12. シオネ・キッカ・ストゥルターナ②
★シオネ・キッカ・ストゥルターナ視点
ゴミ捨て場のような部屋を出て数十分ほど経っただろうか。
一人寂しく、紫黒花の庭園をあてもなく歩いていた。
咲き乱れた花は仲違いもせず、密集して私を愚かそうに見上げていた。
私は唐突なめまいがして、その場に倒れそうになった。
「……そういえば三日も何も口にしていないな」
中等部では卒業前、非公式ながら食堂を出入り禁止になっていた。
幸いなことに、それは高等部入学三日前だったので、三日前までは食事にありつくことが出来ていた。
今はトイレの水を飲んで飢えを凌いでいるが……何時まで持つかは不明だ。
「……ふっ」
何故か、乾いた笑いが口から漏れ出ていた。
最近、独り言が多くなった気がする。
それが何故かは分かっていた。
孤独だが、話し相手がいないのだ。
「私は何をやっているんだ?」
返答する者は居ないのは分かりきっていた。
風で揺れた紫黒花は笑っていた。
私は疲れていた。訳もなく、疲れていた。体は、とてつもなく怠かった。
風の音が遠く感じた気がした。
もう、楽になってしまいたかった。
もう——————————————。
も————————。
……————。
いつまでそうしていたであろうか。
何度もお腹が鳴って、空腹を実感していた。
何をしても、憂鬱な気分は拭えなかった。
そんな中、また目眩がした。
私の足は、気づけば。フラフラと食堂の方向へと向いていた。
★
食堂の入り口までやってきた。
現在時は十六時半くらい。
まだ、食事を開始できる時間では無い。
そもそも、学園では食堂が開いて直ぐに食堂に行くのは「血統者にあるまじき」恥だとされている。
私は他の生徒の目に付かない時間帯だったら食堂で食事にありつけるのではないか……そんな甘い期待を抱いていた。
食堂からは誘惑的な匂いが漂ってきて、余計にお腹がすいてきた。
暫く朦朧としながら食堂前のガラス扉の前で突っ立っていると……。
唐突に食堂の扉が開いて、中からコックの若い青年が出てきた。
「……何をされているんですか?」
「し、食事を……待っている」
「駄目です、帰ってください」
「腹ぺこなんだ……勘弁してくれ」
私が懇願するようにそう口にすると、青年コックは端を切ったように口を開いた。
「アナタに食事を提供したら、関わった全員がクビになってしまいます! 勘弁してほしいのはコッチの方だ!」
耐えがたい空腹感の中で怒鳴られ、思わず涙が出そうになった。
そんな中でも、青年コックは私に詰め寄るような勢いで声を荒らげていた。
「そんなに辛いなら辞めればいいじゃないか! 迷惑をかけないでくれ!」
私をそれを聞いて、あまりにも深い絶望を感じながら背を向けていた。
キーンと耳鳴りがして、今にも倒れそうだった。
足を交互に動かすことさえ、億劫だった。
希望は、完全に潰えていた。
また、あの庭園に帰ろう……私を拒絶しない花々が待つ庭園へ。
そう思った、その時。
「おい、バカ」
「……コック長」
「何やってるんだ、忘れ物だぞ」
「しかし……」
背後で会話が聞こえた。
関係無いことだ。
これ以上の絶望には耐えられそうにない。
私が更なる歩みを進めようとした時、
「王女様」
耳鳴りのする中、かろうじてその言葉は聞き取れた。
振り返ると……中年のコックが、青年のコックにスープの入った皿を持たせていた。
「どうぞ」
中年のコックはそう口にするなり、扉付近の壁際にもたれかかりながらニヤニヤと笑みを受かべ、私を見ていた。
青年のコックはスープを持った状態で、不満そうにその場にカカシのように突っ立っていた。
もしかして……あのスープは私のために用意してくれたものだろうか?
