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後ろを歩く僕たちは(後編)  作者: 上田秋人
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後ろを歩く僕たちは(後編)

 大学生の夏休みは長い。九月の入ったころ、依頼された絵を描き終えたという兄が、再び実家に戻ってきた。

「ちょっと、頑張って描きすぎたから、しばらく実家で体を休ませたい……」

 なんて、ヘロヘロした顔で言った兄だ。侑人は、そういう兄の図々しさみたいなものに、モヤモヤしたけれど。母は生き生きと、それは嬉しそうに、兄の世話を焼いた。

「兄貴、今回はいつまでいるつもり?」

 夕飯の後、兄よりも先に侑人は風呂に入った。風呂場が空いたことを伝えるついでに尋ねた言葉だったが、思いの外、冷たい声になった。

「そんな邪魔者みたいに……さみしいなぁ」

 昌秀は苦く笑ったけれど、特別傷付いた様子もなかった。

「いや、そういう意味じゃなくて、長くいるならこの部屋、もうちょっとどうにかしたら? って思っただけ」

 侑人は苦しい言い訳をした。兄の部屋は、再び、ベッドの上まで画材が占領している状態に逆戻りしていた。夜は、部屋の隅の方で縮こまりながら、寝袋で寝ているらしい。

「体、休ませるために帰ってきたなら、もうちょっとどうにかしたら?」

 侑人が重ねて言うと、兄は弟を伺うような目をして、

「侑人、夜だけお兄ちゃんのこと、」

「ヤだ」

「まだ最後まで言ってないよー」

 兄が笑った。

「ヤだよ、自分の部屋で寝て」

 侑人はムスッとした顔をする。

「風呂、あいたからね」と、本題である用件を伝えて、兄の部屋を出た。

「父さんと母さん、もう入ったって?」

 廊下に出た侑人の背に、兄の声が届く。

「お兄ちゃん先に入りなさいって」

 侑人は、母親の言葉をそのまま伝えた。兄は子供の声で「はぁーい」と気の抜けた返事をしている。肩の力の抜けた、侑人にとって最も兄らしい声だ。

(絵を、描いてる時は……)

 兄はもっと、違う人物に見える。纏う空気も、しゃべり方も、声も、視線も、立ち居振る舞いも。全部がなんだか、遠い人のように見える。

(画家って、なんだろう……)

 プロの、画家、というのは、どういう人を指すのだろう。

(売れてなくても、プロは、プロ、なのか……自称の画家も、売れてたら、それはプロ、なのか……?)

 九月に入って、暑さはまだ健在だけれど、蝉の声は聞こえなくなってきた。日差しも、ゆるやかに、光の加減を変えてきている。ゆっくりと、光源を、絞るみたいに。明るさはそのままに、光の量だけが調節されていく。

 侑人の頭の中には、柏木の言葉がずっと引っかかっていた。

『この際、自分が絶対にやりたくないことを考えてみてはどうだ?』

 柏木は、電話でそう言った。やりたくないことは、本当にスラスラ出てきて自分でも驚いた。

(俺は……会社員には……なれそうに、ない……)

 この夏休み、それだけはハッキリとわかった。夏より前には、どこかの会社に就職して、趣味で絵を描き続けようかとも思ったりした。けれど、会社に行って働いて、疲弊して家に帰ってきて、そこから絵を描けるとは、とても思えなかった。

(絵を描く時は……集中して描きたい、邪魔されたくないし、疲れた状態で、何時間も描くのは難しい……っていうか、会社員しながら描いていたら、絶対毎日のように夜更かしすることになって、短時間睡眠で、また出社して、疲れて帰ってきて、無理矢理気力を出して夜更けまで絵を描いて、また短時間睡眠で出社して……)

 ゾッとした。単純で、社会を知らない状態の侑人の想像力では、簡単に「死ぬのでは?」という考えさえも浮かんできてしまう。

「残業とかあったら、キレそうだし……」

なんで帰れないんだ、もう定時は過ぎたのに!

なんでこんなに長い時間、拘束されないといけないんだ!

俺には、やりたいことがあるのに!

(……やりたいこと……)

俺は! 絵が! 描きたい! それなのに……!

 新入社員がそんなことを叫び散らしたら、まず間違いなくクビになるか、呼び出されて面談になって、社会人というのはこういうもので、みんな同じ条件だけど、それでも君のように文句を言ったりせず、我慢して頑張っているんだよ、それがお金を稼ぐということだよ、みたいなことを言われて宥められるかするんだろう。

「冗談じゃない」

 思わず、声に出た。侑人は自室でひとりきりで、その声を聞いた人は自分しかいなかった。

 自分でも驚くほどに、嘲るような声が出た。頭の中に自然と浮かんだ。


俺は、お前たち凡人とは、違う


 明確な、言葉として、浮かんだ。侑人は、自分の思考に、自分自身の考えに、慄いた。

「……どこから目線だよ、俺……」

 左の頬が、ヒクヒクと痙攣する。今、頭に浮かんだのは、間違いなく侑人本人の思考である。瞬間的に、思ってしまった。

「俺は、凡人とは違う。そんなに必死になって金を稼がなくても、俺は困らない。苦労しない。一生懸命になって生活をしなくても、俺には十分な余裕がある。だからこそ、自分が本当に好きなことをやるべきだと思うのだけど、何をしようか、どうしようか、迷っているところなんだ。兄貴は画家だし、俺も絵が好きだから、画家になってやっても良いんだけど、画家とか、今の時代流行らないし、売れないし、売れない画家とか、虚しくないか? 実際俺は、兄貴の絵は好きだけど、売れてない時点でなんか哀れだなぁと思うし、そういう人間に、俺はなりたくないんだよなぁ」

 血の気が、引く思いがした。自分の、心根の、醜さに。しかし、この考えが、具体的に浮かび上がった時、侑人はもう、気が付いていた。

(ずっと、この考えは、頭の中にあった……それを、どうにか表からは隠そうと……周りに、バレないように、自分自身さえも、気付かないように……)

「俺は、」

知らぬ間に、全てを、見下していたのだろうか?

 インターンシップに行っている間も、自分以外の学生に対して「どうしてそんなに必死になってるんだろう」と思っていた。そして、心のどこかで「金がない家に生まれたのかな、大変だな」と思っていたのかもしれない。

 必死になる人々のことが、他人事だった。自分は必死になれずに、ただ「大変だ、大変だ」と思っていた。

(俺……なにが、大変だったんだろう……)

 強烈な恥ずかしさのようなものと一緒に、侑人の胸の内に、自分という人間の本当の顔が浮かび上がってくる。今までだって、知っていた顔。けれど、見ないように見ないように、努力してきた顔。

 自分の素顔の醜さが、鮮烈だった。机の上に置かれたスケッチブックの山、その中に熱意を持って描き溜めた、裸婦の絵が、恥ずかしくて。女性の裸を描く時に感じた、あの、天にも舞えそうなほどの高揚感が気持ち悪くて。

 自分のことを、客観的に見つめてくる自分の目が、怖い。冷静な目は、侑人を指さして断言するのだ。

「お前は何もかもから、ただ見苦しく逃げているだけなのに、それなのに、自分以外の人間を、あまりにも自然と、見下しているんだ」

 なんて身勝手で、なんて傲慢で、なんて醜い。

「お前が周りから浮いているんじゃない。お前は、周りから、排除されたんだ」

だってそうだろう、お前みたいな人間、周囲に溶け込んで上手くやれるわけがない

お前は異物だ

お前こそが、異物だ

 耳の奥が、ツーと鳴っている気がした。侑人はベッドの上に縮こまる。どうして、唐突にこんなことを考え出したんだろう。

(兄貴が、帰ってきたから……)

 そう思った。思った途端に「また人のせいにするのか」という声も聞こえた。

(だって、仕方がないだろう……)

 兄がいると、どうしても、兄を見てしまう。兄の、生き方を、兄の、辿った足跡を。前を行く、人間の、痕跡を。


 そのとき、部屋の扉をトントンとノックする音が聞こえた。侑人はハッとなって、机の上に置いてあるスケッチブックを、急いで引き出しにしまって鍵をかける。

「入って良い?」

 兄の声がした。引き出しの鍵がきちんとかかっているのを確認してから「いいよ」と答えた。

「ごめん、やっぱり今日だけ、侑人の部屋で寝てもいい?」

 兄は既に布団を腕に抱えた状態で言った。兄の部屋は隣だけれど、こうまでされたら、断るのも面倒くさい。

「今日だけね」

 侑人は不機嫌に言った。兄は、風呂上がりの顔を柔らかく動かして、笑った。

「あ、そういえば、前に話した柏木……兄貴の友達の弟」

「ああ、大輝の弟? なんだっけ、悠輝くんだっけ」

「そう。そいつから連絡あって、大輝さん? 兄貴に会いたいって言ってるらしいよ」

 柏木から、その連絡を受けたのは随分と前のことだ。ようやく伝えられて、侑人はホッとした。

「あー、僕も会いたいなぁ~、元気にしてるのは、時折テレビ見て知ってるけどね」

 兄は布団を敷きながら嬉しそうに言う。友達は売れているミュージシャン、自分は売れない画家。悔しさや、妬みはないのだろうか。

「なんか大きいツアー? が終わったんだって。それで落ち着いたから、兄貴に会いたいって。連絡してみたら?」

 侑人が言うと、兄は苦笑して、

「侑人から連絡してくれない?」

 と言った。

「なんでだよ」

 侑人から連絡するとしたら、侑人から悠輝へ、悠輝から大輝へ、という面倒な構図になる。

「連絡先、知らなくてさぁ」

 兄は言った。

「友達なのに?」

「前は知ってたんだけどさぁ、僕が携帯変えちゃったから……連絡先、引き継がなかったんだよね」

 侑人には、理解が出来ない。

「不義理」

 侑人がスパッと言うと、兄は後ろ髪をいじりながら、居心地悪そうな顔をした。

「そういえば、侑人、インターンシップ行ったんだって?」

 兄は、どうにか話題を変えようと思ったのか、急に切り出してきた。何か言われるかな、とは思っていた。思っていたからこそ、今回の兄の帰省に、あんまり関わりたくなかったのだ。

「行ったよ」

「どうだった?」

 すぐさま切り替えされた。侑人は、無表情に「会社員にはなれそうにない」と言った。

「じゃぁ、どうするんだ……?」

 兄の声のトーンが、少し低くなった。

「また母さんに言われたの? それとなく聞いてくれって」

 侑人が嫌そうな顔をすると、兄は「そんなとこだよ」と笑う。

「兄貴も大変だな、弟の進路なんて、兄貴にはちっとも関係ないのに」

 ぶっきらぼうに言う侑人に、兄は「関係なくないよ」と言った。

「僕はお兄ちゃんだからね、弟のことを心配するのは当たり前」

「……そういうもん?」

「そういうもん」

 兄は言うと、さっさと布団に入ってしまった。侑人はまだそこまで眠くもなかったけれど、グルグルと頭を使うことにも疲れてしまった。自分も寝ようと思って、電気を消す。

 すると、兄がそっと、まるでもう真夜中であるかのように、静かに言った。

「名前のあるものだけが、職業じゃないからな」

「……なにそれ」

 侑人はベッドに座って、その声を聞く。

「お前は、細かく人間や、風景を観察する目を持ってる。それはお前にとっては普通のことかもしれないけどな、普通じゃないんだ、みんな、もっとお前より、見えてない」

 そこで、兄は深い呼吸を挟んだ。そして、続ける。

「人間が、見て、美しいと思えるバランスみたいなものの、真理を、お前は知ってる」

「……どうしたの、急に、」

 侑人は、全身がむず痒い。そして、息苦しい。

「どうもしないよ、そう思っただけ。おやすみ」

 兄はそれきり、口を開かなかった。侑人は、暗くなった自分の部屋のどこでもない所を見つめ、染み着いている油絵の具の匂いを感じて、しばらく呆けた。

(……こういう、お前は特別なんだ、みたいなことを、呪いの言葉みたいに、無責任に振りかけてくるの、いい加減、やめて欲しい……)

 侑人の目から、ふいに涙がこぼれた。泣こうなんて、ちっとも思っていないのに、ポロリと落ちた。

 傲慢で冷たい自分の心、そして、侑人のそういう心を、丹念に育てあげてしまったことに気付かない周囲。輝く、呪いの言葉たち。

(俺を、特別、だと思いこませたのは、俺じゃない、周りの人間だ……)

「酷いなぁ……」

 侑人は呟いた。兄の耳には、届いただろうか。

 そっと涙を拭って、侑人はベッドの中に隠れるようにして埋まった。


 *

『夏だな、侑人くん。プールと洒落(しゃれ)込まないかね?』

 翌日の朝、侑人は柏木に連絡をした。ウチの兄もそちらの兄に会いたがっている、ということを伝えるメールだ。

 ついでに、兄の新しい連絡先も送っておいた。これであとは、兄同士が直接連絡を取り合うだろう。ようやくお役御免になると思ってスッキリした気分でいると、柏木から電話がかかってきた。

「プール……」

『そうとも! 九月だ! ようやっと、プールも空いてくるというものだろう?』

 柏木の陽気な声が、スマートフォン越しに鮮明に聞こえてくる。

『どうせ家で絵を描いては、未来に絶望して、絵を描いては、絶望してを繰り返しているところだろう? たまには体を動かした方が良い、若者よ!』

 あまりにも図星を指されて、侑人は笑った。

「わかった、行く。どこに何時?」

 侑人は、プールに遊びに行くのは久しぶりだった。高校の時、夏休みに友達と行った以来だ。

 母親に水着やバスタオルを出してもらい、交通費と昼飯代として、少なくない小遣いを貰って家を出た。

(こういう、なにもかも、やってもらえるのも、異様なんだろうか……異様、なんだろうな……)

 侑人の財布には、いつも一番大きい額の札が最低三枚は入っている。それは侑人の意志ではなく、母親が「何かあったら困るから、必ずこのくらいは持っていなさい」と言いつけているものである。

 何かあったらの「何か」とは、なんだろうかと侑人は思うし、母親の想定する「何か」というのは、三万円あれば解決出来るものなのだろうか。疑問に感じる部分は山ほどある。

 侑人は決して無駄遣いをするタイプではないし、画材以外には欲しいものなどあまりない。けれど、友達と遊びに行く際など、あまりにも金を出し惜しまないので、怪しい目で見られた経験も数度ある。

 財布の中身を全額取られたこともある。

 侑人は、財布の中身を取られても、ちっともショックを受けなかった自分がショックだったのを覚えている。仲の良い友達が、侑人よりもずっと勢いこんで犯人に対して怒ってくれていたことも、嬉しかったと同時に、申し訳ない気持ちにもなった。


「おーい、侑人!」

 プールのある最寄り駅の改札で、柏木が大きく手を振っていた。侑人はすぐにそちらに駆け寄って「待たせた?」と尋ねた。

 柏木は笑った。

「待つくらいなんだね、来るとわかっている人間を待つことほど、簡単なことはないさ」

 と言った。柏木節は相変わらずで、笑顔も、歌うような声も相変わらずで、侑人は嬉しかった。

「久しぶりだな」

 侑人が言うと、柏木は「寂しかったかね? すまんなぁ、俺は多忙で、大学がある時よりも、休みの時の方がよっぽど忙しい!」と言った。

 プールまでは歩いて十五分というところだ。シャトルバスも出ていたが、歩くことにした。

「暑い思いをした方が、プールに入った時、気持ちよさが増す気がする」

 という柏木案を採用する形となったのだ。蝉は鳴かずとも、気温と湿度は、相変わらず地獄のように高い。

「日本の夏は、どんどん人を殺しにかかっている気がするなぁ」

 柏木が笑顔で言った。

「夏バテとか、縁遠そうだなぁ、お前は」

 侑人が言うと、柏木は「俺は年中元気だよ」と言う。

「俺はインターンシップ終わった後、マジで寝込んだ」

 元気な柏木の歩く姿を見つめて、侑人は言った。柏木は、黒のタンクトップに膝下くらいの丈のズボンを履いている。服から出ている肌は、夏休み前よりも黒くなっている気がした。

「そういえば、姉の手は描けたのかね?」

 先を歩いていた柏木が振り返り、スッと目を細めた。侑人はギクッとして、体を固めた。

 柏木の顔は、黒目が大きい分、目を細めると何か企みがあるように見える。

「なんの話か、なんてとぼけるなよ? 姉の手を、随分と熱心に観察したそうじゃないか」

 柏木はクックックと笑って言う。侑人は全身が沸騰しそうに熱くなりながら、口元をモゴモゴさせた。

「お姉さん、から、聞いたのか……?」

 侑人が問うと、柏木は頷いて言った。

「ウチの姉をそういう対象として見ているようなら、忠告するよ。アレはやめた方がいい」

 侑人は、首を傾げた。

「そういう対象って、どういう対象だよ、絵に描くなら、別に手くらいなら、普通に描ける」

 柏木は、侑人の言葉を受け止めながら、鼻歌交じりに言った。

「恋愛初心者には、ウチの姉はレベルが高すぎるという話だよ~」

 侑人は再び、体が熱に支配された。

「れ、恋愛、って、なんでそういう話に……」

「あれ、好きなんじゃないのか、ウチの姉のことが」

 柏木は、歩みをゆるめて、侑人の真横に並んで歩いた。

「……どうして、そういう方向に……」

「いやぁ、熱心に女の手を見つめるっていうのは、なかなかロマンティックで時代錯誤で侑人らしいと思ったんだが、違ったか」

 柏木は、悪気なく、どこまでも広がる青空のように爽やかに言う。侑人の側はと言えば、彩輝の顔がチラチラと脳裏に浮かんで仕方がなかった。

 確かに、素敵だと思っている。彩輝に会いたいという気持ちで、インターンも乗り切った。絵にも描いた。手だけでは足りずに、そう、手だけではなく。

(……裸、の、妄想、までして……)

