4.役所
翌朝。
朝とは言っても太陽のような安定的恒星を持たないため、午前4時以後9時以前が朝である。煌々とした明かりは、天候調整ドームが降らせる発光ナノマシンである。
効率的な睡眠である低温睡眠システムが各家庭のベッドに備わっているので、よほど厳しい肉体運動をしない限り、3時間程の睡眠で8時間ほど寝たことになるので、このサテライトでは夜の時間が短い。安定的恒星をもつサテライトでは昼夜の設定が自然的に行われることもある。
「おはようエリ」
「おはよ。これ、みて!」
自分の右頬を指で差して、白と青で綺麗に描かれたシダ状六花の雪の結晶のマークがあった。あの下品なチークより似合っている。
「かわいいね。データ転写?」
「手描きよ!」
フリーハンドでそれだけ緻密な図形が描けるのか、と彼女の能力に空恐ろしくなる。
普通はメイクの見本を鏡台を兼ねたフェイスパレットという機器で転写するのだが、テンプレートの組み合わせが有限なので、どうしても似たり寄ったりになるのだという。
「オリジナリティがあって、すごく文化的だよね」
「でしょ? ほら、朝ごはんにしましょう」
圧縮食糧を収納している棚に手を突っ込んで、朝食用のマフィン&ハムチーズをチョイスした彼女は解凍レンジにそれを放り込んだ。
私は飲料サーバーからホットラテを2つ注ぎ、彼女と自分との定位置に置いた。デナリウス。
「サラダはベリー、ヨーグルト、レタス、トマトね」
「あたりじゃないかな」
「そうね」
生食さつまいもとカボチャのサラダはちょっと人気がない。朝から根菜を2種類は重たいのだ。あと青豆とケールのグリーンサラダもだ。青豆の匂いが強すぎて、朝の鋭敏な状態の鼻には臭く感じるのだ。
マフィンと同じ径のハムとチーズ、そしてサラダのトマトも同じ径なのではさむ。こうすると水分が丁度良い感じで食べやすいのだ。
エリはさらにレタスもはさんで、ナイフとフォークで崩さない様に器用に食べる。私は手づかみだ。
一年の内(これは365日と366日の年があって、今年は後者だ)来月の9月に新年度を迎える。
なぜこの話題を出したかといえば、法務局にある申請処理AIは、大本の中央AIからデータをロードして切り離され、一年度間スタンドアローンで運用されるのだ。
年間通じて均一な判断ができるように、ということらしい。
法務局とは言っても、実態は私の知る市役所と簡易裁判所を合体させたような施設で、あらゆる国民からの法律的な許認可申請を受け付ける、相当にひらかれた施設なので、私の様に法務局嫌いを公言するものは少ない。
どちらかというと何か困ると「さぁ法務局」という風に活用のされ方をしてている。どの局に行けば良いのかわからないときも、とりあえず法務局だ。
「もう少しで新年度だし、開庁したらすぐにしましょ。労務時間に被ると街路も混むわ」
「そうだね」
一年度分の処理結果をロードしてから受け付けるので、年度末ほど判断に時間がかかるのだ。かつては4年ごとだったらしいから、改善はされているのかもしれない。
労務局は中央(中央という街がある。ワシントン特別市のような存在だ)に本局が、AからZまでの街路に出張局があり、どこでも同じ処理ができる。近所にあるのはBの街路にある出張局だった。
時計を見遣ると8時半になるところだった。
時計は私の常識となんら変わらない。針が逆回りしたり、数字が虚数だったりはしない。普通のアナログ時計だ。
宇宙空間などの音に拠らない方法で、手旗信号の様に時間を示すのに便利だからだろう。肘を曲げたほうが時針、伸ばした方が分針という風にする。3時と9時は首の左右で代用しても良いことになっていて、これはそのまま西、東にも準用される。上下の首振りがないのは、首肯と誤認するからで、禁止されてはいないが使用しないに越したことはないだろう。
「いきましょ」
口腔洗浄タブレットを口に入れて、しゅわしゅわした感覚を楽しんでいると声をかけられた。
そろって貫頭衣姿になり(室内ではお互い下着姿である)脚に安全ソックス(ゴムのようなもので足裏電磁石を備える)を履くと、そろって外に出た。
発光ナノマシンが街を均一に照らしている。
