堕ちた彼女
単調な先生の声が、子守唄のように眠気を誘う5限目。
俺は何度も皐月の横顔を盗み見て、幸せを噛み締めていた。
そんな浮かれ気分な視線に気づいた皐月もまた、ときおり目を合わせて、微笑む。
その仕草がたまらなく愛しくて、いつもの眠気すら吹き飛んだ。
机の下で小さく手を振ると、皐月は焦ったように周囲を見渡し、唇を動かす。
（ま・え・み・て）
……怒られた。でも「別にバレたっていいじゃん」と思ってしまうくらい、俺は浮かれていた。
ああ、幸せすぎて──もう死ねる。
その時だった。前を向いていた彼女の肩が、小刻みに震え始めたのは。
小さな咳が、一つ。……二つ。
乾いた咳はすぐに止まらなくなり、顔色は青白く、手が机を掴んで震えている。
「さ──」
名前を呼ぼうとした瞬間、彼女の喉から漏れたのは咳ではなく──
「ァ……ぎ、ゃァあ゛あ゛ああ゛ああアアア！！！」
耳を裂く金切り声。皐月の背中が、陸に打ち上げられた魚のように痙攣し、椅子が倒れる。
隣の席のクラスメイトが慌てて駆け寄る──その手が彼女に触れたとき。
バチィィィッ！！
目の前で“何か”が弾けた。
クラスメイトはがくんと崩れ落ち、白目を剥いたまま動かない。
「う、動かない……体が勝手に……ッ！」
「いや、入ってくる……やだやだやだ……見ないで、見ないでぇ！」
皐月の悲痛な声が聞こえる。だがその声はもう彼女のものではなかった。
低く地を這うような声が、確かに重なっていたから。
蛍光灯は点滅し、壁の時計は狂ったように逆回転を始める。
机も椅子も影が歪み、教室そのものが“別の世界”に侵されていく。
（悪夢……なのか？）
俺はただ立ちすくんでいた。
目の前でクラスメイトを襲う皐月。
爪を引き裂き、悲鳴を浴び、髪を振り乱しながら──人ではないものに変じていく彼女を。
助けたい。
手を伸ばしたい。
……なのに、腕は動かない。足も鉛のように重く、膝が震えて崩れそうだった。
（動けよ……俺！ 大事な彼女を助けられなくて、何のための体だよ……ッ！）
拳を握りしめるが、体はピクリとも応じない。
恐怖が、理性を、体の自由を、完全に奪っていた。
──どれほど経ったのか。
皐月はふいに動きを止め、振り返った。俺と目が合う。
赤黒く渦を巻く瞳。もう人のものではない。
その奥で、黒い“ソレ”が蠢き、にたりと笑んだ。
「ミィ……ッ、ヶ……タ……」
吐き気を催すような声。俺の名を呼んだのか？
恐ろしい静寂が教室を包む。
──バァァン！！
教室の窓が爆ぜた。黒い瘴気が触れたように、ガラスが破片となって吹き散る。
一枚が頬を掠め、熱が広がる。指先で触れると、生ぬるい赤。
現実は、思考よりも先に、皮膚を裂いて入り込んできた。