 白くて、まろやかで、柔らかい手。

 あの手に、触れた瞬間の、少しヒヤリと冷たかった感触を、鮮明に覚えている。

「別に、恋愛、とか、そういうんじゃないし……それに、彩輝さんは、あんなに素敵な人なんだから、もう、彼氏とか、そういうの、いるだろう、どうせ」

 侑人は言った。柏木はハッハッハと高らかに笑って「やっぱり気になってるんじゃないか!」と言った。そして、侑人の背中をポンポンと叩きながら、笑う。

「ウチの姉を気に入ってくれたのは嬉しいがね、アレはダメだ。ウチの姉はな、大が付くほどの男嫌いだからな」

それに加えて、あまりにも気が強いし、本人が男気の塊だしなぁ

「姉は、何があっても絶対結婚はしたくないという、そういう強い意志でもって、自分で自分が生きていくための金を稼いでいるそうだよ」

男と結婚して、男の稼ぎの世話になるくらいなら、首を吊って死ぬ! とまで、両親に豪語したこともあるくらいだ

「……強烈、だな……」

 侑人は、自分の中にある、穏やかで、まろやかな彩輝の像が崩れていく音を聞いていた。

「アレでも、昔は結婚が夢、みたいなことを言っていた気がするんだがなぁ、なにがあったかは知らんが。とにかく、今は結婚だとか、彼氏がどうのとか、そういう話題を振っただけで、烈火の如くキレられる。女の幸せが結婚だけだとか思ってるなら表へ出ろ! というような勢いだ」

だから、我が家では、姉の前ではそういう話題は厳禁なのだよ

 柏木は腕を組んで、ワザと難しい顔を作って言った。

「そんな風な人には、ちっとも見えなかったけどなぁ……怒ったり、あんまりしないような、そういう人に見えた……インターンシップの時も、きちんと全員の面倒を見てくれたし」

 最終日には、彩輝が全員に昼食の弁当を奢ってくれたりした。柏木は侑人の顔を見上げるようにして、渋く笑った。

「侑人、お前さんの目に、世界はどれだけ美しく見えているんだろうなぁ」

 侑人は、柏木の言葉の真意が、イマイチわからなかった。夏の風に乗って、賑やかな声が聞こえてくる。

 二人はプールの目の前に到着していた。


 九月ということもあり、プールはそこまで混雑を極めてはいなかった。

 侑人と柏木は、心ばかりの準備運動をしてからプール遊びに挑んだ。大型の施設には、様々な種類のプールがある。飲食店や休憩スペースもあって、一日中遊んでいられる。

 男二人でのプール遊び。そして、侑人も柏木も、基本的にマイペースである。

 柏木は大きな浮き輪を借りてきて、流れるプールでずっと浮かんでいたし、侑人は泳ぎ専用のレーンでひたすらクロールと平泳ぎを繰り返していた。

 泳ぐのに疲れると、流れるプールに柏木を回収しに行く。そして、二人でプールサイドでコーラを飲む。体力が少し復活したら、また泳ぎに行く。柏木は、再び流れに行く。

 それを繰り返していると、

「お兄さんたち、二人で来てるの?」

 たまたま、隣の席で休んでいた女の子に声を掛けられた。どうやら、向こうも女二人で来ているらしい。派手な色の水着、けれど露出はそこまで高くない。柔らかそうな胸の谷間が、ピンと水を弾いていた。

「その通り、男二人で夏を求めてやってきたってところだ」

 柏木が愛想良く答える。女の子たちは、柏木の話し方が面白いらしく、キャッキャと笑った。

「ねぇ、私たち、今からお昼なんだけど一緒にどう? ご飯だけ」

 黒髪をポニーテールにしている女の子が言った。もうひとりは、少し茶髪で、ショートカットだ。

 両者ともに、頬のあたりが自然の血色で薄くピンク色になっていて、健康的な肉体は、どこもかしこも、張りがある。

(うーん……アリサといい、この子たちといい、やっぱりなんか、こう、暴力的なくらいの生気というか……)

 生きる力に漲っている。それはとても素晴らしいことなのに、侑人には少々つまらなく感じられた。

(奥行きが、薄い……)

 イメージとしては、そういう感じだった。表面は派手なのに、中身が薄い。

「いいね、昼飯! どうだね侑人、行くかね?」

 柏木が侑人を振り返る。侑人は「いいよ」と答えた。いいよ、と言ったのに、柏木が驚いた顔をする。

「なに、その顔」

 侑人が言うと、柏木は「快諾されるとは思わなんだ!」と言って笑った。

 四人で連れだって、水着の上からタオルを羽織ってフードコートに行った。焼きそばやたこ焼き、うどん、ラーメン、カレーライス。これぞフードコート! と言わんばかりのラインナップである。

 相談して、アレコレと買い込んで、四人で小さな丸いテーブルを囲んだ。食事代は侑人と柏木が払った。

「なんかすみません、ご馳走になって」

 ポニーテールの彼女が言った。

「あれ、最初からそのつもりだったんじゃないのかね?」

 柏木が茶目っ気たっぷりに言った。その言葉が、全然嫌みに聞こえないのは、もはや才能だと侑人は思う。

「え、全然、そんなつもりないですよ」

 ショートヘアの彼女が首を振った。

「今時、男の人に奢って貰ってキャーキャー喜ぶなんて、あんまりないです」

 ポニーテールの彼女も、髪をヒョコヒョコ揺らして頷いた。彼女らは、プールの近くにある私立大学の一年生らしい。

「大学三年って、やっぱり就職のこととか、卒論のこととか、大変ですか? それとも、ちょっと楽になったりとか、します?」

 たこ焼きを食べながら、ショートヘアの彼女が尋ねた。柏木が「二年までに単位をちゃんと取っている人は、余裕だよ」と普通の答えを返した。

「……将来、やりたいこととか、あるの?」

 侑人は尋ねた。肩の力の抜けきっている、本当に夏を楽しんでいる風の彼女たちの内側に、どんなビジョンがあるのか知りたかった。

「私、特になんにも決まってないです」

 ポニーテールがうなだれる。

「私も。特に好きなことも、特別な趣味とかもないし、どうしよっかなぁ、っていう感じで……」

 ショートヘアも唇を尖らせながら、遠くを見ている。

「お兄さんたちは、もう進路とか決めてるんですか?」

 無垢な質問だった。当たり前だ、先ほど知り合ったばかりなのだから。

「俺は音楽が好きなんでね、音楽関係で就職が決まっている」

 柏木が、パッと答えた。そして、侑人の方を伺う視線で見つめる。その視線を、ウルサいなぁと思いながら、侑人は言った。

「俺は、絵を描くのが好きだから……まぁ、画家、って言ったら、笑われるかもしれないけど……」

 プールの天井はとても高い。人々の楽しむ声が反響して、クワンクワンと充満している。

 そんな中に、ポツンと落とされた「画家」という響きは、あまりにもお伽噺のようで、現実味がなかった。

 引かれたかな、呆れられたかな、見下されたかな、と思った。

「二人とも、すごいですねぇ……音楽と絵、なんて……なんかアカデミック? っていうの? あれ、違う?」

 ショートヘアの彼女が、感心したように言った。心から、裏表なく、賞賛している声だった。侑人は拍子抜けする。

「画家、とか言って、引かないの?」

 素直に尋ねてみると、ポニーテールの子が笑った。

「引かないですよ、全然! 夢があるって、すごいことだなぁって私は思いますよ」

「そうそう、目標とか、夢とか、熱中できるもの、そういうのがある人って、マジで恵まれてる」

 ショートヘアの彼女が、勢い込んで同意した。

「高校のころもそうでしたけど、進路決めるとき。大学進学っていうのは決めてたんですけど、じゃぁどこの大学? どこの学部? ってなるじゃないですか……私、それもちっとも決められなくて……先生とか親から、死ぬほど言われるんですよ、夢はないのか、やりたいことはないのか、ちょっとでも興味のあることはないのかって」

ないから困ってるの! っていうの、なかなか理解してもらえなくて

「ほんの少しくらい、興味あること、あるでしょう!? とか、無茶なこと言われたりもするよね、ほんと、困る。この世の中で、いったい何に興味を持てばいいのか、ちっともわかんない。そりゃ、服とか可愛い小物とか、化粧品とかは好きだけどさ。他にも、流行ってる食べ物とか、友達と遊ぶのも好き。でも、ソレと進路とは、全然違うじゃんね」

「私もそうだよ、映画とか観劇とか好きだけどさぁ、映画監督になりたいわけでも、女優になりたいわけでもないし、アイドルとかイケメン俳優とかも好きだけどさ、別にその人のマネージャーになりたいわけでもないし、お近づきになりたいわけでもないし、好きっていうのと自分の将来と、そんなに結びつくもんでもなくない!? っていつも思うよ」

 彼女たちは、今までの淑やかさなど忘れたかのように、ペラペラとよく喋った。

 侑人は、女兄弟がいないので、少々圧倒されたけれど、彼女たちの生き生きとした姿は、健全で、勢いがあって、純粋で。先ほどは奥行きがないと思ったものだが、なんだか癒されるような気持ちになった。

(俺も、ああいう風に、言いたいこととか、思ってること、バーっと口から出せたら良いのに……)

 侑人は、彼女たちのよく回る口と脳味噌が羨ましい。柏木も、なんだか楽しげな顔で彼女たちと、そして侑人を見ていた。

「なんだよ」

 小声で言うと、柏木は「いやぁ、ね」とニヤニヤした。

「お前の口から、ようやく、画家になるという具体的な音が聞こえて、その音色に酔っているだけだよ」

「いちいち言い方がなぁ、お前は」

 侑人は苦情を言ったけれど、柏木はご機嫌だった。彼女たちとは、本当の本当に健全に。連絡先さえ交換しないで、フードコート前で別れた。

 プールの帰り道、柏木が思い出したかのように言った。

「そういえば、侑人兄の連絡先をありがとう。さっそく我が兄に送っておいたよ」

「ああ、こっちこそ、なんか悪かったな。ウチの兄貴の怠慢で連絡先、伝えてなかったみたいで」

 侑人は「怠慢」の言葉を強調して言った。兄の昌秀は、絵を描くこと以外については、本当に怠慢の一言に尽きると思っている。ひとりでは、何も出来ないのではないか、とさえ思う。一人暮らしをしているとはいえ、家事については週に三度、お手伝いさんのような人が来てくれるようだし、母も父も暇を見つけては兄に連絡をしたり、一人暮らしの家を訪ねたりしている。

「兄二人は、再会するのかねぇ」

 柏木が言った。侑人は苦笑する。

「どうだろうなぁ、面倒臭がりだからなぁ、ウチの兄貴は」

「ウチもだよ、面倒臭がりの上に、大ざっぱだ」

 柏木がクックッと笑う。

「何かひとつのことに秀でていると、他が許されてしまうのだから不思議なものだよなぁ」

 柏木は言った。

「許されるのか、それ。許されなくないか?」

 侑人は眉間に皺を寄せる。

「なんだね、侑人は許せないのか、兄の怠慢が」

「柏木は許せるんだな」

「許せるなぁ、才能がある人間というのは、それはそれだけで大変なことだからなぁ。才能の外側にある事柄については、上手に他人を頼れば良いんじゃないかと思うけどね」

「ロックだなぁ~」

 侑人は柏木の口癖を借りて言った。柏木は「そうだろう」と言ったけれど、いつものように目を細めて笑ったりはしなかった。少しだけ、苦い顔をしたようにも見えた。

 侑人は、友達がそういう顔をした時に、なんと声を掛けたら良いのかわからない。二人は黙って駅までを歩いて、そして改札で別れた。

 帰りの電車に揺られながら、侑人は柏木のことを想像する。兄が有名なミュージシャン、自分は音楽が好きだけれど、バンドは組まない、ライブもしない。

(そういうのは、どういう気持ちなんだろうか……)

 音楽関係の仕事に就職を決めているとはいえ、それは本当に、柏木の進みたい道なのだろうか。

(いつも、悟ったような口振りをするけどなぁ……)

 侑人は柏木から、悩み相談などを受けたことがない。愚痴も聞かない。柏木は、いつでも、ただ淡々と、笑っている。陽気で、軽やかで、楽しげに。

 侑人には、どうしたらああいう生き方が出来るのかが、わからない。ひたすらに、羨ましいばかりだった。


 *

 プールから帰宅すると、祖母が来ていた。リビングで、母と祖母、そして兄がお茶を飲んでいる。

 その風景は、妙な温かみがあって、平和な色をしていて、それが却って不自然に見えた。

「ばあちゃん、いらっしゃい」

 侑人が言うと、祖母は赤い口紅をにっこりさせて、

「おかえりなさい」

 と穏やかに言った。母が立ち上がって、侑人の荷物を引き取る。

「水着、洗っちゃうわね。楽しかった?」

 自分で洗うよ、と言いたかったけれど、母の持つ特有の圧みたいなものに、言葉が出なかった。

「楽しかったよ」

 それだけ答えて、侑人は祖母の隣に座った。母は「良かったねぇ」と言って、洗濯をしにリビングを出ていった。

「さぁ、侑ちゃんにもお茶をいれてあげようね」

 今度は祖母が立ち上がる。侑人は情けない声で「あ」と声を出した。

「なに?」

 祖母に問われて、ようやく「自分でやるから、座ってて」と言えた。祖母は笑った。

「年寄り扱いしないでよ、美味しいのをいれてあげるからね」

 またしても負けてしまって、侑人は浮かせた腰をおろして、ただ座り込んだ。

「侑人は偉いなぁ、手伝いしようと頑張ってる」

 兄が言った。その言葉にカチンときて「兄貴がやらなすぎるだけだよ」と強い口調で言った。

「喧嘩しないのよ、お兄ちゃんは画家なんだから、手を怪我したら大変でしょう」

 キッチンから祖母が言う。

「それだったら、ばあちゃんだって画家じゃないか」

 侑人が言うと、祖母は「あらやだ」と笑った。

「もうほとんど引退してるも同然。あとは馴染みの人に頼まれて描いたりね、若い子を少しでも育てるのが私の役割」

私は有望な孫が二人もいて、幸せね

 祖母は、湯を沸かしながら、その蒸気の向こうでユラユラと、たゆたいながら言った。大きな希望や、ずっと先にある光、そういうものを見つめるような瞳が、湯気の向こうから、侑人を見ている。ついでに、兄のことも、包むような優しさで、見つめている。

「ばあちゃん、俺、」

 侑人は、言った。

「もしかしたら……やっぱり、画家に、なりたい、かも……」

色々悩んだし、心配もかけたと思うけど、インターンシップとかしてみても、どうしても会社に勤めるっていうのは難しそうで、それに、絵を描くこと以上に、夢中になれることなんて、俺には見つけられそうになくて……

 プールで話した二人の女の子の姿が脳裏に薄く浮かんでいた。好きなこと、やりたいことのない、不自由。そういう苦しみを持つ人も、世の中にはいるのだ。

 祖母は笑った。

「何よ、改めて。おばあちゃんもおじいちゃんも、あなたのお母さんもお父さんも、最初からそうなるだろうって思っていたし、なんの心配もしていないわよ」

 その言葉に、侑人は目を丸くした。そのままの瞳で、向かいに座る兄を見る。兄は、少しばつの悪そうな顔をして、侑人と目を合わせなかった。

 侑人の頬が、ヒクリと痙攣した。言いようもない不満が、兄に対して渦を巻いていた。

「でも、ばあちゃん、俺の絵、見たことないじゃん、小学校の時のしか」

 侑人は言った。

「俺、めちゃくちゃ絵、下手かもしれないよ?」

 祖母は日本茶を侑人の前にそっと置いて、慈しむ目で言った。

「上手か下手か、なんて、誰が決めるのさ」

 侑人は黙る。祖母は続けた。

「上手下手なんて、見る人によって違うのが当たり前。それよりも大事なのは、絵を描くことが好きかどうか」

侑人は、小さいころからずっと、本当に、放って置いたらずっと、ずっと、絵を描いてたね、時間を忘れて、自分が今いる場所さえも、忘れたみたいに、ずっと

「絵を描くのが好きな人も、たくさんいる。けれどね、永遠と描き続けられる人っていうのは、なかなかいない。気が付くと描いている、みたいな人は、本当に、なかなかいないのよ」

それだけでもう、才能で、それだけでもう、画家になる素質はあるということなのよ

「たぶん、だけどね」

 祖母は、最後に悪戯っぽく笑った。侑人は、日本茶の入った湯飲みを見つめる。深緑の色が美しかった。

「それにねぇ、一時期、自分の描いた絵をちっとも他人に見せなかった画家なんて、結構いっぱいいるのよ。珍しいことじゃない。画家だって人間だもの。自信がなくなったり、今は見て欲しくないって思う時期があったりもするわよ」

そういうのも全部含めて、画家というイキモノですよ

「ねぇ、昌秀」

 祖母は、兄に同意を求めた。兄は曖昧に笑って「そうだねぇ」と言った。

「侑人が見せたいなと思う絵が描けたら、私は見たい。生きているうちに」

 祖母は言った。これもまた、少し呪いのような空気を持った言葉だった。侑人は黙ったまま、数度頷いて答えた。


「風呂、空いた」

 その日の夜、侑人は兄の部屋の前で言った。兄の部屋は、扉が開け放たれていて、中からは絵の具の匂いがした。

「なに描いてるの」

 侑人が尋ねると、兄は「ひみつ」と言った。言いながら、キャンバスは侑人の側を向いているので、丸見えである。兄にしては珍しく、深い色を使った、混沌とした作品のように見えた。

「進路、別に母さんたち、気にしてなかったじゃんか」

 侑人は、文句を言う口調で兄に言葉を投げた。以前、兄から進路について聞かれた時、侑人は兄に「母さんから何か言われたのか?」と尋ねた。兄は「そんなところだ」と答えたはずだ。その後には、祖母も気にしていたよ、と言っていたこともある。

 けれど実際は、母どころか、父も、祖母も祖父も、誰ひとりとして、侑人の進路について、心配などしていなかった。みんながみんな、侑人は画家になるものだと思っていたのだ。そう思いこまれていたのも、どうかと思ったけれど。

 侑人の心は少しばかり軽くなった。現金だが、背中を押されたような気もした。信頼の出来る人たちに、背中を押してもらえて、ようやく決心がついたような気になった。

 本当に、いつも俺は、こうやって誰かに決めてもらわないと、自分で進めないんだなぁ、とガッカリもするけれど。育ち方がそうだったのだから、今更仕方がない。

 侑人は、小さい頃から決定権など与えられていなかったように思う。侑ちゃんはどうする? と尋ねられたことも、何度もあったが、その質問には明確な「母や父が納得する優等生の答え」が透けて見えていた。

「お前の進路、気にしてたのは、僕だからなぁ」

 兄が薄く溶けるような声で言った。絵筆を動かしながら、侑人には、背中を向けながら。

 その背中からは、拒絶の香りが漂っていた。

 扉を開けはなっているのにも関わらず、兄の部屋全体が、嫌な空気に満ちている気がした。

「なんで兄貴に気にされなきゃいけないわけ」

 侑人は言った。この空気の中に、こういう熱を持った言葉を入れるのは得策じゃないと、わかっていて、それでも言った。侑人の言葉が、緩やかな炎となって、兄の部屋の、熱量を上げる。

 兄が、ゆっくりと、振り返った。そして、部屋の前に立つ侑人の目を、しっかりと見据えた。

 普段は優しく、穏やかな兄だ。少なくとも、そういう顔しか、侑人は知らない。

 けれど今の兄の顔は、完全に怒気をはらんでいた。獣を狩る、もっと悪い言い方をすれば、誰かを、殺す、そういう決意をしたような、強い目をしていた。

 侑人は、体全体が強ばるのを感じる。半歩、後ろに下がった。

「侑人、画家に、なるんだね」

 兄は、だめ押しのように、最後の確認のように言った。

「……そ、れしか、ないように、今は思ってるけど……」

 侑人はしどろもどろに答えた。未だに「画家になる」という、その道だけしか自分にはないのだろうか? と疑問に思っているところもある。画家という道じゃなくても、他にも、絵が描けることを生かせる仕事がある気もしていたし、名前のある職業ばかりが、仕事ではない、仕事ばかりが、進路でもない。

 兄は、強い視線をそのままに、立ち上がった。そっと絵筆をキャンバスの端に置く。筆を置くカタッという音がやけに大きく響いた。

「侑人、お前の進路のことは、誰も心配していなかった。それは、それだけ、家族みんな……みんながお前には絵しかないと思っていたからだ」

そのことを、お前は気付いていたんじゃないのか?