サテライトの中心、ハブ付近からは光源の距離と光の速度の関係で、濃淡があるように見えるのだが、サテライト内は距離が近く、あまりに明るくて、影が生じないので最初は不気味に感じていたものだ。
人通りの少ない街路は寂しい。
街路なのに街路樹も何もなく、ただ移動を目的とした通路と、緊急走行するロボット専用のリニアルートが中央に敷かれていること以外、これといって見るところがない。
24時間営業の無人ストアだけが、少しだけにぎやかしになっている。
そんな街路をエリは上機嫌に歩きながら、のっぺらぼうな商店の白銀の壁に映る自分の顔、特にフェイスペイントを眺めては「いい出来だわ」と自画自賛している。
私も「よく似合ってるよ」とか「器用だよね」と誉め言葉を出しているが、いくら本心からの言葉であっても語彙に限界がある。ああ、法務局はまだか。あんなに嫌いだったのに、いまは恋しさすら感じている。
「あら、空いてる」
待機列の人はまばらで、いつも混雑の印象があったのか、彼女は法務局を素通りしそうになっていた。
その待機列にさっさと並び、網膜をスキャンして、要件を大脳スキャナで読み取らせると、すぐに窓口に呼ばれた。言ったり書いたりしなくてよいのは快適だ。
「有人窓口は私もはじめてだわ」
「そうなの?」
待機列を振り返ると、殆どが大脳スキャナからロボット窓口に通されている。
有人窓口を案内されたのは私だけだった。
「――お待ちしておりました。どうぞ、御掛けください」
凛とした透き通る声が、小さな唇から放たれて、私は視線が釘付けになった。
公官庁用装着型網膜スキャナで両目が隠されてはいるが、息を飲むほどの美人な女性であることがわかった。
それこそ、遺伝子レベルで私の中の男が励起した、と言えばわかるだろうか。
青白い頭髪は肩の高さで切りそろえられ、前髪は網膜スキャナを避けるように上げられている。つるりとした形の良いおでこは、すこし幼さすら感じさせた。肌は透明感があって、貫頭衣から覗く鎖骨が艶めかしい。
「ね!」
エリの大声が耳に、肘鉄が脇腹に刺さった。はやくすわりなさい、どこをみているの、と緋色の瞳が視線で投げかけてくる。
「失敬」
彼女が受付の女性にそう言うと、青白い頭髪をさらら、と揺らして「いえ」と応えた。どうやらエリの顔を観察していたらしく、ちょっと慌てたように視線を背けた。
私が腰掛けると、すぐに「お問い合わせの件ですが、前例がありませんので、審判AIが判決しています。しかし、ご芳名が――」
判決している、というのは「合議制の会議で結論を出す」という意味で、裁判所の判決と同義であるが、その効力はもっと軽い。
AI3機で行われる法務局判決は、陪審員を用いた判決に優越せず、その効力が及ぶ範囲の当事者たる国民が異議を唱えた瞬間に破棄される、と法に明記されているからだ。
これを慣用的に簡易判決と呼称することがある。
名前はやはりというか、文字化けしていた。漢字をデータ化する上で、この現象はどうしても避けられないようである。
かといって本名でなければ手続きできないし、とりあえずコード的には確り名前を書いたことになるらしいので、手続きに問題はないという。世の中には非暗号コードなら読めるという人がいるし、漢字も似たような扱いなのかもしれない。
「さきに、お問い合わせの件について詳細を伺いたく――これは文化局による要請ですから、強制されません――よろしいでしょうか?」
私は少し迷って、傍らに座るエリにアドバイスを求めた。
「いいんじゃない? 不利になるようなことはないし。むしろ文化的貢献は積極的にすべきよ」というので話すことにした。
「わかりました。覚えている範囲でお話します」
「ご協力、ありがとうございます」
恭しく頭を下げる彼女の声に、すこし喜びの色があることに気付いた。どの立場の人でも移民の土産話を聞きたがるらしい。
「それでは、日本国宇宙開拓事業団への参加ですが、ご尊父様からの推薦によって、アシモフ型冷凍睡眠ポッド実用化実験の被験者となった、とあります。間違いありませんか?」
「はい。日本国政府の特別職公務員として、当時の……なんだったかな――ごめんなさい失念しました――最下級だったと思いますが、国家公務員ⅢーCとして採用されました」
