五十五日目
自分で言うのもなんだが、俺は結構忘れっぽい。
人の名前はもちろん、地名なんかも全然覚えられない。聞いて、次の瞬間にはもうほとんど覚えていないのだ。
なんなら、自分が今何をやっていたのかすら、忘れてしまう時がある。母親に前に、「ニワトリは三歩歩いたら忘れるけど、ヒロトは一歩も動かずとも、昨日の出来事や宿題の存在を忘れることが出来る」と言われたこともあった。
でも、そんな俺でも、自分が大切だと思った情報だけは率先して覚えるようで、完全数やカプレカ数はもちろん、数学の時間に習った、57が「グロタンディーク素数」であるということも、今でもはっきりと覚えている。
余談だが、俺が日記を書いているのは、そんな偏った記憶を補うためでもある。
この日記を書き始めたのは、ちょうど席替えをして桜に絡まれた日だった。
その時、人と関わる時、特に、人と過去を振り返る時、こういう記録が役に立つかもしれない。そんな風に、俺は漠然と考えていたのだ。
放課後、俺は二回目の登校をしていた。
なんのことはない。たまたま日記を学校に置いてきてしまったので、取りに戻っていたのだ。
校庭の方から、野球部や陸上部が部活に励んでいる声が聞こえた。ただでさえ暑いのに、動き回ってさらに汗をかくなんて、信じられなかった。
そんな暑苦しさと打って変わって、校舎の中はすごく涼しかった。職員室の先生たちの音や、ブラスバンド部の楽器の音が、廊下全体を軽やかに満たしていた。
そんな静けさに酔いしれながら歩いていくと、なにやら聞きなれない音が少しずつ聞こえてきた。
誰かと誰かが、言い争っているような声だった。
どうやら、この異音は俺の教室の方から出ているようだった。近づいていくにつれて、どんどんと音が大きくなってきて、内容も少しずつ聞き取れるようになっていった。
「……なん……だよ? そもそもそんなの、覗き見していい理由にはなんねーだろ」
「わざとじゃないんだからしょうがないでしょ!? 授業のノートかと思ったんだもん」
「じゃあ、わざとじゃなかったらなんでも許されんのかよ! 殴ったり蹴ったりしても、わざとじゃなかったらやっていいんだな?」
「そんなこと言ってないじゃん」
「いや。一緒だけど? ユイがやってんのは、一方的な暴力。ただそれを、直接殴ってるか、精神的に遠くからチクチクやってるかの違いだろ?」
間違いなく、ゆうかとユイの声だった。
彼女たちはどうやら、俺が教室のすぐそばにいることに気づいていないようだった。むしろ、言い争いがヒートアップして、声のボリュームもどんどん大きくなっていった。
「思ったんだけど、なんでそんなに、ヒロトくんの味方すんの?」
息が止まった。
「味方っていうか、おめーがおかしいから言ってんだ」
「おかしいのは、ヒロトくんもそうでしょ?」
なんて酷いことを言うんだ、と素直に思った。
俺はもう、ユイの顔を思い出せなくなっていた。
「普通に考えて、こんな文章、中学一年生に書けると思う? 絶対おかしい。ゆうかさん、ヒロトさんになんかされたりしてない?」
俺はそれ以上何も聞きたくなくて、踵を返して歩き出した。
階段の一段目に差し掛かって、後ろから「これ以上やめて」というゆうかの叫び声が聞こえた。