「あ、ありがとう」
私はおぼつかない足どりで青年の持ったスープへと近寄る。
暖かい湯気が立つスープを見て、私は高揚していた。
震える手でそれを受け取ろうとして……。
「駄目です……」
スープを持つ青年が苦悶の表情で、誰にも聞かれないようにか、囁くようにそう口にした。
「……え?」
「このスープは毒入りです。有力な血統者様が、王女様が来たらコレを飲ませるようにと我々に命令していたんです」
それを聞いて、感情がぐちゃぐちゃになっていた。
今すぐスープを飲みたいのに、コレを飲めば毒入りで死ぬのだという。
ふと壁際の中年コックを見れば、ニヤニヤとした笑みが悪意を含んでいるように思えた。
本当……なのだろうか?
本当にこのスープは毒入りなのか?
そんなことまでするのか?
人は……学園はそんなにも私が憎いのだろうか?
「王女様、アナタはもう見るからに限界です。こんな腐った場所にいるべきじゃない」
悲痛な面持ちの青年コックの話を聞いて、私はもうキッカ家に帰ってしまおうかと考え始めていた。
帰ってお風呂に入り、食事を食べ、安全で清潔な部屋でグッスリと眠る。
その場所には、気の触れた母がいるだろうが……。
この場所よりは……。
どんなに幸せだろうか。
そんな妄想を浮かべながら受け取った皿を覗き込めば——。
ゆらゆらと波紋を立てて揺れるスープに、母親そっくりの顔が浮かび上がっていた。
その瞬間、私はスープに口をつけていた。
スプーンは無い。
みっともなく、動物のように口をつけて、仰ぐようにして液体を飲み込んだ。
熱かったようにも思えたし、冷めていたような気もした。
味を感じる時間は無かった。
気づけば、あっという間に皿は空になっていた。
「……美味しかったよ、ありがとう」
「ああ、そんな……」
青年コックが頭を抱えてそう呟いた。
壁際の中年コックは、大笑いしながら食堂に戻っていった。
反応から察するに……恐らく、青年コックの言っていたことは本当だったのだろう。
このスープは、毒入りだったのだ。悪意が込められていた。
私は呆然とする青年コックに皿を返し、幾分かマシになった空腹感で庭園へと歩き出した。
★
「ぐ、グフッ……」
スープを飲んでから、どれくらいだろうか?
幾度も地面に唾を吐いていた。
酷い吐き気と、倦怠感が私を襲っていた。
それに、眠気もした。
恐らく、このまま眠ってしまったら——私は一生目覚めないのでは無いだろうか?
……いや、そんなことはないか?
あれから冷静になって考えてみたが、私がいくら嫌われ者だろうが、毒入りスープを飲ませるなんてのはおかしい。
私を追い込む為の方便だろう。
青年コックが嘘をついたのかもしれない。
だが……彼のあの表情は……。
ザアッと風がなびく。
私の髪は揺れ、不快な汗のにおいがした。
ああ……。
幾度となく、思考の海を泳いでいる。
考えていたくはないのに、脳は活動を停止してくれなかった。
嫌な思い出と共に、私の過去がフラッシュバックされる。
私は一筋の涙を落としながら、こんな事を思っていた。
こんな思いをしながらまた明日がやってくるのなら……。
あのスープが——毒入りであってほしい、と。
「なあ」
声が聞こえた。
私はビクリとして、振り返る。
声のした方向に居たのは——。
心配そうな表情で私を見つめる、一年生と思しき生徒の姿だった。
それから、そこで起きたことはハッキリと覚えている。
二言三言会話を交わし、私はその一年生徒……カズヤ・ギークの異常さに気づいていた。
彼の目には、普段から感じるような差別を孕んだような、哀れむような、軽蔑するような色は一切見えなかったからだ。
まるで純真無垢な子供のような目が私を捉えていた。
なんなのだろう、この男は。
それに耐えきれなくなった私は即座に会話を終わらせようとした。
だが……その時私は、盛大に腹を鳴らしてしまった。
「お腹すいているんですか?」
悪意の無いその声音に、私は自身の顔に熱がともっていくのを感じた。
久しく感じていない。いや、初めての感情のような気がした。
私は気づくと駆け出していた。
★
日が落ちてからは猛烈な体の痛みと吐き気が私を襲っていた。
意識は虚ろになり、虚脱感に身を委ねていた。
そんな中でも、先ほど現れた男のことが頭から離れなかった。
「ふふっ……」
もしかしたら……彼はこの学園で唯一、私の味方になってくれる存在では無いのだろうか?