「証明できるものはお持ちですか?」
痛いところを突かれた、と思わず顔をしかめた。
私が搭乗したポッドには、身分を証明する電子データとゴールドディスク(金で被膜されたアナログレコード)が搭載されていたが、救助時の費用を、今後の労務に対する報酬から分割で支払うか、それら手回り品を売り払い(文化的アンティークとして文化局に収容された。私を助けた人々は、文化局の労役でその宙域に、蒐集作業として来ていた人たちだ)一括で支払うか選ばされ、後者を選んでしまっていたのだ。
「すべて売却済みで、手元にはありませんが――」
「ありませんが?」
「えっと、ちょっと言いにくくて……精神手術を受けていまして、海馬に暗号データがインプットされているんですが」
外宇宙の未知の生物の尖兵とならぬように、と用心のつもりだったのか、搭乗者のほぼ全員がこの手術を受けさせられている。海馬、といったが、魂の座というほうが、手術の目的と効果からして適切かもしれない。
その効果は感応、催眠、脅迫などによる精神的支配を受けにくくするもので、自己保持力を増強することで、恐怖心のタガを緩ませるというものだった。
「なんて恐ろしいことを……」
そう呟いて、窓口の女性はほっそりとした喉を震わせながら、白い手袋を肩までかぶった腕で、己の体を抱いていた。エリにも同じような反応をされたことがあって、その時の様子を思い出すと少しブルーになる。
このとおり、海馬への直接的アプローチは、この時代でも禁忌らしく「禁断器官」とも呼ばれ「人を人たらしめる重要な部位」に指定され、再生医療での修復は精巣・卵巣とともに禁止されている。
「失礼ながら、脳に損傷は?」
「私はありませんでした」
これは嘘だ。
施術後に一人称が変化した。いまは私だが、俺、と言っていた期間の方が実は長い。
食の好みも大きく変化して、生の魚を食べられなくなり、野菜を好むようになり、辛いものを好むようになった。以前は甘党で、カレーライスはバーモントカレーの甘口に牛乳を混ぜて食べていたはずだ。自己保持力を増強しようとして、その一部を失うということはなんというか皮肉めいている。魂の座を強固な入れ物に換装する手術なのだから、中身を移し替えるときにいくらか零れるのだろう。
「私は、というと?」
「――ほかの搭乗員の中に、高次脳機能障害を負ったものがいます。少数ですが」
「少なければよいという考えは――いえ、失礼しました。そのような時代背景があったのですね」
すまなそうに言う彼女に「気にしないでください。私もどうかと思うんですよ」と伝えた。本心だった。
日に日に減る配給食糧に、人類の焦りはピークだった。
宇宙へ旅立つ若人へ「どうか実りをもたらして」「どうかこの渇きを癒して」と願いをかけてきた人々の顔が浮かんで消える。
すでに人類を扶養できなくなった地球に、またそれを管理してきた為政者たちに対して悪罵の限りを尽くす人々も、私のような人身御供には「すまない」と首を垂れるのだ。
黙っていても死ぬ、旅だっても死ぬ、その準備で死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ――
たくさんの命が消えて、病気の人たちに使用すべき医療器材と時間、そして医師や看護師たちを、急性期病棟を横取りして受けた手術だった。
「ですが、後悔はありません。必要でしたから」
僅かに項垂れた受付の女性、その青白い髪の中にみえる旋毛をみつめながら、逃げるな臆病者、と私を怒鳴りつけた同級生の顔を思い出した。
後に彼は教師から無理やり頭を下げさせられ、椅子や机を蹴り飛ばして学校をやめて行った。
きっと、彼も不安だったに違いないし、宇宙開拓なんて事業を眉唾だと冷笑するメディアも多かった。実際、建前部分は大失敗したわけであるし。
「――それですと、やはり在職中という扱いになるかもしれませんね」
彼女はうんうん、と頷きながら網膜スキャナを光らせた。いま聞いた話をアップロードしたらしい。
「彼を退職させて、できれば退職金も欲しいの。彼はがんばったんだから」
