2 ミケと会社
田中は2週間の休職を経て、今日から職場に復帰する。
心の準備はできているつもりだったが、緊張は拭いきれなかった。エレベーターを降り、オフィスのドアを開けると、
「おはようございます、田中さん!」口々に挨拶をされる。
なぜこんなにみんなが明るいんだ?俺に気をつかっていんだろうか。
田中はすぐにその原因が分かった。
「嘘だろ…」
田中のデスクには、しばらく会っていなかったミケの姿があった。
ミケは田中のデスクの上に座り、まるでこの場が自分の居場所であるかのように寝ている。
「おい、なにやってんだよ」と田中が話しかけると、ミケがにっこりと笑った。
「おかえりなさい、田中くん。待っとったよ」とミケが言って起き上がった。
その言葉に、田中は心の中で小さく笑った。
ミケが本当にここにいる。そして、幻覚ではなかったのだ。
「待っとったじゃなくて、え?なんで、まだいるの?」
ニヤつきながら田中は自分の椅子に腰を下ろした。
「あんた、私がおらんかったら危なかったよ」
すると、隣のデスクから佐藤が話しかけてきた。
「田中さん、お久しぶりです!ミケちゃんが救急車を呼んでくれたらしいですよ」
「え?ミケが?」
「そうよ、田中くんがあのまま椅子から倒れてしまって、私が119したと」
「まさか!救急隊員は駆け付けた時、誰もいなかったって…自分で押したんだろうって言われたんだが…」
「ミケちゃん、電話できるんですよ」なぜか佐藤が得意げに言った。
「22年も生きとったら、知恵もある。ペンば持ってから電話のボタンば押したと」
そう言って、会社の電話を押す真似をした。
「そ、そうなのか」と田中は驚きながらも、複雑な気持ちになった。
今度は俺が猫に命を助けられたとは!
「なんか、今度おごるよ」
「手作りの鶏ハムでよかよ」
ミケは机の上から田中の膝に飛び乗った。
「おい!なに、なんで膝に乗る?」
田中はミケを下した。
「いいじゃないですか、田中さん。ミケも仕事してるんですよ」
佐藤が代わりにミケを膝に乗せた。
「仕事?」
「『癒した課』に所属してるんです。ミケちゃんはうちの社員ですよ」
「いやしたか?なんだそれ?」
佐藤はミケの鼻筋を撫でていた。
「癒すのが仕事です。みんなのストレスを吸い取るんだよね」
「そうですよ。じゃ今日は仕事頑張ろうね、田中さん」と励ましの言葉をかける。
ミケが邪魔者扱いされるのではなく、皆の心を和ませているのだと知り、彼自身も少しだけ安心した。
田中はミケに感謝しつつ、パソコンの電源を入れた。
画面が点灯し、未読メールが山のように積もっているのを見て、少し気が遠くなった。
「ミケ、手伝ってくれないか?」と冗談半分で言うと、ミケは佐藤の膝の上で「もちろん」とニャっと笑った。
その日一日、田中はミケの存在に助けられながら、仕事に取り組んだ。
ミケはデスクを巡りながら、他の社員たちとも楽しげに話していた。彼女の博多弁と愛らしい姿が、オフィス全体の雰囲気を和らげ、皆のやる気を引き出していた。
昼休みになると、ミケは田中のデスクに戻ってきた。
「田中くん、お昼一緒に食べようね」と言った。
「ミケのお昼は何?」
「ネズミ」
は?
「嘘よ。実は、田中くんが作った鶏ハムを期待しとるんよ」とミケはにっこり笑った。
「おいおい、冗談はよしてくれよ。さすがに鶏ハムはまだ作ってないよ。でも、お昼は一緒に食べよう」と田中は苦笑しながら応じた。
田中はミケを連れて休憩室へ行った。社員たちが驚きと興味の目を向ける中、田中は自分の弁当を広げた。
「鶏ハムはないけど、これでもどうかな?」田中はミケにささみを差し出した。
「まって、塩分があまりよくないかも」
田中は水で洗って持ってきた。
ミケは嬉しそうに目を輝かせ、ささみをぱくっと食べた。
「ありがとう、田中くん!美味しかよ。ささみはタンパク質が豊富やけん、ミケランジェロに近づくね」
休憩室の一角で、田中とミケの会話が弾んだ。周りの社員たちもその光景に和み、自然と笑顔が広がった。
「田中さん、ミケちゃんのおかげで社内が明るくなったんですよ。彼女が来てから、みんなの仕事の効率も上がったし、ストレスも減ったみたいです」と佐藤が言った。
「そうなんだ。ミケがここに来てくれて、本当に良かったんだな」と田中は感慨深げに頷いた。
午後の仕事に戻ると、田中はメールの山を片付けながら、ミケが他のデスクを巡る姿を見ていた。彼女はそれぞれの社員に話しかけ、時には肩を揉んでリラックスさせていた。
「ミケ、君は本当に皆の癒しなんだね」と田中が声をかけると、ミケはにっこりと笑った。
「ありがとう、田中くん。私は皆が元気になるのが嬉しかと。あなたも無理せんで、頑張りすぎんようにね」と優しく言って、田中のデスクの上に寝転んだ。
ゴロゴロゴロゴ、とミケの喉からなる音に田中は驚きながらも、心の中でほんのりと温かい気持ちを感じた。ミケの心地よい喉の音が、まるで穏やかな音楽のように響き、彼の一日を明るく照らしてくれていた。
その夜、田中は家に帰り、再び鶏ハムを作ることを決意した。「ミケに感謝の気持ちを込めて、明日は特製鶏ハムを持って行こう」とつぶやきながら、キッチンで鶏肉を準備し始めた。