この哀れな私の全てを知った上で、救いの手を差し伸べる……同情してくれる唯一の存在に。
なんて……そんな甘い話があるわけがない。
今までどれだけ人に裏切られてきたと思っている。
絶対に裏切らないと言っていた友は次の日には笑いながら石を投げつけてきた。
これ以上は……人を信じるのも、裏切られるのも——苦痛だ。
「王女様」
幻聴にしてはハッキリとした〝音〟だった。
驚いて振り返ると、そこには決意を固めたような表情があった。
その時ばかりは、体の不調などすっ飛んでいた。
私は立ち上がり、カズヤ・ギークの目を見据えていた。
「どうして、そこまでしてこの学園に残っているんですか?」
きっと、その問いは……。
私がずっと、誰かに投げかけられたかった言葉だったのだろう。
自分でも驚く程に高揚としていた。
ここまでの仕打ちを受けて尚、何故私は学園に残るのか?
だが、今までその問いを寄越す者は誰一人として居なかった。
ただただ悪意をぶつけてきた。
きっと私は死ぬ前に……自分の気高さを……思いを。
皆に知ってほしかったのだ。
そうすれば……皆も分かってくれると——同情してくれると。
「それを聞いて何になる?」
だが、私はそれに対し問いで返していた。
今すぐにでも心は話したがっている筈なのに、今までのトラウマや仕打ちがそれを許さなかった。
恥をかくことを嫌っていた。
とっくに惨めで弱いのに、弱さを見せたくなかったのだ。
「分かりません」
カズヤ・ギークのその返答には面食らった。
そして、本心のようにも感じた。
気づけば……久しく回っていなかった筈の口が動き出していた。
★
「アンタは……間違っている」
そんなことは知っている。
だが、彼がそう口にした理由までは知らない。
だから聞いてみた、幼子のように。
「……何故だ?」
「それを望んじゃいない人間だっているはずだ」
それを聞いた瞬間、自分でも驚くほどに感情が爆発した。
「誰が望んでいないというのだ! この学園の者は全て私を忌み嫌っている! 私は食堂に入ることすら許されていないのだぞ!?」
挙げ句の果てには真偽不明の毒入りスープだ。
流石に本当に毒が入っていたのかは知らない。
だが、体調が悪化したのは事実だ。
もしかしたら洗剤でも混ぜられていたのかもしれない。
気づいた時には、カズヤ・ギークの胸元に掴みかかっていた。
そして、みっともなく当たり散らかしていた。
「さあ、答えろ! 誰が望んでいないというのだ!」
「俺ですよ」
時が止まったように感じた。
それほど、衝撃的な言葉だった。
ザアッと風がたなびく。
私はその時、ハッと我に返った。
そして、自分がしばらく風呂に入っていないことも——。
私は咄嗟に彼から離れ、距離を取った。
その時、自分の鼓動が信じられないくらいにざわめきだしていることにも気づいた。
「お前は……ただの変わり者だ」
「他にもいるかもしれません」
「どうだかな……」
「アナタはこの学園の全ての人間と話してはいないはずだ」
「どうして、どうして……そんな言葉を吐くのだ……や、やっと……諦めがつきそうだったのに……誰も信じないで済むと、思っていたのに」
私が必死に涙を堪えていると。
信じられない言葉が聞こえてきた。
「恐れながら王女様。私、カズヤ・ギークは——」
私は思わず振り返っていた。
そして、驚愕していた。
「微力ながら、王家のご息女である貴方様に忠誠を誓います」
慣れてないような動作で膝をつき、臣下の礼をとる男。
浮かんできた感想は……大馬鹿者だった。
だってそうだろう。この学園、特に純血舎の高等部は単なる教育機関では無い。
賢い選択、賢い立ち回りをして……派閥作りに勤しみ、将来の進退を全て決める場所なのだ。
先にも後にも何もない王女を擁立して、何になるという。
「な、なにを言っている……お前は、そのことの意味を理解しているのか?」