自分には、絵を描くしか道はないと、気が付いていたのではないのか?

得意なこと、出来ること、好きなこと、どれを取って考えても、絵しかないのは明白だろう?

「なのに、お前は悩んだ。進路について、決められないと悩んで、大学の進路希望調査さえ、ギリギリまで出さずにいた。なんでだ?」

 兄は言った。侑人は、尋ねられている意味がわからない。

「……みんなが、どう、思ってるかは、知らないけど……俺は、自分が画家になるっていうイメージが、しっくりこなくて……」

「僕が売れていない画家だからか?」

 兄の口が滑らかに動いた。重く、痛い言葉が、あまりにもすんなりと出てきて。侑人の心臓がドクドクと脈打つ。兄が、一歩、侑人の方へと近付いて言った。

「自分が画家になって、それで、あっさりと僕より売れるようになったら、兄に悪いなぁとか、そういうことを考えていたんじゃないのか、お前は」

 侑人は、瞬きを忘れた。兄の言葉が、自分の耳に、脳に届く前に、バラバラと形を崩して四方八方に散っていくように思えた。

 沈黙が流れる。

 侑人は、散らばった言葉を集めて、その意味を改めて理解する。

「……なに、言ってんの……?」

 乾いた喉から、困惑の声が出た。

「お前は、僕に遠慮して、画家になるのを躊躇(ためら)ったんじゃないのかって言ってるんだ。僕のことを……心のどこかでは、見下して……」

兄貴は売れない画家で可哀想って、そう思ってたんじゃないのか?

 絶句した。

 侑人は兄のことを、一度だってそういう風に考えたことはない。兄に悪いから画家になるのはやめようと考えたことは一度だって、ない。普段温厚で、穏やかで、柔らかな兄が、今、自分に対して明らかな敵意をもって、牙を剥いている。そのことが、理解できなかった。指先が痺れている。

 足も冷たくて、さっきまで風呂に入っていたとは思えない。

「俺、兄貴の絵、好き、だし……そんなこと、思ったこと、一度もない」

 侑人は言った。兄は真顔のまま「本当にそうか? 本当に、一度も?」と重ねて言う。

 侑人の体の中で、兄に疑われていることに対する悲しみが、満ちて、満ちて、一周回って、だんだんと怒りになってきた。

「人生で一度もない」

侑人はキッと兄を睨んだ。

「ただ、今の兄貴みたいな、そういう、人を疑ったり、疑心暗鬼になったり……そういう人間になりたくないから……! 俺は、画家になるかどうかを悩んだんだ……」

 自分の描いた絵を、人に見せるかどうか、そういう部分についても。侑人は、誰かに評価をされることだけを恐れたわけではない。

 誰かに悪い評価をつけられるのではないか、この人は俺の絵を良いと言ってくれているけれど、本心ではそう思ってはいないのではないか、そういう他人に対する疑いを自分の心に飼いたくなかった。

 一生、誰かを疑って、心の裏側を読みとろうと必死になって、勘ぐったりして、そして誰のことも信じられなくなって、息苦しさに溺れていくようになる人生を、渡り歩ける気がしなかった。

 だから、家族も含め、誰にも絵を見せたくなかったし、画家は無理なのではないかと思った。

 ただ、兄のことを「売れない画家」だと思っていたことは、事実だ。そして、そういう兄を、どこかで可哀想だと思っていたのも、事実ではある。けれどそれは、もっと売れれば良いのに、あんなに頑張ってるのに、どうして売れないんだろう、という意味での考えであって、侑人は兄の絵を、とても良いものだと思っていた。

 兄に対する反感というのは、甘やかされて育った者同士の同族嫌悪のようなものと、加えて兄が売れない画家であっても、いつでも平気そうな顔で笑っていることに対する羨ましさ、心の強さに対する憧れの裏返しのようなものでもあった。

「やっぱり、僕みたいな人間になりたくないっていう気持ちが、あるじゃないか」

 兄は片方の口の端を上げて笑った。まるで、知らない人のような笑い方だった。

「それは、兄貴の人間性についてであって、画家としての兄貴じゃない」

 侑人は言った。画家という職業を、馬鹿にしているわけではない。

「人間性ね」

 兄は再び笑った。

「侑人には、一生わからないだろうな」

 兄は言った。

「常に後ろから追い上げられるこっちの気にもなってくれよ……」

 侑人の頭の裏側が、マグマのように熱されていく。

「兄貴の方こそ、後ろを歩くヤツの気持ちなんて、一生わかんないんだろうね」

 低く、憎しみの織り混ざった声になった。兄は一度、侑人の足元の方を見て、それから再び視線を合わせた。

「侑人、お前は詰めが甘いよ」

 兄はもう、笑ってはいなかった。

「お前の部屋、鍵付きの引き出しにスケッチブックを入れてるだろ。なんで引き出しに鍵をかけたあと、その鍵を、机の上に置きっぱなしにするかな……それに油絵も。キャンバスに布を被せて押入に入れておけば、誰にも見られないとでも思ったか?」

 侑人は、目の前が徐々に赤くなっていくのを感じた。体が、自然と震えた。

 自分が今、立っているという実感がない。

 恥ずかしさと、悔しさと、怒り……そう、猛烈な怒り。

「……見た、の……? か、勝手に……?」

 侑人が自分の描いたものを、見せたくないと思っていることを、兄は十分に知っているはずだ。

 確かに、兄の言う通り、隠し方の詰めが甘かったのかもしれない。そんなことは侑人だってわかっていた。

 けれど信じていたのだ。家族が、侑人自身の意志を、考えを、尊重してくれるだろうことを、信じて疑わなかった。

 見せたくないと言っている人の絵を、無理矢理探して見ようとするような、そんな人は、この家の中には、いないと信じていた。

 詰めが甘かったのは、隠し方ではない。家族への、信頼の詰めが甘かった。

 それは、あまりにも冷酷な裏切りのように侑人には思えた。

「なんで!? 勝手に見るなんて、そんなの、人として、最低じゃないか! 見せたくないって、俺が見られたくないと思ってるって、兄貴は、知っ、てるのに、なのに、」

 侑人が唇を震わせて、声を荒げる間に、兄はポツンと言った。

「僕はお前の才能が怖い……」

 その声は、遠い惑星から受信しているメッセージのように、機械的で、あまりにも距離があるように思えた。

「僕は……自分の気の弱さも、周囲への嫉妬も、上手く仕事を貰えないことに対する歯がゆさも、自分の才能を疑ってしまっている時の、夜の長さも、出口も正解もないような人生をこれからもずっと歩いていくことも、怖い」

 未だに怒りに熱している頭で、侑人は、兄の昏々とした声を聞いている。

「侑人、僕には、怖いものばかりある。それでも僕は、画家だ。画家になる道を、選んだ」

家族に迷惑をかけても、金銭的な援助を永遠と受けることになっても、情けない思いをすることになっても、申し訳ない思いをすることになっても、それでも……画家になると、決めて、選んだ

 侑人の目に、どうしようもない涙が浮かんだ。兄の言葉と、自分の怒りと、兄の射るような瞳と、自分の兄に対する憎しみを込めた瞳と。言いようもない、言葉で整理できない感情が、涙になって溢れそうになった。信じていたのに、という言葉が、脳内を回っている。

「侑人、お前はどうするんだ」

本当に、画家になる覚悟はあるのか?

「僕に言われたくないだろうけどね、いい加減、甘えるのはやめろ。お前が僕のことを、売れない画家だと、そういう目で見ていることは、知っている。お前は否定するかもしれないけれど、そんなの、お前に会う度にお前の目を見れば、すぐわかる。そういうもんだ。でも、それさえも、僕は受け入れる。弟に馬鹿にされても、それでも僕は胸を張る」


僕は、画家だ


「お前は、なんだ?」

何になるんだ?

 兄は改めて、厳しい口調で侑人に言った。侑人の目から、ついに涙がこぼれた。唇が震えて、声を出そうとしても、無理だった。

 喉が燃えている。何も言えないまま、侑人は踵を返した。兄の顔を、もう、見ていられなかった。兄は、痛々しいまでに、真っ直ぐな目で侑人を見ていた。その強さが、侑人の存在をどんどん否定して、どんどん惨めにしていった。

 侑人は、兄の部屋の前から、逃げるようにして玄関まで早足で歩いた。スニーカーを履いて、そのまま家の外へ出た。

 背後で「侑ちゃん、どこいくの?」という母の声が聞こえたけれど、無視をした。部屋着にしているスウェットの後ろポケットに、スマートフォンだけが入っている。

 九月になったばかりの夜。少しだけ涼しくなってきたけれど、秋はまだ遠い夜。

 夜空に月が出ていて、雲はなく、風も弱く、空気は滞って。今ここにある空気が、そのまま、いつまでも、体にまとわりつくようだった。

 ホロッ、ホロッと落ちる涙を、腕で乱暴に拭う。スンスンと鼻が鳴るのが恥ずかしかった。本当は、なんだか大声で泣いてしまいたい気分だった。

 けれど、それが許されるような年齢ではないと、侑人自身の心が訴えている。

 この夜、侑人は悟った。

 世界は、自分が思っているほど、優しい顔を、していなかったのだと。


 *

「おやおや、それはまた随分とロックな兄弟喧嘩だなぁ~」

 行くあてもなかった侑人は、結局柏木に連絡をした。柏木は「それならウチに来ると良い、もう遅いから、そのまま泊まっていけ」と、サッパリした調子で申し出てくれた。

 侑人はスマートフォンだけでも持って出てきて良かったと思った。送って貰った住所を頼りに、侑人は初めて柏木家を訪れた。

 チャイムを鳴らすと、柏木によく似た女性が出てきて、笑顔で「いらっしゃい」と言ってくれた。おそらく、柏木母だろう。

 大らかな笑顔、内側から溢れるみたいな陽の雰囲気は、彩輝にも似ていると侑人は思った。

「すみません、突然……」

 侑人はペコッと頭を下げて、家にあがらせて貰った。スリッパを履いたところで、柏木がやってきて「やぁやぁ、よくきたね」と親戚のオジサンのようなことを言った。

 柏木の顔を見て、侑人はようやく、深く息を吐いた。今の今まで、呼吸を忘れていたような気がした。

 柏木の部屋には、柏木兄のバンドポスターが沢山貼ってあった。カレンダーも、柏木兄のバンドである「ロクロック」のものである。

 そして、ギターも三本。

 いつも大学に持ってきているのは、どのギターだろうか。

「部屋中でブラコンアピールしているみたいで申し訳ないね!」

 柏木は、珍しくちょっと恥ずかしそうな顔をして笑った。

「俺も柏木くらい、兄貴のこと好きになれたら良かったのにな」

 侑人が言うと、柏木は侑人の背中をポンポンと叩いた。

「兄弟なんだ、喧嘩くらい、どこの家でもするだろう」

「柏木のとこも、喧嘩すんの?」

 侑人が尋ねると柏木は「かなりロックなやつをね」と答えた。

「しかし、なんだね、侑人。風呂上がりで飛び出してきたのかね? まだ髪が濡れてるじゃないか……そのまま電車に乗ってきたんだろう? 時折、本当の本気でロックなヤツだなぁ、お前は……」

 侑人は、柏木に言われてはじめて、自分の髪が濡れていることに気が付いた。そういえば、風呂が空いたことを兄に伝えに行って、そのまま喧嘩になったのだった。

「夏といえど、風邪を引くぞ。ドライヤー持ってきてやるから……あと、親御さんにちゃんと連絡しろ。これでは我が家が侑人の誘拐犯のようになってしまう」

 侑人は柏木の言葉に小さくなって「すみません……」と言った。


 柏木は、自分の部屋にドライヤーを持ってきてくれて、ついでに侑人の髪を乾かしてくれた。

「髪は俺が担当してやるから、その間に親御さんへ連絡しろ」

 そういう変な役割分担をされて、コオオオと鳴るドライヤーの音の中で、侑人は母にメールを打った。

『友達の家に泊まります。明日には帰ります』

 母からの返信は素早かった。

『今後は急に出て行かないでください。驚きます。念のためにお友達の連絡先を教えてください。明日の昼ご飯と夜ご飯は必要ですか?』

 侑人は、頭を温風にさらしながら「過保護か……」と呟いた。ドライヤーの音の向こう側で、柏木が「なんてー?」と声を張った。

「なんでもない!」

 侑人は音に負けないように、大きな声で返した。

 柏木の細い指が、髪をより分けて通っていく感触がする。男同士でこれってアリなのか? と思いながらも、床屋に行くことを考えたら「まぁ、アリか」と思えてしまった。

 敵意のない指先に、優しく髪を梳かれて、全身からゆっくりと変な力が抜けていった。

「よーし、乾いたな! いやぁ、なんというか、髪が多いな、お前は」

 柏木が言った。

「そしてクルクルしている!」

「くせっ毛なんだよ。俺はお前のストレートが羨ましすぎる」

「いやいや、ただ真っ直ぐなだけというのも、つまらんよ」

 柏木はドライヤーを片付けながら言った。

「お兄さんとお姉さんは? 今はいないのか?」

 侑人が尋ねた。この家からは、柏木本人と、柏木母の気配しかしない。

「姉に会えると思ったか? 残念だったなぁ、姉も兄も一人暮らしだ。父はまだ帰宅していないが、俺の友達が泊まりに来たとて、特に嫌そうな顔をするような人ではないから、安心しろ」

 柏木は言った。

 柏木の家は、侑人の家から三十分ほど電車を乗り継いだ場所にあった。周囲から見ても目立つような、三階建ての大きな一軒家だ。子供たちの部屋は三階で、ご両親の部屋は二階にあるそうだ。

「俺が柏木となんとなく仲良くなれた理由がわかる気がする」

 侑人は言った。

「どういう意味でだね?」

「金に困ったことがない匂いが標準装備されてるところ?」

 侑人が正直に言うと、柏木は「違いないな」と苦笑した。

 柏木母が、二人のために夜食と飲み物を持ってきてくれた。コンビニのお菓子と冷凍の焼おにぎりを温めたもの。それにペットボトルのお茶。

 そういう、適度に力を抜いて、けれど、突然押し掛けたのに、しっかりともてなしてくれているという気持ちの塩梅が、侑人は心地よいと思った。

(ウチだったら、絶対、母さんの作ったおにぎりと、手作りの焼き菓子とか出てくるし……あと、なんかよくわかんない紅茶とか、良い日本茶とかをわざわざ淹れて、お代わりいる? とか、何度も聞きにくるやつ……)

 それは、母の気遣いであり、感謝すべきところだということは、侑人にもわかっている。正しい気遣いなのかは、別として。悪気がないのは、確かなことだ。

「で、どうだったね、兄貴と喧嘩した感想は」

 母が部屋を去った後で、柏木が尋ねた。まぁ、座りたまえよ、という柏木に促されて。二人でベッドを背もたれにしながら、床にあぐらをかいた。

「ぶっちゃけ、ショックだった……」

 侑人は素直に言った。

「何がショックって、兄貴が、俺のことをそういう風に……なんというか、性格悪く見ていたっていう、なんか、こう……兄貴はもっと、良い人間だと、信じてたのに……」

 侑人の言葉に、柏木は「良い人間かぁ」と呟いた。柏木の呟きを、ふんわりと聞き流しながら、侑人は続けた。

「裏表もなくて、穏やかで、そんなに怒らないし、細かいことなんて気にならない図太い人なんだって思ってたけど、そうでもなかったんだなぁって……」

俺にも確かに、ちょっとだけ傲りがあって、兄貴がやれてるんだから、俺だって画家になれるんじゃないか、とか……それは、兄貴の絵より俺の方が上手いと思うからっていう意味じゃなくて、兄貴みたいなのんびりした人でも画家になれるなら、俺にもやれるかもしれない、みたいな……そういう意味で、兄貴よりは俺の方が真面目なんじゃないか、みたいな、そういう傲りが、あったことも、事実で……

「だから、兄貴が、本当はちっとも、心の中が穏やかじゃなかったみたいなことを知って……」

 侑人は、その時、頭の中にプカッと浮かんできた言葉を、そのまま口にした。

「なんか、がっかりした」

 そうして言葉を発したとき、再び、目頭が熱くなった。

(そうか……俺は……がっかりした、のか……)