努力に報いて、というエリに、受付の女性は「わかります」とだけ応えた。スキャナーは光らない。
「では、精神手術の痕跡を確認させていただきます――こちらに顎をのせて、目を開いて」
机から生えてきたそれは、眼科の診察台のそれそっくりだった。
「私のスキャナーを見つめてください」
言われた通りに顎をのせ、スキャナーの開口部から出る光をまっすぐ見つめる。
「はい、結構です」
スキャナーが点滅する。
「確認できました。極めて前時代的――失礼――初歩的な海馬へのデータ定着がみられます」
私はそうですか、と呟いた。
これで即、身分証明とはならないことが彼女の様子からわかったからだ。
「こちらのデータをもとに、過去に向かって広域検索することになりますから、当日中の判決は難しいですね」
つきましては、と彼女が言葉を続ける。
「私がこの件の担当となりましたので、巡回裁判所書記官としてご自宅まで判決を通達いたします。私、アナイシャ・カーン・オブライエン――アナとお呼びください――が、責任をもって申請者の権利を行き届かせます」
「ありがとうございます」
私が礼をして席を立つと、巡回裁判所書記官、と口にして、顔を白黒させるサラが居た。
「す、すごいエリートだったのね」
そんなにすごい人なのか、ともう一度彼女の姿を探したが、法務局のなかに見つけることは出来なかった。
「とにかく出よう。街路が混むよ」
「そうね」
正午まで余裕があるが、買い物などをしたら帰りが出頭時刻にかちあうかもしれない、という時間だった。
あの人流に逆らって帰宅するのは難儀だ、とエリも慌てたように外に出た。
既に街路には人が増えていて、ブッシュ通りの商店のドアや看板は出勤前の用事足しに出てきた人々相手のマーケティングに忙しない。往路と復路で需要がことなるため、午前と午後で店の様子も様変わりする。東京のターミナル駅がそうだったように。
特に、仕事の合間に嗜む錠菓――私が朝にしゅわしゅわしていたあれ――は、口腔ケアという目的のほかに、気晴らしの意味もあって、人気商品は開店と同時に売り切れることもある。最近も「タブレット休憩は労務時間か」という話題でネットが湧いた。
宇宙生活では虫歯は骨折と同等の傷病とされ、予防できるなら予防したいのだ。無重力空間に出た途端、齲歯から神経が飛び出して激痛、ということがままあるからだ。
「タブレット買ってって良い?」
「ああ、僕も新しい味を探してみようかな」
少し歩いてその手の店に入る。
西暦時代のシーシャ屋に雰囲気がそっくりだった。悪友と、お盆休みに出入りしたことがあった。
「マンゴー、パイナップル……キウイもいいわねー」
やはりパッションフルーツを好んでいるのだろう、そのカラフルな棚にかぶりつきになったエリの傍らで、緑一辺倒の棚から発泡系のミントを手に取る。なんだかんだミントが一番美味しいと思うのだ。
「ミントならキタミが一番よ」
「そうなの?」
言われて少し高いが「キタミ」と書いてあるそれを手に取る。あれ、これってもしかして北海道の北見かな。
「あなたの故国、ホカイドゥの名産品だったらいいわよ」
拙速音の脱落は良くあることだったのでスルーした。能書きに「食用ハッカ油として最高水準の」などと書いてあり、そこの原種を遺伝子操作なしに栽培しているらしい。
「その北海道でスキーしたんだ」
「あら、そうなの?」
「北見のハッカ飴をお土産で買って、父さんは煙草に混ぜてパイプで吸っていたよ。部屋中スースーして、目がやられた」
煙い煙いと手をばたばたさせてみせると、エリは煙草がなんたるかをアーカイブで検索したらしく渋い顔だ。
「ネグレクトじゃないかしら」という彼女の呟きには微笑みをもって応えた。それが普通だったよ、と。
雪は全国的に降るけれど、君の顔にあるような雪の結晶は、北海道の専売特許みたいなものだ、と説明した。
「奇遇ね。私も買おうっと」
運命を感じたわ、という彼女は白い歯を輝かせ、太陽の様に美しく笑った。頬の雪が解けてしまいそうなほどの温度を感じた。
いつの日か、このキタミのパッケージにその雪の結晶が描かれる日も近いだろうな、という予感を感じながら家路についた。