20静かな夏、約束の日
本格的な夏だ。
外では、強い日差しが新緑を照らし、葉擦れの音が風に揺れている。
俺は――
ひさしぶりに、我が家でゆっくりと過ごしていた。
積んだままになっていた魔道書を読む。
呪文を朗々と詠唱しながら、家の周りを散歩する。
気が向けば、庭に出て土をいじる。
急ぐ理由も、追われる理由もない。
穏やかな日々である。
◇
夕方。
庭仕事を終えて家に戻ると、キッチンから賑やかな音が聞こえてきた。
鍋が鳴り、包丁がまな板を叩く音。
立ちのぼる、あたたかな匂い。
中では、マリアとフローラが夕食の支度をしており、
クラリスも、その横で一生懸命に手伝っていた。
「お義父さん、先に手を洗ってきてください」
「お義父さん、つまみ食いは駄目ですよ?」
マリアから、いつもの声が飛んでくる。
「娘が増えたみたい」
――と、マリアは本当に嬉しそうだ。
フローラも、最近は学校が終わると、まっすぐ家に帰ってくる。
クラリスとアカネが来てからというもの、
この家は、少しだけ賑やかになった。
先日は、フローラが学校の友達まで連れてきて、
二階の部屋で、きゃあきゃあと大騒ぎしていた。
「……そういえば」
ふと気になって、クラリスに尋ねる。
「アカネは?」
「道場で、居残り稽古」
野菜をざくざくと切りながら、クラリスが答える。
「ほんと、すごいよ。アカネ」
「私なんて、午前中の稽古だけで、もうくたくたなのに」
そう言いながらも、声音には、素直な感心が混じっていた。
そして、少し間を置いてから、ぽつりと続ける。
「……なんかね」
「アカネは道場に入り浸りだし」
「ナディアは王妃様にべったりだし」
「誰も、わたしにかまってくれないの」
ぼやき半分、本音半分。
「もう、フローラと旅に出ちゃおうかしら」
すると、フローラが顔も上げずに、軽口を返す。
「あら、いいわよ」
「ついでに、魔王も倒しちゃう?」
思わず苦笑が漏れた。
ちょうどそのとき、
西日の橙色が、リビングの床をゆっくりと染めていく。
窓の外では、蝉の声が遠くで響いていた。
穏やかな夕暮れである。
――このままでは、
本当に尻に根が生えて、動けなくなってしまうかもしれない。
だが。
明日は、いよいよ、約束の一週間目。
ナディアの呪いが解かれる日だ。
◇
俺とクラリス、アカネは、約束の時間きっかりに王宮を訪れた。
通された一室では、
エドガルとソフィアの二人が、すでに待っていてくれていた。
ソフィアは、到着前から準備に取りかかっていたのだろう。
部屋の中央に置かれたテーブルの上には、一枚の皿。
その中を満たしているのは、
濃い赤の液体。
竜血苔から生成された薬に違いない。
鼻をくすぐるのは、
鉄と森と、わずかな苦みが混じった匂い。
嗅いだ瞬間に、これは効くと分かる。
そのとき――
「ワン!」
駆け寄ってきた犬ナディアが、
クラリスとアカネに勢いよく飛びついた。
「くぅーん」
甘えた声で鳴き、尻尾をぶんぶんと振っている。
「ナディア、久しぶり。元気してた?」
クラリスは笑顔でそう言いながら、犬ナディアを抱き上げた。
そして、
腕の中の重みを確かめるようにして、首をかしげる。
「……ねえ、ナディア。あなた、ちょっと太ったんじゃない?」
その瞬間。
「ガウ!」
短く吠え、
犬ナディアはクラリスの腕から、ぴょんと飛び降りた。
「うそうそ、冗談よ」
「うー……ワン!」
露骨に不満そうな声。
そのやり取りを、
俺とエドガルは、思わず顔を見合わせながら見守っていた。
やがてソフィアが、
犬ナディアをそっと抱きかかえる。
「ナディア。この薬を飲んでね」
「少し、苦いけど……がまんして」
優しく声をかけると、
そのまま、俺とエドガルに向き直った。
「薬が、ナディアの全身に行き渡ったら――」
「そのあとで、『解除の呪文』を使って、呪いを解いていくわ」
「ふむ」
「ふむ」
「そうすれば、ナディアは、すぐに元の姿に戻ると思うわ」
「ふむ」
「ふむ」
ソフィアは、そこで一瞬だけ間を置き、
いたずらっぽく微笑んで、付け加えた。
「……生まれたままの姿に、ね」
「!!」
「!!」
「こ、これは失敬!」
俺とエドガルは、ほぼ同時に声を上げ、
慌てて部屋を飛び出した。
廊下に出てからも、
落ち着かずに、うろうろと行ったり来たりする。
やがて、
扉の向こうから、ソフィアの朗々とした詠唱の声が聞こえてきた。
低く、澄んだ声。
部屋の空気そのものを、塗り替えていくような響き。
――しばらくして。
「ナディア!」
「クラリス、アカネ!」
部屋の中から、
弾むような歓声が響いた。
それを聞いた瞬間、
俺とエドガルは、無言で顔を見合わせ、
小さく、息を吐いた。
どうやら――
うまくいったようだ。
◇
俺とクラリスとアカネ、
そして――少女の姿に戻ったナディアは、
何度もソフィアとエドガルに礼を言い、王宮を後にした。
「また、遊びにいらっしゃい」
「今度は、ゆっくり会話を楽しみましょう」
「はい。ソフィア様、ありがとうございました」
穏やかな別れだった。
◇
そして、再び、俺の家へ戻る。
ナディアの呪いは解け、
ひとつの区切りは、すでについた。
だが、
もう少し稽古を続けたい――というアカネの要望を、
俺たちは受け入れることにした。
ついでに言えば、
すっかり家に馴染んでしまった俺の尻に生えた根を、
引き抜くためでもある。
そうして、
さらに一週間をここで過ごしたのち、
俺たちは、ようやく出発することにした。
◇
出発の朝。
我が家の一同が、揃って見送りに出てくれる。
「なんか……旅立ちたくないよー」
クラリスが、情けない声でごねた。
「いっそのこと、三人とも、うちの子になる?」
マリアが、冗談めかして言うと、
「そうよ」
「魔王退治なんて、おじいちゃんに任せておけばいいのよ」
フローラが、すかさずかぶせる。
「その手があったか!」
クラリスとアカネ、
そしてナディアが、声をそろえて同意した。
――その手があったか、ではない。
俺は、思わずため息をついた。
「クラリス、ナディア、アカネ、
どうか体を大事に。
また、いつでも、遊びにいらっしゃい。
あなた、みんなをよろしくね。」
「はい、先生。ありがとうございました。」
「うむ。では、行ってくる」
名残を惜しみながら、
それでも俺たちは、
新たな一歩を踏み出す。
「クラリス、アカネ、ナディア――またねー!」
門を離れてもしばらく、
フローラの声は、いつまでも背中に響いていた。
振り返らずに歩きながら、
俺は、その温かさを、胸に刻んだ。