 兄のことを、人とはかけ離れた天才だと思っていたようなところが、どこかにあった。普通の人間とは違う、もっと大らかで、もっと広い視野を持っている、そういう画家であって、小さなことは気にしないでいられるのかと思っていた。

 そういう人間には、自分はなれないなぁ、とも思っていた。

「兄貴が、思っていたよりもずっと人間らしくて、ドロドロしてて、全然、穏やかじゃなかったことに、がっかりした」

 侑人は、再び、噛みしめる気持ちで言った。柏木が口元を弛めて、柔らかい笑みをつくった。

「当たり前だろう、誰だって人間だ」

侑人兄は、実の弟である侑人さえも騙せるほどに、強い覚悟を持っていたというだけの話だなぁ

「お前は、それを見破れなかった。それが悔しくて、ショックなんだろう、違うかね」

 侑人は、反論したい気持ちになった。しかし、反論の言葉も見つけられないほどに、柏木の言うとおりだった。

「……俺、画家になっても、良いんだろうか……」

 侑人は、弱い声で言った。

「柏木は、進路、はっきり決まっていて、自分で決められていて、本当に羨ましい……」

 柏木は、侑人の発した漂う言葉を、目を細めて聞いている。それから、部屋に貼ってある兄のポスターの一枚を指で示した。

「あれ、今までで一番大きなホールでライブをやったときのポスターなんだ……格好良いだろう?」

 ついこの間のライブツアーの時のものだよ、と柏木が言った。

 侑人は、ポスターを見た。

 マイクを手に、汗をかきながら客席の方に手を伸ばしている男性。凛々しく眉が太くて、ストレートの黒髪が柏木に似ている。

 横顔のポスターだったが、黒々とした睫が長くて、その奥にある瞳は、真摯に輝いて見えた。

「ロックだなぁ」

 侑人が答えると、柏木は笑った。そして、自室の天井あたりを見ながら「昔話をしてやろう」と言った。

「急になんだよ」

 侑人は笑ったが、柏木は、凪いだ海のような、どことなく神聖な空気を醸し出していた。寒い日の、明け方の、霧がかった丘の上に建つ、教会の中にいるような。厳かで、静かにしなくてはいけないような、冷たくピンと張った空気。

「俺がまだ十二歳の時のことだ。小学校六年生だな。兄は二十一歳で、それこそ、侑人の兄が画家になるための一歩を踏み出した後のことだと思うんだがな……」


 俺も兄貴も、昔から音楽が好きで、よく一緒に好きなバンドのコピーなんかをして遊んでいたんだ。兄貴がギターを弾いて、俺が歌ったり、その逆を試したり。

 本当に小さな頃から、いろんなことをして、文字通り、音を楽しんで、兄弟で仲良くしていたものだ。俺が小学校六年生になったばかりの時、兄は言った。

「悠輝も大きくなったし、そろそろ二人で曲を作ってみないか?」

 もちろん、お遊び程度のものだった。けれど、俺は作曲なんてしたこともなくて、でも楽しくて仕方なくて。兄と一緒にメロディーラインを考えては弾いてみたり、歌詞を考えて二人で爆笑してみたり。

「完成までに半年以上、かかったような気がするが、楽しすぎるほどに、楽しかった。それで、せっかく作った曲だからと、遊びの延長で、動画を撮ってみることにしたんだ」

 俺が歌って、兄貴がギターだった。近所のライブハウスを借りて、たった一曲だけ。顔は映さずに、首から下だけが映るように調節して、演奏した。

「それはそれは楽しかった。お遊び動画なのに、小六だった俺は、ちゃんと緊張もしたしな。間違えるとリテイク! とか言って、プロごっこみたいなことをして、撮り直したりしてなぁ、そういうのも含めて楽しかった」

 結局、二日間くらいかけて、納得のいく動画が撮れて。これまた、気楽に「せっかくだから」というだけの気持ちで、動画投稿サイトに投稿してみた。

「最初は、ポツンポツンと視聴数が増えていくくらいで、まぁ、こんなもんだよな、という感じだったんだ。でも動画を上げて三日目くらいかな、急に視聴回数が、こっちがビビるくらいに増え始めて」

 あっという間に、俺と兄がお遊びで撮った動画は、話題になってしまった。

「話題になるだけなら、良かったんだが……いや、結果的には、今ある現実には、満足しているのだけどなぁ」

 柏木は、そう前置きをしてから、語った。

 再生数が鰻登りしてしまった動画、話題になってしまったオリジナル曲。

「ある日、有名なレコード会社から連絡があってな、本当に突然。音楽業界でデビューすることに興味はないか、と言われた」

 たまたま、その会社では「新人発掘」という名目のプロジェクトが進行していて、新人バンドを募集していたらしい。あの動画のオリジナル曲で、エントリーしないか、と言われたんだ。

「兄は最初からバンドマンになりたい人だったから、二つ返事で了承した。正直、俺は怖かった。なにがどう、というわけでもないけれど、何かが怖かった」

 結果としては、俺と兄のオリジナル曲は、最終選考まで残り、そして最後の審査の段階になって、レコード会社の担当者が家にやってきた。

「次の最終選考で、もしかしたらデビューが正式に決まるかもしれません。けれど、これを歌っているのは、小学校六年生の弟さんの方ですよね? 十二歳から、プロの音楽家として生きていくというのは……なかなか、厳しいものがあると思うのですが……」

 父と母、それに兄と俺、なぜか姉まで勢ぞろいで、担当者の話を聞いた。

「お兄さんの方は、もう成人していますよね?」

 担当者から、その言葉が出たとき、俺はいろいろと察した。

「ご兄弟だからか、随分と声も似ていて驚きました」

 この辺りでもう、確信とも言える空気を感じていた。

「どうでしょうか、ここは、お兄さんをボーカルとして、ギターはこちらでデビュー出来そうな子を探してありますので……それに、あの曲は、ギターとボーカルの二人組よりも、ベースやドラムスも入れたバンドで演奏した方が、味も出るし、盛り上がると思うのですけれど……」

 担当者は言った。

 俺はチラリと横目に兄を見た。兄は、それこそ俺よりも子供みたいな、まるで純粋な目をキラキラさせて、担当の話しを聞いていた。

「俺は、その顔を見て、あー、これはもう、仕方のないことだなぁと思ったよ」

 柏木が言った。侑人は絶句して、ただ、友の澄み切った顔を見ている。

「俺は兄貴に言った。良かったじゃん、これで本当にバンドマンになれるかもしれない、そうしたら夢が叶うじゃないか! ってね」

 俺の言葉を聞いて、兄ははじめて「ハッ」とした顔をした。

 そして、思い出したかのように「でも、やっぱりこれは弟が歌ったものだし、作詞も作曲も二人でやったものですから」と言った。

 俺はすかさず「ほとんど兄がやったものです、俺はまだ小六だし、ほとんど手伝えなかったです」と言った。

 兄は俺の顔をギョッとしたように見たけれど、無視をした。担当は、安堵したような顔をして、俺たちの両親の方を見た。両親も、さすがに十二歳の息子を音楽業界に入れたいとは思わなかったようだ。

「悠輝には、たしかにまだちょっと早いお話のように思いますけれど……大輝については、もう成人もしていますから、本人の意志を尊重したいとは思います」

 父が言った。母も頷いた。

 姉だけはブスッとした顔をして、兄を睨みつけていた。

 俺は、とりあえず笑っておいた。

 けれど、笑えたのは、そこまでだった。担当者は言った。

「もし、お兄さんがデビューする運びとなったら、弟さんの方には、しばらく音楽活動を控えていただかないといけません」

 あの動画で歌っているのが弟だということがバレてはいけない、と担当は言った。

 動画は「兄弟で作曲して、歌ってみた」というタイトルで投稿してあったので、ボーカルとギター、どちらが兄で、どちらが弟かは、言明されていなかった。

 身元がバレないように、年齢も伏せていた。担当者は「あの動画はこちらで削除させて頂きますが、どこからどうやってバレるか、今の世の中、わかりませんから」と言った。

 大事なのは「動画投稿サイトで人気を博したあのボーカルが、ついにメジャーデビュー」という筋書きなのだそうだ。

 その裏側で「歌っていたのは十二歳の少年だったけれど、まだ幼いので、代わりにギターを弾いていた兄がボーカルでデビュー」などという真実があったことは、決してバレてはいけないことなのだ。

「俺は、兄がデビューすることには大いに賛成だったし、自分がまだ音楽業界に入るのには年若すぎるという自覚もあった。けれど、その副作用みたいにして、自分がもう歌えなくなるとか、バンド活動が出来なくなるとか、そういう展開になるとは、想像していなかったんだ」

 中学に入ったら、軽音楽部に入部して、バンドを組みたいと思っていた。歌でもギターでも良い、ベースやドラムにも触ってみたかった。兄と二人で頑張った、作曲も作詞も楽しかった。これからもっと、新しい曲を作ったりもしてみたかった。

「それから一週間もしないうちに、正式に兄のデビューが決まったよ」

そして、俺は、好きだったこと、なにもかも、全部、出来なくなった

 柏木は言った。

 最後まで、平穏で優しい声だった。

 侑人は、柏木と出会って、過ごしてきた今までの時間が、脳内で自動再生されていくのを見つめていた。楽しそうに鼻歌を奏でたり、ギターに触っている時の充実した横顔だったり、バンドは組まないしライブもしないと断言したことだったり。

 侑人の目に、いつでも柏木は、楽しそうに見えていた。悩みなどちっともなさそうで、満たされていて、サッパリとしていて、何もかもが、上手くいっている人のように見えていた。

「……悔しく、なかったのか……」

 侑人は絞り出す声で尋ねた。自分だったら発狂してしまうと思ったからだ。

 兄の絵の素晴らしさを保護するために、もう二度と絵筆を握るなと言われたら、暴動を起こしそうだ。

「悔しかったし、悲しかったし、羨ましかったし、妬んだ」

 柏木は、きっぱりとした声で言った。とても通る声で、迷いがなかった。

「それはもう、今よりもずっと子供だったし、いやぁ、暗黒の闇に絡め取られるような気分だったね! いや、これは胡散臭い表現ではなく、本気の話だ。兄のキラキラした顔を見て、これは自分が我慢してでも、兄をデビューさせてやらねば! と思ったことは確かだったが、そんなのは浅い考えだったとすぐにわかった」

 兄のバンドは、そこからあっという間に大人気になった。本当に、飛ぶ鳥を落とす勢いとは、正に、と言わんばかり。一年後には、兄は、憧れと夢見ていた武道館を満員にしていた。

「対する俺はと言えば、中学に入っても軽音楽部に所属することは叶わず、バンドも組めなければライブも出来ない。動画を撮って投稿することも出来ない。せいぜいひとりでギター弾いて楽しく歌うくらいしか、出来なかった」

 あまりの落差に、震えたよ。どうして兄ばかり良い思いをして、俺はこんな惨めな気持ちにならないといけないのかって思ったし、本当は歌っていたのは俺なのに、きっかけになったあの動画さえも、この世になかったことにされてしまった。

「こんなにツライことが、人生であるもんかね、と思った。まだ『十五の夜』も迎えていないのにさ、本当に自分はロックな人生を歩んでいるなと思ったよ」

 柏木の部屋中に貼ってある、柏木兄のポスターに、侑人は急な圧を覚えた。

「どうやって……乗り越えたんだ……?」

 少なくとも、侑人の目には柏木は思い詰めているようには見えない。乗り越えたのか、諦めたのか。

「乗り越えた、というよりも、心の深いところで理解したんだ。兄のリアルな苦労というものを、身近に見ていたからね」

 音楽業界の大変さ、デビューして売れ続けることの大変さ、そういう本当に、気が遠くなるほどの苦労を、目の前で見てきた。

「そのうち、強がりではなく、本気で兄のことが羨ましくなくなってしまった」

 柏木は言った。

「はっきり言って、プロの世界は全然優しくない。ひとつの喜びのために、自分の中の全てを犠牲にするみたいな気持ちがないと、とても生き残れない。それよりも、俺のように、バンドを組むこともライブをすることも出来なくても、自由に、本当の意味で自由に、好きなように音楽と付き合っていける方が、幸せだなとも思った」

 柏木は、侑人の顔をチラリと見て笑った。

「それになぁ、兄には、根性があった。それは弟の俺が、とてもよく知っている。そして、俺には、そこまでの根性は、正直言って、ないんだ」

だから結果として、あの時の決断は、アレで良かったんだと本気で思えているよ

「やっぱりお前、強いし、ロックだ。俺だったら、そこで諦められない」

 侑人は言った。柏木は「俺だって、そんなにすぐに諦められたわけじゃないさ」と言った。

「悩み抜いた末、腐りきった末に、今の俺があるんだ。そういうの、更にロックだろう?」

 侑人は唇を噛んで頷いた。やはり、この友達は強いと思ったし、尊敬するとも思った。同時に、自分のあまりの薄さと弱さ、浅はかさを、何度だって知る。

 みんな、何かと戦っていた、侑人の知らない所で。戦っている顔なんて、表にはちっとも見せずに。

 柏木という男も、自分と同じように、裕福な家に生まれ育って。何ひとつ不自由なく育って。それで、幸せに生きているのだと思っていた。

 侑人は自分が他人に「裕福な家で、苦労もしないで羨ましい」などと言われたら、ムッと不機嫌な顔をするくせに。当の本人である自分自身が、知らぬ間にそういう考えを持っていた。

 言われたら嫌だなと思うこと、というのは、実は自分が最も気にしている事柄であるのかもしれない。侑人は、あまりにも、世界の何もかもが見えていなかったのだと思い知る。

 柏木のことも、柏木の兄のことも知らなかった。会社で日々奮闘している柏木の姉、彩輝のことも、その苦労を知らない。幼なじみで、ただのお嬢様だと思っていたアリサのことも。そして、自分の兄である昌秀のことも。

 ちっとも、見えていなかった。

 みんな、みんな、それぞれに。

 自分と向き合って、戦っている。

 先を歩く者も、後ろを歩く者も、それぞれに。年齢も、環境も、性別も、何もかも、関係ない。

(……俺がただ、ひとりだけ、たったひとりだけ、何にも向き合わずに、ただ、逃げて、逃げて、逃げることに疲れて、苦しんでいた、だけ、だったのかもしれない……)

 侑人は思った。何でみんな、戦えるんだ、怖くないのか、苦しくないのか、どうして向き合えるんだ、怖い、怖くて、動けない。

 前を向く決意を、するのは、こんなにも。

(……勇気が、いる……)

 呼吸が浅くなるのを感じた。脳味噌がカラカラになって、思考が白みそうだった。侑人が無言で下を向いていると、柏木が言った。

「悩み抜いた末に、今の俺がいるけどなぁ、それでもやっぱり、今でも悩む時が……弱気になる時が、俺にだってある」

「……そういうとき、どうしてる?」

 侑人は下を向いたまま尋ねた。柏木は「兄のライブを見に行くよ」と言った。

「それ、余計にイライラしないか……?」

 侑人は眉間に深く皺を寄せた。

 柏木は、侑人の肩にコテンと頭を乗せてきた。身長差があるせいか、侑人の肩は、柏木の頭の位置にぴったりだった。

「わー、楽だなこれは」

「人の肩を勝手に使うなよ」

「いやね、頭って結構重いもんだからな、こうしてどこかに置けるというのは良いものだよ」

 柏木は笑った。笑うと、柏木の体の振動が、侑人の方にまで伝わってくる。

「俺の兄はなぁ、やっぱり求心力というか、人を惹き付ける力が備わっていたんだと思うんだよ」

 柏木は笑った顔のままで言った。

「ムカつくことも、弱気になることもあるけど、そういう時、兄貴のライブに行くとな、悔しいけど、自然と鳥肌が立つ」

 ステージに立って、強いライトの光に当てられて神々しく見えるバンドメンバーの姿、ライブ会場に反響して満ちていく爆音、観客の方を真っ直ぐに見つめて、しっかりと、聴衆と向き合って、声を出す、兄。

「身内の贔屓目かもしれんがね、兄は、心の底から丁寧に歌っているように見えるんだ。ちゃんと、聞いてくれる人のために。なんかこう、祈りのようなものを込めて」

 柏木は、侑人の肩にもたれたまま、目を閉じた。

「悔しいのは確かだけれど、俺はやっぱり、兄貴の歌が好きなんだと思う。ずっと歌っていて欲しいし、俺はそれをずっと聞いていたい。それに、もし小学生のあの時、俺が駄々をこねて、音楽業界に入って……ボーカルをやったとしても……兄のように売れたりはしなかっただろうと思う」

俺には、そういう人の心を大きく動かしたり、揺さぶったりする力は、なかったよ

 柏木の声が、彼の自室に消えていく。薄くなって、空気に溶けて、消えていくその声が、侑人にはどうしても切ない色に見えた。

「そんなの、やってみなきゃ、わからないだろう」

 侑人は言った。先ほどから、ずっと眉間に皺を寄せたままで、いい加減顔の筋肉が痛くなってきたけれど、それでも自然とそういう顔になってしまう。柏木は侑人の肩から頭を上げて「なにが?」と言った。

「俺は、柏木の鼻歌も、ギターも、結構好きだし。少なくとも、俺は結構癒されてるし、求心力、あるだろ、お前にだって」

 侑人は言った。

「おや、やっぱりお前、俺の隠れファンだったのか……?」

 柏木は驚いた顔をする。

「隠れファンかは知らないし、俺はお前の兄貴の歌もあんまり聞いたことないし、なんの説得力もないってわかるけど……」

でも、やったこともないのに、もし自分だったら売れなかっただろうから、これで良かったんだ、なんて、そんなのは、納得できないだろ……やってみなくちゃ、なにもわからない……