「まあ、それとなく」
「そんなことをしてなんの特がある!? 家族を巻き込むことになるぞ!?」
「お互い様だろうが。アンタもクソみてぇな自己犠牲で学園に残って、あげくの果てには餓死しそうになってるんだろ? それになんの特があるってんだよ」
だから王家に帰れ、というのなら分かる。
だが、この男は私にそんなことは言わなかった。
自分が私の軍門に降り、私を守る……そういうことだろう。
ハッキリ言って、理解出来ない。
特も無ければ、賢い者のする選択には思えない。
だが……。
「……お前の将来に響くぞ? ここは勉学に励むばかりではない、将来の派閥作りの場ともされている」
「こんなクソみてぇな状況を見過ごすようじゃ、俺の仲間には相応しくない」
その答えは気に入っていた。
なぜなら、この短い時間の間に私は何度もこの言葉を脳内で反芻させていたからだ。
「……ふっ、仲間に相応しくない、か。ただの学生の癖に、まるで上級軍人の様な言い草だ。尊大だな、お前は」
思わず漏れた笑いはやがて久方ぶりの
楽しい気持ちが蘇ってきた。
大馬鹿だが、味方が目の前にいる。
それだけで……。
何だか、今なら何でも出来る気がした。
「そういえば……」
「なんです?」
「微力ながら、何かすると言ったな」
「ええ」
「見ての通り、住むところが無いんだ。それに腹ぺこだ……微力ながら、どうにかしてくれるか?」
私は人生の最後に、この男を信じることにした。
そしてこの言葉に対し、返ってくる言葉が何かを考えていた。
この理解不能な……大馬鹿者は私のこんな言葉に何と返すのだろう。
「世話のかかる王女だ」
★
私はささやかな変装のつもりで頭にタオルを巻き、カズヤ・ギークの案内で男子寮へと踏み入っていた。
正直言って、この行動は正気の沙汰では無い。
男子寮に女子が踏み入ることは無くは無い。
高等部では婚約を結んだ者同士が夜の営みをすることは、非公式ながら許されていると聞く。
しかし、婚約を結んでいない者は足を踏み入れることは御法度だ、
しかも、相手は私。
見つかれば両名とも無事では済まない。
私は歩きながら、ポヤっとしてきた頭で、とあることを考えていた。
……もしかしたらカズヤ・ギークは、私を抱くことだけが目的なのではないだろうか?
隠れた僅かな視界で、廊下を歩くカズヤ・ギークの横顔を伺う。
何だか、胸の高鳴りは収まりを見せなかった。
……騙されてもいい。
そう、私は騙されてもいい。
今夜だけでも、彼に優しくされるのなら……。
「……なあ、部屋に入ったら、シャワーを浴びてもいいか?」
「ああ、好きに使ってくださいよ」
ああ……。
顔がほてってきた。
これから起こることを想像すると、何だかゾクゾクとしてきた。
まずは何をされるのだろうか。
この男は見た目に反して、結構乱暴なのかもしれない。
きっと私はなすすべ無く——。
開かれたドアに踏み入ると、私は絶句した。
メイド服を着た少女が、部屋に入るなり頭を下げていたからだ。
「お、お帰りなさいカズヤさん! お待ちしておりましたよ~」
思わずカズヤ・ギークの表情を伺うと、何故か彼も驚いた表情を浮かべていた。
「え? ……お前、なんでここにいるの?」
……その反応は、まるで何故彼女がここにいるのかを知らなかったような様子だった。
何が起こっているか分からず、私は困惑する。
そんな中……。
「そ、それがですねぇ……」
少女が顔を上げる。
それを見て、私は素直に驚いていた。
その少女は魅惑的な褐色の肌を持つ、とてつもない美少女だったからだ。
これほどの美少女は王家でも滅多にお目にかかれない。
ギーク家はこれほどの容姿を持つメイドを持っている……のか?
だったら私なんて……。
「うわあああ! カズヤさんが初日から女の子連れ込んでる!?」
褐色の美少女は私を見るなり、大きくのけぞっていた。




