幸せだった時間
その日、俺は最愛の人を、最悪の形で失うことになる。
けれど──幸せの絶頂にいた俺は、まだそれを知る由もなかった。
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春の風がくすぐったい匂いを運ぶ。
金網越しの景色はやけに遠くて、眩しかった。
俺、折笠 晃太郎の目の前に立つのは、クラスメイトであり想い人の─萱島 皐月。
制服のポケットの中で指をぎゅっと握りしめ、小さく息をつくと、ためらいがちに口を開いた。
「ねぇ折笠くんって……好きな人、いる?」
頬を赤らめて、不安に揺れる瞳。
俺の答えはずっと前から決まっている。
「うん、いるよ」
彼女の肩がぴくり、と小さく震えた。
伏せられた横顔が愛しくて──俺は正面に立ち、屈み込んで目を合わせる。
「ちゃんと、ここに」
その意味を悟った皐月の瞳が見開かれ、頬がさらに赤く染まる。
鼻先が触れそうな距離で、俺は彼女の手を重ねた。
「好きです。付き合ってください」
「……もちろん」
胸が熱くなる。
(ああ、今、俺世界で一番幸せだ──)
ふと、風が止む。
グラウンドの喧騒が不自然に消え、まるで世界に二人しか存在しないような静けさに包まれた。
「……え?」
視界に入ったものに、思わず声が漏れた。
皐月の影が──濃い。動かない。貼りついたように、そこだけ世界から切り離されているように。
「晃太郎くん……?」
首を傾げた彼女の影は、変わらず微動だにしない。
皐月の声に応じるように、影がじわりと滲んだ。
黒い瘴気がにじみ出し、こちらへ伸びてくる。
次の瞬間、風が吹き返して影は消えた。
だが、その風には鉄の匂いが混じっていた。
「晃太郎くん。今日の放課後、話したいことがあるの」
神妙な顔で告げる皐月の声が、ほんの一拍遅れて耳に届いた気がした。
わずかに震えるその声に、胸の奥がざわつく。
鉄の匂いは、もう鼻の奥を刺すほど濃くなっていた。
視界の隅で、黒い“何か”が蠢いた気がする。
(……気のせい、だよな?)
幸福に浸って違和感を押し殺すように、皐月の手を強く握り直す。
彼女は伏し目がちに微笑んだ。
──その指先が、数時間後に血で染まるとも知らずに。