 侑人は一生懸命に、思ったことを言葉にしてみた。柏木は、まだ驚いたような顔をしている。

「……お前、今、自分のことを素晴らしいほどに、棚上げしていることに気付いているか?」

 柏木が言った。侑人は眉間に皺を寄せたまま、目を閉じて俯き、唸る。

「わかってる……」

 言いながら、ちゃんと自分で気付いている。侑人が柏木へと発した言葉は、そのまま勢いよく侑人自身へと返ってくる。なんなら、若干勢いに拍車をかけて。

「お互い、特殊な兄を持つと苦労するなぁ」

 柏木が苦笑した。侑人は、自分の指で眉間を揉みながら「ほんとに」と頷いた。

「お前も、やってみなくちゃ、わからんだろう? 画家、ちゃんと目指してはどうだね。いい加減、誰にも見せないという方針は捨て去って」

「気軽に言うなぁ……恐ろしいことだぞ、それは」

 侑人が言うと、柏木は笑う。

「存外、そうでもないかもしれんよ。俺は、自分の鼻歌やお遊びギターのファンがいることを、今知った。とても嬉しかった。確かに評価は恐ろしいが、それはほんの一面だ」

恐ろしい面があるということは、素晴らしい面も、あるということじゃないのかねぇ

 柏木の、いつもの歌うような調子の声に、侑人は「そうかもしれない」と思った。絵を見せる、という決断には、まだ、時間が必要だけれど。評価されることを受け入れる、という決断をするには、まだ、恐怖が勝っているけれど。

 少なくとも、自分も、ちゃんと前に進まなくてはいけないと。何度も何度も、胸の中で、呟いた。


 *

「あ、昌秀! こっちこっち!」

 侑人の兄、昌秀が指定された居酒屋に到着するやいなや。大きな声が降りかかってきた。

 声のする方を見れば、個室から身を乗り出してブンブンと手を振っている人物がいる。

 昌秀は、早足でそちらへと向かった。

「こら。有名人がそんな大声出すもんじゃありません」

 ヒソヒソとした声で窘めると、当の本人はゲラゲラと笑った。

「だーいじょうぶだって、結構バレないもんだから。それに昌秀だって画家先生様だろ? 有名人じゃねーか」

「僕は顔出ししてない画家なので」

 昌秀は苦笑する。ゲラゲラ笑いの主は、柏木悠輝の兄であり、ロクロックのボーカル、大輝である。

 弟経由で無事に連絡先を交換した昌秀と大輝は、久しぶりに会って、飲みながら話そうということになった。

 場所は、有名人である大輝に任せた方が良いだろうと考えた昌秀だったが、こんなにも堂々とされては、個室居酒屋である意味もない気がした。

「変わらないなぁ、お前。すぐ昌秀だってわかった」

 大輝が笑った。

「そっちこそ。もう少し芸能人っぽくなってるかと思ったのに、変わらないよ」

 昌秀も、柔らかい顔をして笑った。二人はビールで乾杯をして、枝豆やら揚げ出し豆腐やら、細々と頼みながら、飲んだ。

「大学ん時の同級生の、吉田、覚えてる? あいつ、今年二児のパパだってよー……ビビるよなぁ、子持ちだぜ? そもそも結婚してることにもビビる……」

 大輝が言った。

「あー、吉田くんね。彼、結構ヤンチャだったのにね。落ち着くもんだねぇ、人間」

 昌秀が思い出すような顔をして、頷いた。

「昌秀は? 誰か、良い人いねーの?」

「僕は絵と結婚しているからねぇ、大輝こそ、人気あって、モテるんじゃないの?」

「俺も結婚はするつもりナシ。音楽と結婚してるんで」

 二人、クックックと笑い合った。

「でもなぁ、親はたまーに、言ってくるよ。ウチはさぁ、姉貴も結婚しない派を宣言してるもんだから……あとはもう、弟に託すしかない」

 大輝が言った。

「へぇ、お姉さん、結婚否定派なんだ? 今時、珍しくもないけどね。女性の稼ぎの方が良い場合もあるって聞いたことあるよ」

 自立してるんだねぇ、と昌秀が言うと、大輝は力の抜けた顔で笑った。

「お前、ほんと変わんねぇな。安心する、話してると」

「え、どこらへんで安心を感じてるの」

 昌秀が首を傾げると、大輝は「常識とか、押しつけてこないところ」と言った。

「音楽業界……っていうか、半分芸能界みたいな? そういうところにいるとさぁ、なんか、こうあるべき、こうするべき、これはダメ、あれはダメ、っていう、圧力がスゲーんだわ。それも、得体の知れないものからの圧力? っていう感じで」

「……得体の、知れない」

「そう、誰の意見か、誰の考えか、その本体みたいなのが、見えないっていうか……誰の常識なのか、ハッキリしないのに、そういう意識が勝手に蔓延して、定着して、そこにいる人間がみんな、よくわからないその思考とか思想に、軍隊みたいに従ってる感じ? あれ、言ってること、よくわかんなくなってきた……伝わってる?」

 大輝は腕を組んで、首を傾げた。昌秀は笑った。

「伝わってる、伝わってる」

 大学時代から、柏木大輝という人間は、裏表がなく、気持ちの良い性格の人間だった。昌秀は、そんな大輝が音楽業界に入っていって、潰されたり、変にねじ曲げられたりしていないか、正直不安を覚えていた。

 けれど、こうして久しぶりに会って、話して。その不安は杞憂だとわかって、それが嬉しかった。染まらないでいてくれたことが、友が友のままでいてくれたことが、嬉しかった。

「ウチはさぁ、母さんが専業主婦でさ、しかも姉と俺、それに弟までいて、将来は沢山の孫に囲まれて、大忙し! みたいなのを想定していたらしいんだよ。母さん本人は、そういうことあんまり言わないけどな」

「なるほどねぇ、親の夢っていうのもまた、プレッシャーあるよねぇ……」

「そうなんだよなぁ。姉貴は親の手前ではずっと仕事がしたいから結婚はしないって言ってるけど、ほんとのとこは、前の男に手酷くフられて、なんていうかな、女の思考はよくわかんねぇけど、この世にいる男を全般的に憎んでるっていうか」

「……壮絶だねぇ」

「そうなんだよ、気も強いから、まさに阿修羅……特に俺に対する当たりが強いからヤになるよ……」

 大輝は、苦い顔をした。昌秀は穏やかに笑う。

「歳、近いんだっけ? 大学の頃からよく喧嘩するって話してたよね」

「俺の三歳上。弟よりは離れてないけど、まぁ、怖い怖い。今は俺も姉貴も家出てるから、そんなに会わないけど……会うといつも喧嘩仕掛けてくる、アイツの方から」

「大輝が余計なこと言ったりするからじゃないの?」

「まぁ、そうだけど」

 大輝は、思い当たる節があるようで、唇を尖らせる。昌秀は揚げ出し豆腐を食べながら、大輝の姉である人を思い浮かべる。

 思い浮かんだのは、弟のスケッチブックに描かれていた女性だった。弟は大輝の姉が勤める会社へ、インターンシップへ行ったと聞いている。

(おそらく、あれが、大輝のお姉さんだろうなぁ……)

 凛としていて、けれど柔らかく女性らしいシルエット。優しい筆致で描かれていた、それ。

(侑人は大輝のお姉さんのことが好きなのかもなぁ……)

 昌秀はそう思って、フフフと小さく笑った。九歳年下の弟の恋心を、いじらしく思ったのだ。

「なんだよ、そんな笑うなよー」

 大輝が拗ねた声を出すので、昌秀は「悪い悪い」と謝った。

「最近、仕事はどう? この間まで、ツアーに出ていたって聞いたよ、弟から」

 昌秀が話題を変えると、大輝は「今やっと落ち着いたとこ」と言った。

「大きいツアーだと、半年くらいかけてやるんだけど……まぁ、疲れることは疲れるなぁ、楽しいの方が勝ってるし、気合いもあるから、やり切れるし、やってる間は、あんまり疲れを感じなかったりもするんだけどなぁ」

終わってみると、もぬけの殻っていうか、しばらく放心するっていうか

 昌秀は「わかる」と同意した。

「僕も、依頼された絵があると、描いている間は楽しいし、気合いでいけるんだけど、終わった後、数日は使い物にならないよ」

そういう感じで、今、実家に避難中です

 昌秀は言った。

「わかるわー、そういう時、実家に戻るとさー、本当に気楽になって、溶けるっていうか? ダァーって、全身から力が抜ける」

実家の威力、スゲーわ……

「実家、というか、家族というか……まぁ、我が家は主に母の力です」

 昌秀が言うと、大輝が「それそれ」と笑った。

「昌秀の弟は? 実家にいんの?」

「いるよ」

「なんかウチの悠輝が仲良くしてもらってるみたいで」

 大輝は、ワザと改まった口調で言った。昌秀はそれに乗っかって「これはこれは、ご丁寧に、こちらこそ仲良くして頂いているようで……」と返した。

「気が合うんだろうなぁ、この間、ウチに泊まりに来たらしいよ」

 大輝が言った。昌秀は、苦笑して頭を下げた。

「それ、本当にすまないと思ってるんだけど……僕と弟がね、ちょっと喧嘩して……それで出て行っちゃって……行く宛がねぇ、どうも柏木家しか、なかったみたいで」

 大輝は、面白そうな顔をして、対面に座っている昌秀の方に身を乗り出してきた。

「なんだなんだ、昌秀が喧嘩なんて珍しいな」

「そう面白がるなよ、結構今もギスギスしていて、せっかくの実家なのに居心地悪いったらない」

「じゃぁ自分の家、帰ればいいだろ?」

「飯作るのと洗濯するのが、どうも……」

 昌秀が言うと、大輝が笑った。

「居心地悪いとか言って、母ちゃんに甘えてるだけじゃねーか」

「なんにも反論できないな」

 昌秀は、しんみりとした顔をして斜め下を向いた。

「原因は? 喧嘩の」

 大輝が尋ねると、昌秀は少し考えてから、

「弟の進路? というか、まぁ、画家になるかどうか、とか……そういう、あー……説明するのは難しいな……」

「ナイーブな問題ってことな」

「そう、そうそう。そういう。何か、物事についての喧嘩というよりも、心の持ちようというか……いや、格好付けすぎだな……要するに、僕が弟の才能に嫉妬して、大人げなく八つ当たりした、っていう……」

 昌秀の言葉に、大輝はサッパリとした口調で、

「なんだよ、お前が全部悪いんじゃん。謝れよ。大人なんだから」

 と言った。

「あまりにも正論」

 昌秀は、参ったなぁと言って後ろ髪を混ぜた。

「弟がさ、ちっとも進路をハッキリさせないから、ちょっと発破をかけようと思ったくらいだったんだ、最初は。でも、弟の作品とか盗み見たらさ」

「盗み見たらダメだろ」

「そう、ダメなんだけど。好奇心にあらがえないのが、画家というイキモノ……」

「それは違うな。あらがえなかったのは、お前。他の自制心のある画家に謝れ」

 大輝は容赦なく言う。けれど、その言葉は、ちっとも嫌らしい感じがしなかった。言葉の根幹に、きちんと友を思いやる気持ちが混ざっている。大輝は、そういう塩梅が、昔からとても上手な人間であった。

 彼は、外側に敵を作りにくい人間だ。

「僕はダメだな、どうにも下手くそだ。外側に敵を作りやすい」

「温厚なのになぁ」

「穏和で柔和、よく言われる。最初の印象としてね。でも、仕事での付き合いが長くなったりすると、だいたい繊細、ナイーブからはじまって、最終的には気難しい、怖いっていう評価に変化するんだ」

 昌秀は言った。大輝は「そんなもんだよなぁ」と頷く。

「俺もそうだよ。最初は元気がある、勢いがある、裏表がなくてサッパリしている、そんな感じで言われるのにさ、ツアーでずっと一緒にいるスタッフとかには気難しい、注文が多い、扱いにくい、文句が多い、我が強い、みたいな、そんな風に思われてるとこある」

仕方ないよな、好きなんだから、こだわりがあるんだから、ぶつかるのも、仕方ないよな

「弟に、そういう人間になりたくないから、画家になろうか悩んでるんだって言われたよ。僕みたいな、こういう人間に、なりたくないそうだ」

 昌秀が言うと、大輝は「うわー」と声を上げた。

「それ、キッツイな、言われたら」

「そう、キツい。僕、結構ブラコンだから、ガーンって思った」

「古いぞ、表現が」

「同世代だから通じるだろう?」

 二人して、小さく笑った。個室の中に、同じ色彩の曖昧な影が、フワフワと浮かんでいる。表現をする者の心に宿る、かたちのない、漠然とした、影。

「俺さぁ、弟の手柄を横取りしてデビューしたわけじゃん?」

 大輝が言った。大輝のデビューについてのいきさつは、昌秀も知るところだった。

 当時、大学を中退してスペインへ留学する準備をしていた昌秀に、大輝はこの件についての相談をした。昌秀は、自分が大輝に励まされたように、励ました。

 手に取れるチャンスは、逃すべきではない、と。

「俺のせいでさぁ、弟は、結局中学でも高校でも、大学でもさぁ、軽音部とか軽音サークルとか? そういうのに入れなくてさ。いや、入れないこともないんだけど……もう、レコード会社からも、とっくに弟の活動はオッケー出てるし。でも、アイツの中では、そうはいかないみたいでなぁー」

ずっと音楽好きなのに、ずっと俺に気を使って、ずっと、我慢してるみたいに見える

 大輝は言った。それについては、昌秀が「それ、キツいな」と言った。

 大輝は頷く。

「俺が好きにしていいんだぞ、って何度言ってもな、説得力ないし。弟は真面目っていうか、思考が器用っていうか……うまいことやってるし、自分なりに好きにしてるから案ずることはない、みたいなことを言ってくるし」

「頭良いの?」

 昌秀は、純粋な疑問として尋ねた。

「頭良いよ。本当はウチの大学よりもっと上も狙えたんだけどなぁ。それでも、俺と同じ大学に入りたかったんだと」

「いい子じゃないか」

 昌秀の言葉に、大輝は嬉しそうにした。

「そう、いい子なんだ。俺もブラコンだからな!」

 前を歩く者は、どうしても、後ろが見えてしまう。後ろを歩く、愛おしい者たち。彼らがどうにか、歩きやすい道を選べるように。

 どうにか、幸せな道を歩けるように。

「お兄ちゃんも苦労するよなぁ~」

 大輝は言った。

「手を出そうとすればするほど、嫌われるしなぁ」

 昌秀も、ボヤくように言った。

 大輝はビールをグイッと呷ってグラスを空にすると、もう一杯、昌秀の分も含めて、勝手に注文をした。

「明日休み?」

 昌秀が聞くと、大輝は「午後から打ち合わせ」と言った。

「あんまり飲み過ぎるなよ」

「昌秀は? 明日は?」

「なんも。仕事のない時の画家は、無職みたいに見えるだろう? 弟にとっては、それもマズかったなぁ。そういう姿、見せずにおけばよかった」

 昌秀は言った。

「俺だってそうだよ、仕事のない日は、マジで無職みたいな気分。でも、頭ん中ではずっと仕事のこと、音楽のこと考えてる。休みナシっていう気持ち」

「わかるなぁ。僕もそうだ。描いてない時も、ずっと描いてる。頭の中で、そればっかり。休まる時なんて、ちっともなくて。気の抜き方、肩の力の抜き方とか、そういうの、忘れちゃったんじゃないかなって思う。でも、今、この瞬間、すごく気が楽だ。大輝と会って、良かった」

 昌秀の言葉に、大輝は「やめろやめろ、照れる」と笑った。

「俺さぁ、二年くらい前に、本気で仕事キツくなったことあって」

 二杯目のビールが運ばれてきて、それに口を付けながら、大輝が言った。

「音楽性とかいう言葉を使うとさ、途端に陳腐な空気になるけど。そういう自分のやりたい音楽と、会社の求める音楽、あとファンっていうか、聞いてくれてる人たちの求める音楽? そういうのが、全部バラバラの方角を向いちゃってた時期で……本当に、言葉では言い表せないくらい、辛くて、シンドくて、いよいよ辞めようかと思ったんだけどさ」

 昌秀は、大輝と同じペースでビールを飲みながら、黙って話を聞いている。

「それをさぁ、姉貴に相談したんだよ。もう辞めようかなって。そしたら秒でビンタされた。それもかなり本気の力で」

「おお……」

 昌秀は、女兄弟もいなければ、他者をビンタするような性質の家族もいない。

 過激だ! と思ったりした。

「下の弟の夢も希望も全部踏みつけて好きなことやってるくせに、何ふざけたことを言ってるんだ! ってすごい剣幕で怒鳴られてさ、俺、その時本当に参ってて、相手はただでさえいつも喧嘩になる姉貴だし。こっちもマジでキレて、怒鳴って、お前に何がわかるんだよ! って、お決まりの台詞を飛ばしたらさぁ、なんて言われたと思う?」

「さぁ……」

 昌秀は首を捻った。

「姉貴、あんたの苦労は全然知らないし、知りたくもないけど、悠輝が部屋で、ひとりで泣いてるとこだったら死ぬほど見てきた! って言ってさぁ……もう、それだけで完全に俺の負けだよな」

 大輝は苦笑する。

「泣き言も、弱音も、もう二度と吐かないようにしようって、その時思ったわ」

悠輝、俺にはちっともそんなこと言わないけど、悔しかっただろうし、自分の歳が、歯がゆかっただろうし……

「もし、俺がそっちの立場だったら、どんな気持ちになるか。考えただけでもゾッとする。悠輝が……弟が、俺のことをちっとも恨まないで、それどころか、俺のライブとか、ちゃんと来てくれて……部屋とかさぁ、俺のバンドのポスターでいっぱいなの。新曲出る度に買ってくれてるし、別に買わなくてもやるよって言ってるのに、俺はファンだから買わないと気が済まないとか言う。勝手だってわかってるけど、俺、もうなんかさ、泣けちゃうことあるんだよな、あいつのこと見てると、眩しくて」

 昌秀は、腕を伸ばして大輝の肩を軽く叩いた。その肩は、大学の頃よりも少しだけ頼りなく思えた。

 あの頃の方が、何も持っていなかったのに。あの頃よりも、今の方が前に進めているはずなのに。あの頃よりも、ずっと、大きくなったはずなのに。

「大学の時、楽しかったなぁ。なんだか、全部が輝いて見えていた気がするよ。思い出だからかなぁ、昔のことは、光って見えるね」

 昌秀は言った。昌秀には、大輝の言っている言葉が、痛いほどにわかった。昌秀にも、自分の弟である侑人は、時折、眩しく見える。

 その輝きは、若さだけではない。

 絵に対する純粋な情熱や、絵を描いている時の集中力、未来へと伸びようとする内側に蓄えられている力。

 何もかもが、その体の中に満ちていて、眩しい。

「負けてられないな」

 昌秀は言った。大輝はちょっと泣きそうな顔をしながら、

「兄貴だからな」

 と、はにかんで笑った。


 *

 九月の下旬、大学生たちの長い夏休みが終わった。

 侑人は、その日に受けるべき全ての授業を終えた後、学生課へ行った。用事を済ませて帰ろうとバス停に向かうと、時刻はもうすぐ十九時というところだった。

(思ってたより……時間くったな……)

