだい?」
「お前たちにとって、大魔導士は“要”だろう?」
どこからともなく、響き渡る。
「その要を失っても、
お前たちは、やっていけるかな?」
嘲るような声。
「しばし――見物とさせてもらおう」
その言葉を最後に、
魔女の気配は、完全に消え失せた。
……追えない。
私たちは、すぐにルドさんのもとへ駆け寄った。
「ルドさん!!」
抱き起こす。
しばらくして――
ルドさんが、ゆっくりと目を開いた。
よかった。
生きている。
……でも。
その目は、どこか焦点が合っていなかった。
「……ここは、どこだ?」
私と目が合う。
次の瞬間、
彼の表情が、ふっと緩んだ。
「おお、フローラ」
「もう、学校は終わったのかい?」
……え?
◇
私は、ルドさんの手を握り、山道を下っている。
私たちの前後では、
クラリスとアカネが、警戒を怠らず、守るように歩いている。
「フローラ」
「おじいちゃんの手を、離しちゃだめだぞ」
優しい声。
「迷子になるからな」
――やっぱり。
ルドさんは、
目が覚めてからずっと、私を“孫のフローラ”だと思っている。
レティシアにかけられたのは、
おそらく――混濁の魔法。
通常なら、
時間が経てば自然に解ける。
あるいは、強い衝撃で解除されることも多い。
……でも。
これは、そんな生易しいものじゃない。
直感で、分かる。
最悪の場合――
一生、このままかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
背筋が、凍りついた。
――嫌だ。
そんな未来、
考えたくもない。
私は、握った手に、そっと力を込めた。




