11雲海の湯と、次なる道
『アウラ温郷』
俺は露天風呂に身を沈め、雲海を眺めている。
朝日が白い雲の海を照らし、ゆるやかに光が揺れていた。
実に――幻想的な光景だ。
ふと、先日の出来事を思い返す。
魔女レティシアに魔法をかけられていた間のことは、
何ひとつ覚えていない。
だが、はっきりしていることもある。
彼女たちは――俺抜きで、あの難局を乗り越えた。
それが、うれしかった。
誇らしかった。
そして、なにより驚かされたのが、
ナディアの成長だ。
いや、もはや「成長」という言葉では足りない。
――『覚醒』と呼ぶべきだろう。
過去の勇者パーティにも、
眠っていた力を呼び覚まし、覚醒に至った英雄は確かに存在した。
それは、もっとも魔王が恐れる現象でもある。
そういう意味では、
あの魔女は、とんでもない墓穴を掘ったことになる。
いや、あるいは――
彼女は最初から、我々の味方だったのではないか。
そんな考えすら、頭をよぎる。
今度会うことがあれば、
少しは優しくしてやるとしよう。
――しかし。
――しかし、だ。
この村に滞在して、すでに一週間が経つ。
満身創痍でこの地にたどり着いて以来、
娘たちからは、出立の気配がまるで感じられない。
これまでの道中の心労も、わかる。
この村の居心地がいいのも、よくわかる。
だが、
曲がりなりにも勇者一行だ。
温泉地に入り浸るというのは、あまり感心した話ではない。
とはいえ、彼女たちを急かすつもりもない。
やはり、自主性を重んじることが肝要だ。
……もっとも。
かくいう俺自身も、
この温泉の魔力には、なかなか抗えずにいる。
ここは桃源郷か。
はたまた竜宮城か。
いや――おそらくは、魔境であろう。
さて。
どうやって、この魔境を脱出するか。
もう少し、腰を据えて考える必要がありそうだ。
◇
温泉から上がり、休憩所で一服していると、
向こうから浴衣姿の三人娘が近づいてきた。
湯上がりの体から、
ほんのりと湯気が立っているようにも見える。
……おそらく、
間髪入れず、フルーツ牛乳をねだられるだろう。
そう身構えた、そのとき。
「ルドさん。おまたせ」
にこりと笑って、クラリスが言う。
「今日はね――
フルーツ牛乳じゃなくて、普通の牛乳にします」
◇
休憩所の座卓を挟み、
三人は、どこか神妙な面持ちで腰を下ろした。
卓上には、瓶入りの「普通の牛乳」が並び、
湯上がりの空気の中で、しっとりと汗をかいている。
最初に口を開いたのは、クラリスだった。
「わたしたち、今日、ここを旅立とうと思います」
いきなりの宣言に、俺は少なからず面食らう。
「それは殊勝なことだが……なにか、思うところがあるのか?」
クラリスは一瞬、視線を泳がせてから、言った。
「極秘事項なんだけど……ルドさんには、教えてあげる」
「実は――」
「実は?」
「私、少し……太ったみたいなの」
その言葉に、
ナディアとアカネも、うんうん、と深くうなずく。
……なるほど。
これは、かなりセンシティブな話題だ。
ここでの返答を一歩誤れば、
三日は口をきいてもらえなくなる。
過去、孫のフローラで実証済みである。
(そりゃあ、あれだけ食って、寝て、風呂に入ってりゃ……)
心の中でそっと突っ込みを入れつつ、
俺は表情を崩さず、こう言った。
「……そうか」
それ以上でも、それ以下でもない。
これが、最善だ。
「すべては、この村のせいだと思うの」
「そうか」
「ルドさんもいけないのよ。私たちになんでも買い与えて」
「そうか。それは、すまなかった」
「だから、この村の誘惑を――自分たちで断ち切ることにしたの」
「そうか」
「行き先は、道々考えるわ」
「とにかく、出発します!」
「そうか」
「もちろん、馬車なんか使わないわ。徒歩です!」
「むしろ、走ります!」
「……そうか」
かくして。
勇者たちの、実に切実かつ固い決断により、
俺たちは再び、冒険の旅へと踏み出すことになった。
◇
午前中のうちに、俺たちは『アウラ温郷』を出立した。
日差しはすっかり強まり、
新緑の木々の隙間から、まぶしい光がこぼれ落ちている。
湯煙に包まれていた時間が、遠い昔のことのようだ。
娘たちは、颯爽と先を行く。
迷いも、名残も、もうない。
……いや。
その手には、
各々、しっかりと――りんご飴。
赤く艶やかな飴が、陽を受けてきらりと光る。
歩くたび、衣擦れの音に混じって、かすかな甘い香りが漂ってきた。
「最後の別れよ」
「これは非常食です」
「りんごは野菜です」
各々、いたって真剣な顔で、そう、うそぶく。
……実に、清々しい。
彼女たちの背中は軽く、
足取りも、心なしか速い。
ふと、アカネが空を仰ぎ、つぶやいた。
「あーあ。これが魔王退治の旅でなければ、最高なのに!」
「それ、すごくわかる」
「ほんと、それ」
二人が即座に同調する。
俺は、少し遅れて歩きながら、肩をすくめた。
「まあ、そう言うな。旅はな――
どこへ行くかより、誰と行くかのほうが、ずっと大事なものだ」
アカネが振り返り、少し意外そうな顔をする。
「なるほど……そうかもね」
「ルドさん、たまに、いいこと言うよね」
◇
昼。
広々とした野原で、
俺たちは腰を下ろし、昼食のサンドイッチを頬張っていた。
木陰を渡る風は心地よく、
草の匂いとパンの香ばしさが、穏やかに混じり合う。
その向かいで、娘たちは地図を広げ、
次なる目的地の選定に勤しんでいた。
いつもながら、やけに真剣な面持ちである。
しばらくして――
ぱん、と音を立てるように、アカネが立ち上がった。
「よし、決めた!」
その声に、二人が顔を上げる。
「次なる目的地は――
『私の行きたい場所百選』のうちのひとつ!」
一瞬の溜め。
「国内随一のおしゃれ都市、
モードリスよ!」
「いえーい!」
「やったー!」
手を叩き、無邪気に喜ぶ二人。
……俺は、サンドイッチを一口噛んだまま、
ゆっくりと飲み込んでから、思う。
相変わらずだ。
魔王討伐とは、微塵も関係がない。
モードリス。
国内有数の華やぎを持つ、若者文化の発信地だ。
ここからは、徒歩で5日といったところか。
少し遠いが、彼女たちの運動にはちょうど良い距離だろう。