 まだ夏の空気を残している外気は暖かく、そして明るい。ようやく日が傾きはじめていて、西日が眩しかった。

 バスを待っていると、

「おや、侑人じゃないか」

 という声が聞こえた。振り返らずともわかる、柏木悠輝だった。

「あれ、遅いな帰り。どうした」

 侑人が言うと、柏木は「そっちこそ」と笑った。

「俺は学生課。進路希望調査? あれ、書き直してもう一回提出してきた」

 侑人が言うと、柏木は苦笑した。

「真面目だねぇ、あんなの別に書き直さなくても良いだろう、単なる希望調査なんだから」

「それが、そういうわけにもいかない。前に提出した希望の中に就職って入れちゃったから……それ書いた人は、就職先決まったら、それを報告しないといけないんだって」

進路、就職じゃなくなったから、就職先提出できないし

 柏木は、侑人の言葉を聞いて、なおも「だからそういうところが、生真面目なんだよなぁ」と言った。そして続ける。

「まぁ、ウチの大学様は、一応? 就職率九十八パーセントをうたっているからな。未来の受験生たちへのアピールとして。そのためにも、大学側からすれば、こういう調査とか、就職先みたいなものは、重要なんだろうよ」

生徒の側からすれば、自分の人生なんだから、大学側の思惑なんて知ったことではないけれどねぇ

 柏木は喉の奥の方でクックックと笑った。

「ロックだねぇ」

 侑人も緩く笑った。

「画家になるって、書き直してきたのか?」

「まぁ、そう」

「ロックじゃないか」

 柏木は満足げな顔をした。侑人は、こういう友達がいてくれることを心強く思う。きっと、兄の昌秀も、柏木兄を同じような目で見つめていたんではないかなと想像した。

「今日は、ちょっとだけ、兄貴に感謝したよ」

 侑人は言った。

「ほう? その心は」

 柏木が問うた。

「学生課の理解が早かった。なんか画家になるって書き直したら、絶対なんか言われるって思ってたけど、俺の名前見て、すぐ納得してくれた。君、お兄さんも画家だったねって。兄貴の時は大変だったみたい。母さんも呼び出されたし、日本画家やってるばあちゃんの名前を出したり、父さんのやってる画廊の名前出したりで……納得、というか、理解、かな……してもらうまで、結構時間かかったみたいでさ。俺もちょっとだけ覚悟してたけど、全然大丈夫だった。兄貴の名前ひとつで、大丈夫だった」

その後、あれやこれやって聞かれたし、どういう絵を描くのかとか、賞とかとる予定あるのか、とか……そんな興味本位で聞かれてもって思ったし、全体的にイライラはしたんだけどさ……

 侑人の話を聞いて、柏木は労うような顔で「それはご苦労だったなぁ」と言った。

 バスがゆっくりと学校前の急斜面をのぼって、バス停へと入ってくる。

「柏木は、こんな時間まで何してたんだ?」

 段差の大きいバスのタラップを踏みしめながら、侑人は尋ねた。

 柏木は「軽音部の活動に混ぜてもらってきた」と言った。

「え、」

 侑人は思わず立ち止まって、後ろを振り向く。バスの入り口だ。

 侑人の後から乗り込んだ柏木は、それはそれは邪魔そうな顔をして。侑人の背中を両手で押して、バスの奥まで押し込んだ。

 二人して、一番奥の長椅子に並んで座った。バスは五分ほど停車をしてから、ゆっくりと駅に向かって動き出す。

 十九時台のバスは空いていた。授業だけの生徒はとっくに帰っているし、サークルがある生徒はまだ遅くまで残っているだろう。

 中途半端な時間だった。

「バンド、やる気になったのか?」

 侑人は目を輝かせて柏木を見る。柏木は、ちょっと照れたようなむず痒い顔をして「混ぜてもらっただけだよ」と言った。

「最近、軽音サークルに所属している友達が出来てな。たまにスタジオ練習に混ぜてもらってるんだ。それだけ。別にバンドを組んだわけでも、ライブをするわけでもなく、お遊びで、ちょっと、やらせてもらってるだけ」

 柏木は、いつもの悟ったような顔ではなく、普通の大学生みたいな、まだ大人になるには不完全みたいな顔で言った。侑人は、柏木のそういう表情を見られたことが、嬉しい。

 そして、バンドを組んだわけではなくとも、なにかが少し吹っ切れたみたいな柏木が、嬉しい。

「えー、聞きに行きたい」

 侑人が言うと、柏木がハハと笑った。

「お前、音楽に興味ないだろうに」

「ないけど、聞きたいこともある」

 柏木はニヤリとして、

「お前が俺に絵を見せてくれるというのなら、聞きに来ても良いぞ」

 と言った。

「お前、絵に興味ないだろ」

「ないけどな、見たい絵もあるさ」

 二人の間に、何とも言えない充実した空気が満ちた。互いの体の中にポツンとあった空洞。空っぽだった、その大事な部分が。少しずつだけれど、時間をかけて、丁寧に満ちていく感じがした。

 簡単な言葉で表現すれば、それは「未来への希望」のようなものなのだろう。単純だけれど、それがあるのと、ないのでは、大違いだ。

 バスが山を下っていく。鬱蒼としている木々の間から、強烈な西日が入り込んできていた。窓側に座っていた柏木が「おお」と小さく感嘆の声をあげた。

「侑人、見てみろ」

 柏木に言われて、侑人も窓の外を見る。大きなオレンジ色の太陽が、ゆっくりと空の上からおりてきているところだった。

 空の上から地平線に向けておりてくる太陽。山の上から、駅に向かっておりていくバス。ちょうど良い具合に、太陽が視線のど真ん中にきていたのだ。

「デカいなぁ、太陽」

 柏木が言った。侑人も無言で頷く。

 迫ってくるような、手を伸ばせば届きそうな、そんな夕日だった。燃えている、燃えながら輝いて、大きな力を発している。

 侑人には、その夕日は、情熱に燃える魂のように見えた。外から見ている自分たちには、その太陽の本当の熱さはわからない。想像しかできない、熱いんだろうな、という想像しか。

 触れたことがないから、わからない。

(そういう、もんだろうな……)

 人間だって同じだ。その人の持つ熱量は、外からはわからない。本人にしか、その熱さは、わからないものだ。

 決して他人の手では触れられないものがある。自分だけのものが、誰にだってある。

「本当に美しいものっていうのは……ただ、あるだけで、キレイなもんなんだなぁ……」

 柏木が呟いた。

 その言葉は、ストンと侑人の胸に落ちていく。

 芸術とは、なんだろうか。

 芸術の、意味とは。

 芸術の、価値とは。

 芸術の、評価、とは。

「この夕日を見て、キレイだと思わない人もいるんだろうな」

 侑人は言った。

 柏木は「えー」と不満げな声を出して、

「そんなヤツいるのかね。そいつには人の心がないのではないかね」

 と言った。侑人は笑って、そして穏やかな声で言った。

「たぶん、今日すごく嫌なことがあった人とか、例えばだけど、大事な人と喧嘩したり、家族が亡くなったり、そういう暗い出来事があった人の目には、あんまりキレイには見えないのかもしれないし、夕日どころじゃないかもしれないし、キレイには見えるけど、キレイなことが嫌味に思えるかもしれない」

 現に侑人は、今まで何度もこのバスに乗っているけれど、夕日がキレイだと思ったのは今日がはじめてだった。柏木は、小さく「なるほど」と呟いた。

「今日、俺も柏木も、これを見てキレイだって思えたんだから、それはめちゃくちゃ幸せなことなのかもしれない」

 侑人が言うと、柏木は「ロックじゃないな、ロマンティックだ」と笑った。

 二人は、目が痛くなるほど、目の前がしばらくチカチカするほどに、夕日を堪能した。

 バスが駅前に到着する頃には、夕日はすっかり沈んで、辺りは薄暗くなっていた。侑人と柏木は、電車に乗って途中まで一緒に帰った。電車は混んでいて、二人はあまり話さなかった。

 けれど、満ち足りた空気は、ずっと残ったまま二人の間に漂っていた。


 *

 侑人は、家の玄関を開けたところで、兄とかち合った。兄はちょうど、二階にある自室からおりてきたところだったようだ。

「おかえり」

 いつもの柔らかい声で、兄は言った。

「……ただいま」

 侑人も返事をする。あれからずっと、なんとなく兄弟の間にゴワゴワした質感の異物が残っている。侑人は、別に怒っているわけではない。

 けれど、やっぱり無断で絵を見られていたことに対する憤り、いや、もっと子供っぽい「拗ね」のような気持ちが消えないのだ。

「今日は遅かったね。夕飯、食べてきたの?」

 兄が尋ねた。

「食べてない。学生課寄ってきただけ」

 侑人は靴を脱いで、スリッパを突っかけると兄の横を通り過ぎてリビングへ行った。兄は後からついてくる。

「母さんは?」

 いつもなら、出迎えてくれる母の姿がない。

「ばあちゃんの具合が悪いからって、看病に行ってるよ」

 兄がサラリと言った。侑人は顔をしかめる。

「え、なにそれ、聞いてない」

「ついさっきのことだよ。たまたま母さんが電話したら、なんかばあちゃんの声がおかしかったらしくて。問いただしたら、風邪っぽいって。ただの風邪だから大丈夫って本人は言ってるらしいけど、やっぱり心配だから見てくるってさ」

 兄はキッチンに立つと「コーヒー飲むけど、侑人もいる?」と言った。侑人は、なんとなく「うん」と答えた。

 テーブルを囲んで、兄弟でコーヒーを飲む。テレビは二人とも好まないので、無音だ。

 兄の醸し出す雰囲気は、相変わらず柔和だと侑人は思う。何も考えていないような、けれど、深く考えているような。

 先日、兄の中にある太陽の一端に触れた。ほんの少し触れただけで、火傷しそうなほど、熱いことがわかった。きっと、自分の知らない兄が、隠された奥に、たくさんいるのだろうと侑人は思うようになった。

「……今日、学生課で、進路希望、書き換えてきた」

 侑人は言った。

「そう。画家になるって、決心したの」

 兄は言った。緩く笑って、侑人を見ている。その笑みを、怖いと思った。

「半分決心……まだ、半分は、戦ってる、自分の中で」

 侑人は正直に言った。

「何と戦ってるの」

「自分の絵が、周りにどう見えるのかっていう不安と、画家っていう職業で、ちゃんと稼げるのかっていう不安」

「稼げなかったら、侑人は画家にならないの? 金儲けのために、画家になるの?」

 兄は言った。幼い子供を諭すような声だった。

「兄貴は、そういう葛藤とか、ないの」

 侑人は、思い切って尋ねた。兄はコーヒーを一口飲むと、言った。

「前に侑人は、自分たちの世代は、ずっと厳しいんだって話をしてくれたね。経済的にも、余裕がないからって。経済的な余裕がなくなれば、絵を愛でる心のゆとりもなくなるよねっていうのは、まぁ、一理あるよなって僕も思うよ。でも、一理だ、それは本当にほんの少しの部分」

 侑人は、兄の言葉を黙って聞く。反論したい気持ちもあるし、兄貴が思っているよりもっと深刻な世代なんだと言いたいけれど、黙った。

「僕は、誰も絵を描いてない時代に生まれても、絵を描く。誰も見てくれなくても描く。誰も買ってくれなくても、描く。なんでだと思う? そんなのは簡単な話だ。他人の物差しは関係なく、ただ、僕が絵を描くのが好きだからだ。死ぬほど好きだから、描く。それだけのことだよ」

だから、どう見られても、どういう評価を受けても、絵画という芸術に、その時代にとっての意味があろうが、なかろうが、売れようが売れまいが、僕は描くよ

 侑人は、兄の言っていることの半分は理解が出来た。きっと、今までだったら、理解しようとしなかっただろう部分が、少し理解出来た。

 バスの中で見た、圧倒的な夕日の美しさ。あの美しさを前にして、理由も理屈もないと思った。柏木の言葉が心の奥の良い部分で揺れている。

(本当に美しいものっていうのは……ただ、あるだけで、美しい)

 そこに、意味や意義がなくても、そこに人の目が向かなくても。ただ、美しく存在するものも、この世にはある。

 今日の夕日が美しかったことに、一体どのくらいの人が気付けただろうか。夕日を見た人の中で、美しいと感じられた人は、どれほどいたのだろう。

 美しく見えなかった地域もあるだろう。

 見る角度にも、見る場所にもよる。

 美しさとは、固まったものではない、揺らぐものだ。揺らいで、移ろって、流れて、留めておけないものだ。気持ちひとつで、見え方は変わってしまう。

「兄貴は、最初から、そうなの? 最初から、ただ好きで、描いてる?」

 侑人は尋ねた。先ほどから、コーヒーには手を付けられていない。立ち上る良い香りばかりを嗅いでいる。

「侑人だって、最初から、ただ好きで描いてるだろう」

「……そうだけど、俺は、それだけじゃ、迷う……上手く言えないけど、兄貴みたいに、自信をもって、前に進めない」

 侑人は言った。兄は、思わずのように笑った。

「ああ、そうなのか。侑人には、僕がそう見えてるわけだ?」

「……なにが?」

 兄は少し納得したような顔をして、小さく一度頷いた。

「昔から、友達にも勘違いされがちだったけど、弟にまで勘違いされてるとは思わなかった」

「だから、なにが」

「侑人には、僕が自信満々で画家をやってるように見えてるんだね」

 兄は言った。侑人は首を傾げる。

「違うの?」

「違うよ」

 兄は即答した。けれど、侑人にしてみれば、兄のような朗らかな、柔らかい空気を出せる人間が、壮絶な苦しみの中にあるとは思えない。自信があるのでなければ、ただの脳天気だ、そのどちらかだ。そうとしか思えない。

「僕は、あんまり顔に出ないだけ。表情筋がねぇ、生まれつき笑ったような顔で固定されてるんだよねぇ」

侑人も比較的、そうだよね、ムスッとはするけど、口角はいつもあがってる

 兄は笑った。侑人は、なんだか恥ずかしくなって、自分の頬を両手で揉んだ。

「僕はね、侑人」

 兄は、真っ直ぐに侑人の目を見て言った。

「自分の存在を、どうしても、残したい。どうしても、自分の生きた証を、この世界に残したいんだ」

絵という形で、この世に、自分の存在を、思想を、願いを、希望を、なるべく長く、なるべく鮮やかに、残しておきたい

「人が誰かを愛して、誰かと結婚して、子供を産んで、未来へその血を繋げるみたいに、僕は、僕の絵を、未来へ残したい。希望として」

 兄は、真剣だった。あまりにも大きな枠での考えで、侑人には少しボヤケて聞こえたけれど。言いたいことは、強い思いは、痛いほどに伝わってきた。

「だからね、大学から講堂の絵を頼まれた時は、本当に嬉しかったんだ。ああ、これで少し僕の願いが叶うって思った。東上大は歴史ある大学だし、そう簡単には無くならない、これから先も続いていく学校だと思うし。そんな学校の大講堂に飾られる絵だ。出来れば百年、それが無理でも、せめて三十年、四十年って、そのくらいは、残ってくれたら良いなと思って、自分の得意は水彩なのに、頑張って、油絵にした……けれど、残らなかった」

 作品を、未来へ、先へ、先へと残すことの、難しさ。

「痛感したよ。取り壊しが決まったと連絡があった時、本当に、悔しかった。悔しくて、日本にはいられなかった」

 兄は言った。侑人は、ようやく一口コーヒーを飲んだ。苦味が、舌先から喉の奥までをツンと刺した。やりきれない、もどかしい、切ない、そういう気持ちが侑人の体中を巡っている。

「侑人にも、そういう、なにか……目標、いや、違うなぁ、指針というか……なにか少しでも見つかれば、いいね。そうしたら、きっと、歩きやすくなるよ」

 侑人は、兄の目を伺うように見つめて、小さな声で尋ねた。

「兄貴は……俺の絵、どう思う……? 俺は、兄貴の絵が好きだけど……」

 兄は、侑人の目を、一瞬だけ見て反らした。

「僕もキミの絵が好きだよ。好きだから、こんなにも怖いし、こんなにも対抗心が沸く。大人げないとわかって言えば、侑人、キミが若いというだけで、僕はキミがムカつくよ」

 兄は言いながら、でも笑っていた。その笑い方は、言葉の割りには意地悪な感じはなかった。複雑な、愛情と嫉妬と、慈悲。

「前を歩くというのも、大変なんだよ」

 兄は言った。そして、空になったコーヒーカップをそのままに立ち上がる。

「淹れるのはお兄ちゃんやったから、片付けは侑人お願い」

 ニッと笑って肩を叩かれて、しまった、と思った。兄弟揃って、洗い物はあまり好きではない。侑人が文句を言う前に、兄はとっとと二階へ戻ってしまった。

 きっとまた、自室の扉を開け放って、絵の続きを描くのだろう。

(未来に、残す……なるほど……)

 侑人は、自分のカップに残っているコーヒーを飲みながら考えた。絵を残すなんていうことは、あまり考えたことがなかった。

 いつも、その場の反射みたいに描きたいと思ったものを描いている。

(でも、描きたいと思うってことは、残したいって思ってるってことだよな……)

 描いて、留めておきたい、残しておきたい、記録しておきたい。そういう気持ちが、どこかにある。

(今日の夕日も……)

描いてみたい、あれは油絵よりも水彩の方が思ったように描けそうだ、ああだとしたら、兄にも見せたかった、兄だったらあの夕日をどう描くだろう、俺だったら、アレを、どう表現するだろう……

「水彩……俺はあんまり、得意じゃないんだよな……」

 兄に、習おうかな、と考えた。教えてくれるだろうか、とも考えた。

 どちらにしても、そういう考えを頭に浮かべることを、楽しく思った。幼い頃から一緒に育って、よく知っているはずなのに、侑人は兄のことをもっとよく知りたいと思った。


 *

 十月も中頃になったある日の昼過ぎ。侑人のスマートフォンに学生課から電話がかかってきた。

「……なんで……?」

 侑人は鳴り続けるスマートフォンを嫌な目で見つめる。

「用件は電話に出ないと聞けないぞ、侑人」

 隣にいた柏木が正論を唱える。二人は授業と授業の間の空き時間を潰すため、グラウンドへ向かおうとしていたところだった。

 最近の柏木は、よく軽音楽部の友達とサークル棟へ行くようになっていた。そのため、侑人と一緒に過ごす時間は少なくなってきている。

 けれど、侑人は柏木が「サークル棟へ行く」と言う度に嬉しい。友達が少ない侑人にとっては、少々寂しいところもあるが、元々ひとりで過ごすことには抵抗がない。

 誰といようが、ひとりでいようが、結局はスケッチブックを開くだけだ。

 今日は久しぶりに空き時間がかち合って、グラウンドの横でぼんやりしようという話になったのだ。

 侑人は面倒臭い気持ちになりながら、電話を取った。学生課の職員は、ただ簡潔に、淡々と。空き時間に学生課を訪ねるようにと侑人に言った。

「なんだって?」

 電話を切るとすぐ、柏木が興味深い目で尋ねてきた。

「なんか、学生課に来いって」

「果たし状みたいだなぁ、なんだそれは」

 柏木は笑う。

「面倒だから、もう、今行ってくるわ」

 侑人が言うと、柏木はニヤニヤしながら「ついて行こうじゃないか」と言った。

「見世物じゃないぞ」

「まぁそう言うな、心配してるんだよ」

 二人は方向転換をして、グラウンド方面ではなく、大学の入り口横にそびえる学生課へと向かった。

 学生課の入り口で、侑人は自分の名前と電話があったことを伝えた。すると、侑人はすぐに学生課の奥にあるソファー席で待つように言われた。

 柏木は「俺はココで待ってるよ」と言ったけれど、ここまで付いてきておいて、それはないだろう。

「いや、もう心細いから、一緒にいてくれ」

 侑人は柏木の服の裾を引っ張った。柏木は「おやおや」と言って呆れた声で笑いながら。けれど、一緒にソファー席まで来てくれた。

 並んで座って待っていると、スーツ姿の男性が三名やってきた。

「呼び出してすまないね」

 ひとりの男性が笑いながら言った。

 三人は、侑人たちの対面に腰を落ち着ける。歳の頃は三者三様で、今、声をかけてきたのは侑人たちの父親と同じくらいの歳に見える。

 残りの二人のうち、ひとりは三十代くらい、もうひとりは四十代か、五十代か……というところだ。

 侑人は、誰ひとりとして、面識がない。誰だろう、と首を傾げていると、柏木が横から小さな小さな声で、

「意味分からんみたいな顔をしてるところ悪いが、真ん中はこの大学の学長だぞ」

 と助言してくれた。侑人は、その言葉に一気に緊張する。なぜ学長に呼び出されないといけないのか。

「突然で驚いたと思う。授業は大丈夫かな? あんまり時間を取らせないようにしますので」

 一番若い男性が言った。彼らは、それぞれに自分の名前と立場を名乗った。

 柏木の言うとおり、真ん中に座ったのが学長。学長の右隣、四十代だか五十代だかに見える男性は、侑人の所属する人間科学部の学部長。左隣の一番若い男性は、人間科学部の学部長補佐、だそうだ。

「あの……僕、何かやらかしましたか……?」

 侑人は思わず「僕」なんて猫を被って、恐る恐る尋ねた。学長は、侑人ではなく柏木を見て「君は?」と尋ねた。侑人が柏木のことを説明するよりも早く、柏木自身が、

「友人です。たまたま一緒にいたので、ついてきてしまいました。邪魔だったら、退室します」

 と、サッパリした口調で言った。学長は「いやいや、君も授業が大丈夫だったら、このままいてください」と笑った。

 そういう軽い雰囲気に、侑人は少し肩の力が抜けた。そんなに重苦しい話ではないらしい。

「早速なんだけれどね、先日、大学理事長も交えて、新しく建設予定の大講堂について、話し合う機会があったんですが……」

 学長は、流れるように話し始めた。迷いのない語調には、はじめから言うことが確定していて、後はもう伝えるだけ、みたいな簡潔さがあった。

「君のお兄さんも、この大学の卒業生だったね。取り壊す前の大講堂の絵は、君のお兄さんの作品だった。とてもすてきな絵を寄贈して頂いて、感謝しています」

 学長は言った。その辺りから、侑人にも、隣に座る柏木にも、これから言われることの予測がついた。予測がついたからこそ、侑人は混乱した。混乱の中で、相手の話を聞き漏らさないよう、必死になった。

 学長の横に座っている学部長が侑人の目を見つめて言った。

「君のお兄さんは、今では立派な画家として活躍していると聞いています……君の進路希望も、画家だと、学生課から聞いているのだけど、間違いないかな?」

 学部長の声は、学長の声よりも事務的で、冷たく、仕事として話しているような雰囲気があった。侑人は、気圧されそうになりながら「そうです」と小さな声で答えた。

「今までの話で、もう察しがついているかもしれないけれどね、新しい講堂に飾る絵を、今度は君に依頼したいと、私たちは考えています」

 今度は学部長補佐が侑人に言った。彼の声はまだ若く、横に座っているお偉い方二人を意識しながら話しているようだ。視線は侑人ではなく、学長と学部長の方をチラチラと見ていた。侑人は、そんなことを観察してしまうくらいには、頭が空っぽだった。

 混乱の極致だ。

「お兄さんの時もそうだったのだけど、話は聞いているかな……? 君がもし、新しい講堂の絵を描いてくれるのであれば、君のそれは、卒業論文の代わりとして、受け取ることにしようと思う。私は、絵は専ら見る専門でね、絵画制作の厳しさや、難しさ、どの程度の時間がかかるのかということについては、あまりピンときていないのだけれど。お兄さんの時も、まぁ一年くらいはかかるものだと聞いていたし、現に、お兄さんもあの絵を卒業論文の代わりにしたからね。その辺りについてはお兄さんに尋ねる方が、きっと明確な答えが返ってくると思いますよ」

 学長が言った。垂れ目がちで、髪には少しの白髪が混じっている、優しげな雰囲気の人だ。笑うと目尻に沢山の皺が寄る。

 しかし、立場がそうさせるのだろうか、発言には有無を言わせぬ圧があった。学長の言葉が完全に途切れるのを待って、学部長補佐の男性が、何事かがプリントされた数枚の紙を取り出して、淡々と読み上げはじめた。

「絵については、前回の絵と同じように、抽象画でお願いしたいと思います。私もあまり詳しくないのですが、保存の観点からも、油絵でお願いしたいと理事長の希望です。サイズについては、前回よりも少し大きいのですが、縦四メートル、横が五メートルくらいのものをお願いします。あくまでも寄贈、卒業論文の代わり、ということですので、制作費用については、制作者側の自費ということになります。また、大学のイメージに関わるものですので、モチーフがはっきりしているような絵は避けていただいて、」

「ちょっと待ってください」

 ストップをかけたのは、侑人ではなく、柏木だった。

「まだ、西は描くかどうかのお返事をしていません」

 侑人は、柏木が相手の言葉を止めてくれたことに、ホッとした。どこか遠くの方にいた、自分の魂がスッと戻ってきた。

「すまん、ありがとう」

 侑人は、柏木を向いて言った。柏木は目だけで返事をする。

「すみません、突然のお話で、唖然としてしまって」

 侑人は言った。真正面から相手の顔を見てしまうと、負ける気がして、学長の締めているネクタイの結び目あたりを見るように心がけた。

「お話は嬉しいのですが……僕の絵を見たことがないのに、そういうのを決めてしまって、良いんでしょうか?」

 侑人は言った。新しい講堂に飾る絵だ。それこそ、以前に兄が言っていたように、もしかしたら長く残る絵になるのかもしれない。そんな絵を、よく知りもしない、まだ画家でもない自分に頼むのはどうかと思った。

「君が適任ですよ。お兄さんの絵も良い出来上がりでしたし、君も、そういう芸術の血を引いているんでしょう。それに、言い方は悪いですが、君の家は経済的にも、ゆとりがあるのでしょう。息子が二人とも画家としてやっていけるだけのものがあるというのは、すごいことです。今の時代、なかなかそういう恵まれた環境にある人はいません」

 学部長が、少しの皮肉を込めたような声で言った。いや、皮肉めいて聞こえたのは、侑人の受け取り方のせいかもしれない。胸の中で、薄黒い何かが蜷局を巻き始めている。

 この空間に、このソファーの仰々しい感じに、目の前に座る大人たちの態度に、言葉に、発言の不躾に、怒りのような感情が沸いた。明確に、怒りなのかは、わからない。ただ、呼吸が浅くなって、息苦しくて、ゆっくりと、肩で息をした。肩でしか、息が出来ない。

「こちらとしては、君に描いてもらうということで、不安も不満もないんだ。あとは、君が描けるか、描けないかというだけの話だよ」

 学長が言った。やはり笑顔の奥に、圧があった。

「描きたいか、描きたくないか、ではなく?」

 侑人は思わず言った。学長は笑って「すまない、言い方が悪かったね」と謝った。表面ばっかりの謝り方のように聞こえた。

 侑人は、いろいろとムカムカして、言ってはならないであろうことを口走りそうになった。落ち着こうと思って、チラッと隣の柏木を見ると、柏木は侑人よりもずっとムスッとした顔をしていた。柏木がそういう顔をするのは珍しい。黙ったまま、正に「生意気」というような顔をしている。

 それが、少し侑人を救った。

「画家としてやっていくことを決めたのだったら、我が校の大講堂に絵を寄贈するというのは、経験値的にも、こう、悪い話ではないと思うのだけど、どうかな」

 学長は、侑人の不機嫌だか、柏木の不機嫌だかに気付いたようで、丁寧に言い直した。

「君のお兄さんの時は、すぐに快諾してくれたようだけれどねぇ」

 学部長が、小さなため息と一緒に言った。侑人の頬がヒクッと揺れる。悪かったですね、弟はすぐに快諾しなくて! と喉元まで出てきたのを、飲み込んだ。消化に悪そうだが、仕方ない。

「……少し、考えさせてください」

 侑人は言った。すると、学部長補佐が、すかさずに言った。

「ご両親やお兄さんに相談しますか? でも、描くのは君なんですから、君が決めないといけないんですよ、結局のところは……社会人になったらね、自分で決断しなくてはいけないことも多くなる。こういう大学のような場で、決断することの難しさや重要さを学ぶことも必要だと思いますけれど……」

 学部長までもが、畳みかけるように、言葉を繋ぐ。

「この場で、とりあえずやれるか、やれないかを決めて貰えると助かるんですよね。大講堂の建設の方がね、結構大詰めで、今現在、絵を飾る方向で図面を作って貰っているんですけどね、描けないようだったら、無駄にスペースを開けるよりは、デザイン的な、こう……タイルで埋めたりとか、そういうことを考えないといけないので」

 場の空気が「いやぁ、困った困った」みたいな、大人の醸し出す嫌な雰囲気に包まれた。

(日本人特有……マジでイライラする……大の大人が集団で……)

 決断を、迫られている。それも、答えは相手によって決められているも同然だ。

(めちゃくちゃ「やらない」って言いたい……)

 けれど、それは侑人の反抗心による答えだ。ここで「やらないですよ」とか言ったら、向こうも少しは困るだろうし、一時的にはスッキリするだろう。しかし、こっちだって、大学生だ。そこまで、子供でもない。

「わかりました。描きます」

 侑人は言った。向かい側に座る大人たちに安堵の表情が浮かんだ。

 学長などは、良かった良かったと言いながら、数度、手で己の膝を打っていた。

「お兄さんの描いたような素晴らしい絵を期待しています」

 学長は言った。侑人は半笑いの表情で「兄と僕は、違いますから」と言った。

「どういう絵を想定しているのか知りませんが、期待に添えなかったらすみません」

 侑人が言うと、学長は「いやいや」と言った。

「前に君のお兄さんに寄贈してもらった大講堂の絵はね、本当に素晴らしかった。芸術的な感性は、血筋によるところも大きいと聞いたことがあります。兄弟揃って芸術の才能があるというのは、本当に奇跡みたいなことだと思いますよ」

経済的な余裕もあって、何も心配しなくて良い環境で、良いものを見て、良いものに触れて、感性を磨きながら、ただ芸術の世界に邁進できる、君もお兄さんも恵まれていましたね

 繰り返される、なんの悪気もない暴力みたいな言葉が、侑人を全力で殴ってきた。

 侑人は、相手に見えないところで、拳を強く握る。強く、強く。

 そして、尋ねた。

「前の……兄の絵……素晴らしいって、思ってたんですか?」

「もちろんです」

 学長は大きく頷いて答えた。

「……だったら、なんで壊したんですか? 壊す必要なかったですよね? 大講堂と一緒に壊す必要、ありましたか?」

 侑人は言った。少々早口になってしまって、自分の中で「落ち着け」という言葉を繰り返す。

「……あれは、苦渋の決断でした……しかし、絵の中に水が染みてしまっていて……あのままだと、じきに腐ってしまうということだったので……」

 学長が言った。侑人は、やはり落ち着けずに、学長の声に被せるようにして言った。

「あのままにしていれば、という話ですよね? 専門の業者に頼めば、修復なんていくらでも可能だった。まだカビもはえていなかった。あの絵は、まだまだ生きられたはずだった。金さえかけて、ちゃんと修復すれば」

あんたたちは、それを、しなかった

 侑人は、途中から敬語を使うことさえも忘れた。ただ、憤りがあった。兄が、魂をかけた絵を、潰した人間に対する憤りが。

「修復には、結構な金がかかる。それは俺もよく知ってる。あんたらも、それ、知ってるんじゃないのか? 知っていて、金を、出し惜しみしたんじゃないのか? 別に、新しい大講堂に絶対に絵が必要なわけでもない。絵がなくても、講堂さえ出来れば誰も困らない。でも、丁度よく前回絵を描いたヤツの弟がこの大学にいて? しかも、どうやらそいつも絵を描くらしいって知って? それで、俺が都合良かったんだろ。 卒業生が描いた、卒業生が寄贈した、それだけで美談だし、金もかからない」

 侑人は静かな声で言った。けれど、糾弾する心が語調を強める。

「いやいや、そんな穿った見方をしないで……私たちはただ、」

 学長が苦い笑いを浮かべて言うのを遮って、侑人は言った。

「あんたたちに、俺たちの、絵を描く人間の、何がわかる。口を開けば恵まれていて良いですね、だの……気楽で良い、だの……環境がどうの、苦労もしてないだの、どうのこうの馬鹿のひとつ覚えみたいに、そういうことばっかり言う」

それは、妬みですか?

見下しているんですか?

馬鹿にしているんですか?

「どれでも良いですけど、そういう発言は、もういい加減にして欲しいんですよね」

 金が無くても、裕福じゃなくても、芸術を愛する人はいる。逆に、もっともっと裕福でも、芸術を愛する心の欠けた人もいる。環境に恵まれていても、いなくても、同じように悩み苦しみ、身を削って作品をつくる。

 環境と芸術は関係ない。関係ないと言い切りたい。言い切りたいけど、悲しいかな、言い切れないような世の中ではある。

 けれどそれは、世の中の問題であって、芸術を目指す者たち個人の問題ではない。誰だって、どんな人だって、美しいものを美しいと思う権利を持っている。

 誰だって、どんな人だって、美しいものを美しいと思うままに描く権利を持っている。

 侑人は、恵まれていたから絵を描くのではない。

 兄に言われて、気がついた。侑人も、そして兄も、どんな環境にあっても、結局は絵を描くのだろう。そういう魂の欲求を持って生まれてきた。恵まれたのは、周囲の環境以上に、そういう魂を持って生まれてきたという部分だ。

「兄が、あの絵を壊された時、どれだけの気持ちを押し殺したか」

 侑人は震える声で言った。握る拳に、更に力が入る。目の奥の奥の方が、ギュウと誰かに握られているような気持ちだった。

「確かに、俺も兄も、人間としての感性には恵まれているかもしれない。少なくとも、俺はあんたたちみたいに、簡単に人の描いた絵を潰したりしない。絵を、ただの、絵というだけで、見たりしない。そこには、ちゃんと描いた人の魂がこもってるって、理解できる」

 侑人の散々の発言に、素直に不機嫌な顔をした学部長補佐が言った。

「お兄さんの絵は、ちゃんと、壊す前に、ご本人に了承を得ています」

ご存知ありませんか?

お兄さんと、あまり仲が良くないんでしょうか?

 侑人は、スッと彼と視線を合わせた。学部長補佐は、ほんの少しだけ、侑人から距離を取るように、後ろに反った。

「絵を所有してる人間が、その絵をどうするかは、作家には関係ありません。所有者の自由です」

 侑人は言った。

「だったら、」

 文句はないだろう、と今度は学部長が身を乗り出し気味に言い掛けた。侑人は、学部長のこともしっかりと見つめる。それから、学長の目を見て言った。

「だから、俺が……今度は、もう壊されないような絵を描きます」

あなたたちが、所有者が、壊すことを惜しむくらいの、良いものを

 侑人は言い切った。言い切ってから、震える唇を噛みしめた。血が滲むほどに、噛みしめた。

 学長は最後に「楽しみにしていますよ」と笑って、侑人に絵画依頼の概要が書かれた紙を渡した。A4サイズの紙、三枚。

 描いて欲しい絵の概要が一枚、それから著作権についての同意書、作品を大学側に寄贈することへの同意書。それだけだった。

 侑人は書類を受け取ると、すぐに立ち上がって「失礼します」と言って、ほんの少しだけ頭を下げた。柏木が侑人に続いて、無言で頭を下げる。二人とも、一度も振り向かずに学生課を出た。


「……殴りかかろうかと思ったが、とどまった。殴ってしまった方がロックだったかな」

 学生課を出て、二人は自然と当初の目的地であったグラウンドの方へ歩き出した。歩きながら、柏木が前を向いたまま言った。

「やめろやめろ、停学になるぞ」

 侑人は笑って言った。強ばっていた顔が、ようやく緩んだ。

「俺は、泣きそうになったけど、とどまった。泣いた方が、ロックだったか?」

 侑人が言うと、柏木は「いや、泣かなかったお前は、相当ロックだ」と言った。

 そして、侑人の背中をトントンと優しく叩いてくれた。それがマズかった。せき止めていた涙が、一気に、ブワッと勢いよく溢れて、視界が歪んだ。ボロボロと頬を伝っていく涙だ。大学の中だし、すれ違う人にはギョッとされるだろう。なにより、柏木に、友達に泣き顔を見られるのが恥ずかしい。恥ずかしいけれど、それ以上に、もうとんでもなく、悔しくて、泣けた。

 柏木は、何も言わずに、けれど、背中をずっとさすってくれていた。二人は、歩くのをやめずに、そのまま進んだ。立ち止まらずに。

 侑人は、涙で苦しくなりながら、震える声で言った。

「あいつら、全員黙らせてやる。良いもの、描いて、黙らせてやる。絵の前を通ったヤツが、全員ハッとして、振り向いて、思わず見るような、そういう、すごいの、描いて、見返してやる」

 思わず、視線を奪うような、決して壊すことを許さない、そういう圧倒的な魅力を持つ絵を。あの日の、帰り道に見た、夕日みたいに。見る人の心を動かすものを。

 なるべく、誰の心にも、届くような、そういう熱くて、優しくて、切なくて、少し悲しくて、けれど希望のあるような絵を。

 本当に美しいものは、ただそこにあるだけで、美しい。

(そういう絵が、描けたら……)

 もう、それだけで。

(俺の、勝ちだと思える……)

 何に対しての、勝敗なのかはわからない。世の中の、何もかも全てに対するようでも、自分に対するようでもある。

「侑人、俺は、相変わらず絵というものについては、詳しくはわからないがね。涙が出るほど、胸が熱くなる、そういう好きなことがあるというのは、最強に素晴らしいことだと思うよ」

 柏木が言った。侑人は鼻水をスンスンと啜りながら、手の甲で涙を拭った。そして、赤い目で、とんでもなくダサい顔で、柏木を見た。

「お前だって、そうなんじゃないのかよ」

 侑人は言った。柏木が、パチパチと瞬きをする。長い睫が揺れていた。

「お前だって、本当は、泣くほど悔しい思い、したんじゃないのか。音楽、もう吹っ切れて、諦めてますみたいな……そういう顔してるけど、たまに思う。なんか、もうちょっと、お前は、熱く生きられるんじゃないかって」

音楽に関わっていられれば、それでいいなんて、本当にそう思っているのか?

「軽音部に混ぜて貰うようになってからの方が、生き生きして見えるよ」

 侑人は言った。ずっと言いたかったことでもあった。柏木はしばらく黙った後で「参ったなぁ……」と言った。

「軽音楽部とスタジオ行くの、楽しいんだろ?」

 侑人が確信を持って言うと、柏木は、はにかむように笑って、

「めちゃくちゃ楽しくて困っているところだ」

 と言った。

「柏木も、そういう気持ち、大事にした方がいい……いろいろ、あるのは知ってるけど、でも、なんか……やっぱり好き、っていう気持ちは、誰にも邪魔されちゃいけないって思う」

 侑人は言った。柏木は「少し前まで進路に悩んでウジウジしていた男の台詞とはとても思えない!」と言った。

 侑人は頬のあたりが熱くなった。全くその通りである。

「侑人、君は決めてしまえば男前に突き進めるタイプなんだな。友の新たな一面を知った。ロックだな」

「柏木は、サッパリしているように見えて、諦めるのが上手いだけだな。納得しているような顔が得意なんだ。冷静っぽく見えて表向きの格好はつくけど、そのうち大損する気がする。ロックじゃないな」

 侑人が言うと、柏木が苦い顔で「ゴモットモ」と言った。

「俺が描いた絵で、柏木のことも、もっとやる気にさせたいな」

 侑人は思ったまま、呟いた。

「見ただけで、なんか、こう……熱くなるような、気合いが入るような……何かに、立ち向かっていく気持ちになるような……そういう……」

 誰かの、背中を押せるような。侑人は、柏木をぼんやりとした目で見つめながら。

「お前みたいなヤツのために、描きたいな」

それから、俺みたいなヤツのために

兄貴みたいな、ヤツのために

何かを、頑張っている人たちのために


 侑人の独り言のような言葉に、柏木は目を細めて、

「お前は、良いヤツだなぁ……」

 染み入るような声で、言った。


 *

 侑人は大学から帰るとすぐに、母に講堂の絵の件を話した。

「描くことにしたの?」

 母は侑人の顔を真っ直ぐに見て、言った。

「描くことにした。自信はないけど」

 侑人が答えると、母は頷いた。

「そうなると、侑ちゃんにも、昌ちゃんと同じようにアトリエが必要かしらね。お父さんに相談してみようね」

 母が力強く言うので、侑人は慌てて「いらない、いらない」と言った。

「画材にかかる費用はちょっと、あの、援助して欲しいけど、でも、出来るだけ自分でどうにか……」

 侑人は言いながら、画材の費用について、ちっとも考えていなかった自分にゾッとした。こういうところがあるから、自分は「恵まれているから良いね」と言われてしまうのだと痛感する。バイトもしたことがない侑人は、今のままでは、画材にかかる費用など、自分で捻出しようがない。

「描き始めるまで、まだ時間あるから、それまでバイトして、どうにか資金を、貯めるので……」

 侑人は、苦し紛れのように言った。描き始めは来年の四月だ。大学四年生になってから、他の生徒たちが卒業研究のための準備に取りかかるタイミングでのスタートとする予定である。それまではまだ、卒業のために必要な授業、単位がある。学業優先だ。

(冬休みと春休みにバイトをして……それで、どうにか……)

 侑人がクルクルと頭を回していると、

「侑人、ちょっと座りなさい」

 という母の声がした。母が「侑人」と呼ぶのは、真面目な話があるときか、本気で怒っている時だけだ。促されて、リビングのダイニングテーブルに対面で座る。母は侑人の顔を見て言った。

「侑人……あの、実はね……本当は……その……」

 母は、最初こそ凄んだ様子で侑人に語りかけた。が、次第に語尾が怪しくなる。侑人が怪訝な顔をすると、母は小さな小さな声で続ける。

「……お父さんとおじいちゃん、侑人が画家の道に進むのを、その……なんというか、ちょっと、こう、」

 母は絶妙な顔で笑った。あまりにも不自然な作り笑顔が輝いている。母は言った。

「……侑人には……画家の、道じゃなくてね……その、画廊を継ぐ道を、選んで欲しかったんだって……」

 一瞬だけ、世界中が沈黙した気がした。侑人はその間、目眩を覚える。

「……え、今更?」

 本当に、素直にそれしか感想が出てこない。自分が散々、進路に迷っていた最中には、ちっともそんなこと話に出さなかったくせに。侑人の好きな道に進みなさい、みたいなことを言っていたくせに。いざ画家になると決めた途端、これか。

「え、なんで、今まで黙ってたの……俺、結構、本気で将来が見えなくて悩んでたし、ちょっとでも画廊を継いで欲しいとか、そういう親の要望みたいなの、教えてくれてたらさ、」

「継いで欲しいって言ったら、そうしちゃうでしょう、侑ちゃんは」

 まるで少女のような声で、母が言った。

「それに、母さんは反対だったの、侑ちゃんに画廊を継がせるのは。もちろん、もし侑ちゃんが自分で「画廊が継ぎたい」って言い出したなら、お母さんだって応援するけど……」

でも、上のお兄ちゃんには好きなようにさせたのに、下の弟には画廊を継げって強要するのは、不平等だし、おかしい話じゃない

 母は、言い訳をするような、それとも拗ねているような、そんな口調で話した。

「いや待って、ちょっと整理させて……」

 侑人は母に言葉を一度止めてもらって、頭を抱えた。確かに、自分か兄のどちらかが継がなければ、銀座にある、それも一等地にある、あの画廊は。

(父さんの代で、閉めないといけなくなるかもしれない……)

 継ぎたいという人が現れれば、どうにかなるのかもしれないけれど。

(このご時世に、画廊、やりたい人とか、いるのか……? でも、あの画廊がなくなったら……)

 実際に困るのは、侑人や兄の昌秀のような、画家の卵たちだ。

「え、本当に、じいちゃんも、父さんも、俺に継いで欲しいって言ってるの?」

「侑ちゃんに、じゃなくて……兄弟のどちらかにって思ってたらしいのよ、昔から。でもほら、お兄ちゃん、早くから画家一本に絞っちゃってたし……言い出せないままって感じで……お父さんもおじいちゃんも気が弱いから……子供が望む道に進ませてやりたいっていう親心も、もちろんあるし……」

それに、毎日、呼吸するみたいに絵を描いてる侑ちゃん見てたら……ああ、きっとこの子も画家の道に進むんだろうなぁって、予測もついてたから……ますます言い辛いじゃない?

 母は、お父さんの気持ちもわかってあげてね、と言いながら曖昧に笑った。侑人は、父や祖父の気持ちも痛いほどにわかる。ただただ、知りたくなかった気持ちで一杯だ。

「なんで今言ったの……」

「今が最後のチャンスかなぁって、念のために言っておこうかと……」

「えー……なんの念なの……なにそれ……呪いにしかならないんだけど……」

 せっかく将来を決めたつもりになって、そして大学の講堂の絵も引き受けたのに。

(大学のなんか、偉い人たちに生意気なことも言い放ったし……)

 今更、自分の志を変えようとは思わないけれど、ものすごい気がかりが残ってしまった。

(将来、俺があの時、画廊継がなかったせいで……とか、親不孝だった……とか、後悔したりするんだろうか……)

 侑人は、深く深く、ため息をついた。

「でもほら、講堂の絵を引き受けたっていうことは、これで侑ちゃんも正式な画家の一歩を踏み出すってことになるし。おじいちゃんも、お父さんもね、諦めがつくでしょう、きっと! お父さんには、母さんからキチンと話しておくから。あの人も、息子が未来に向けて一歩踏み出すのを邪魔するような人じゃないから、ね?」

 母は言った。侑人は首を振って、母を見た。

「いい、ちゃんと、俺が自分で話す。父さんにも、じいちゃんにも」

 仕事で毎日遅くに帰ってくる父。家に帰ったらすぐ部屋に籠もって絵を描いてしまうような自分。

 仲が悪いわけでもないのに、向き合うタイミングが少なすぎたのかもしれない。

(これも、良い機会……)

 侑人は思った。侑人は幼い頃から、祖父や父のいる画廊によく遊びに行っていた。

 幼心にも、彼らが真剣に、真摯に、あの場所を大切にしていることは、わかった。そして、兄も自分も、あの画廊がとても好きだ。

 絵の具や油、紙の匂いのする、静かで、落ち着いている、あの場所。若い画家たちのために、これから羽ばたく画家たちのために。

 そして、描かれた、絵画のために、ある場所。

 侑人の父も母も、一人っ子である。

(俺が継がなければ、やっぱり父さんの代であの画廊は潰れることになる……)

 申し訳ない思い、そして、そんな気持ちに打ち勝ってまで画家の道を進めるのかという、不安。

(ただ、絵を描くのが好きだっていうだけの、俺が……)

 どこまでやれるのか、どこまで続けられるのか、わからない。怯える気持ちを抱きながら、それでも、前を見ようと決めた。臆病さも、自分らしさのひとつとして握ったまま。

 そのままの自分で、行ける場所まで、歩いてみたいと思ったのだ。

 自分が、美しいと思う場所まで。


 *

「大講堂の絵を描く依頼、僕に譲って」

 絵の依頼を受けた翌日は土曜日だった。大学も休みで、侑人は家で過ごしていた。昼を過ぎた辺り、突然家のチャイムが鳴って。玄関扉の向こう側にいたのは、兄、昌秀だった。

 侑人は驚かなかった。来るかな、と思っていた。昌秀は実家の玄関で、靴も脱がずに、「絵を描く依頼を譲って」と言った。

「……とりあえず、あがれば?」

 侑人は言った。けれど、兄は侑人の目を見て、動きもしない。

「なんで僕じゃないんだ」

 兄は言った。その声には怒気が含まれている。

 侑人は、昨日、兄に宛ててメールを送っていた。電話で話そうか悩んだけれど、会話が出来てしまうと、こういう展開になるのではないかと危惧したのだ。

(自分の将来を決めた途端に……)

 あっちからも、こっちからも、ゴチャゴチャと。

(ままならないなぁ……)

 侑人は思わず苦笑してしまう。兄はそんな侑人を見て、ムッとしたようだった。

「まだ小さいキャンバスとスケッチブックにしか描いたことない侑人に、大講堂の絵なんて描けるとは思えない。悪いけど、これは嫉妬だけじゃない。事実として、言う。侑人には無理だ。僕に譲ってくれ」

 燃えるような瞳で口を動かす兄を見て、侑人はニヤッと笑った。それは、もちろん優越の笑みではない。悪戯を提案する時の、子供の顔だ。

「奇遇だね。俺も自分でそう思う。それで、兄貴に提案したいことがあるんだ」

 侑人は言った。

「あがったら? 俺の部屋で話そうよ」

 弟が反論してくることを想定していたのだろうか。昌秀は、ポカっと口を小さく開けたまま固まった。なんともへんてこな顔をしていて、侑人は兄の間抜けた顔を久しぶりに見たなと思った。

 侑人の部屋。昌秀は侑人のベッドの上に、侑人は勉強机の椅子に座って対面した。

「……で、提案って、なに?」

 昌秀は言った。侑人は、ジラしても仕方がないと思って、昨日大学から貰った概要書を兄に渡した。

「前に兄貴が描いたヤツより大きい、今度の方が」

 侑人は言った。昌秀は、食い入るように書面を見つめて読み込んでいる。

「いや、でも、縦横比としては、前回の正方形よりバランスが取りやすいな……前は余白部分をどう構成しようか随分と悩んだ……」

 兄はブツブツと言いながら、三枚の紙をペラペラと動かして集中している。侑人は、これ以上兄に集中されると、話を聞いて貰えなくなりそうだったので、切り出した。

「この絵、俺は兄貴と二人で描きたいって思ってるんだけど、どうかな」

 昌秀がピタッと動きを止めた。呼吸も止めたかもしれない。急に置物のようになってしまって、動かない。

「もちろん、依頼されたのは俺だから、俺が主導権を持たせて貰うけど。でも、兄貴の言うとおり、俺は大きい絵を完成させられる自信なんてない。それに、正直な話、まだ人に絵を見られるのにも、抵抗がある」

「まだそんなこと言ってるのか」

 兄は急に生気を取り戻して、責める声を出した。

「仕方ないじゃん。ずっと、見せないつもりで生きてきた」

「申し訳ないが、僕にはその気持ちだけは、永遠に理解できない」

「批判されるのが怖いって、そんなに理解できない気持ちなの?」

 侑人は、真剣に尋ねた。昌秀は、一瞬言葉に詰まった。そして、小さくため息をついて、改めて侑人に向き合った。

「それで……? 自分が描いた絵を見られて、批判されるのが怖いから、僕にも協力しろって言うの?」

 侑人は頷く。

「兄貴は講堂の絵が描きたい。でも頼まれたのは俺。俺も、前に進みたいし、今回の依頼を、画家としてやっていく足掛かりにしたい。でも、俺が描いた絵が新しい大講堂に飾られて、それで多くの人の目に触れるのかと思うと、それはあんまりにもハードル高すぎ」

引きこもりに、突然、世界一周旅行しろって言ってるみたいなもんだよ、それ

 侑人が言うと、昌秀は少し笑った。

「どういう例えだよ、それ」

「俺的には、そのくらいの気持ちだってこと」

 侑人が言うと、昌秀は考えるような顔をした。

「兄貴にとっても、悪い話じゃないと思うんだけど……」

 腕を組んで、天井を見ている兄に、侑人は恐る恐る言った。兄は「ちょっと黙ってて」と静かな声を出す。侑人は黙った。

 変な緊張が、部屋を漂っている。どのくらい沈黙が続いただろうか。侑人には、果てしなく長い時間に感じられたけれど、それはほんの数分のことだったのかもしれない。

 昌秀は、独り言のように、天井を向いたまま言った。

「僕の専門は水彩、油は侑人の方が得意……侑人は構図を作るのが上手い、悔しいけど、僕より配置やデザインのセンスは良いんだろうね……」

 急に誉められて、侑人は唇をキュッとさせた。昌秀は天井から視線をはずして、侑人を見た。

「でも、色彩のセンスと、画力、技術は、圧倒的に僕の方が高い。経験の差もあるから、そこは覆らない」

 ハッキリした物言いには、兄のプライドが感じられた。侑人は、猛然と悔しかったが、黙っていた。

「侑人、一緒に絵を描くっていうのは、お前が思っているよりもずっと、大変なことだ。それでもやる覚悟があるの?」

 昌秀は言った。

「あるよ。というか、俺にはそれしか道がない」

 侑人は即答した。

「俺はひとりでは絶対に描けない。でも、兄貴に丸ごと譲る気もない」

 学長たちに大見栄を切った手前、やっぱり兄貴に描いてもらいました、なんて絶対に言いたくなかった。昌秀は、侑人の目を睨み据えて、黙った。そして、ゆっくりと口元に笑みを浮かべて、言った。

「わかった。じゃぁ、ここで。今回の絵の制作で」

一生分の兄弟喧嘩をするつもりでやろう


 兄の言葉に、侑人は息をのんだ。妥協なく、本気でぶつからなければ、良いものは描けない。侑人にだって、それはわかっている。

(そうだ……つまりは、兄貴と、)

 思い切り喧嘩が出来なくては、思い切りぶつかり合うつもりでやらなくては、二人で描くことなど、出来ないのだ。侑人は、再びの覚悟を握りしめる。

「クレジットはどうするつもりなんだ?」

 兄が言った。描いた絵に入れる、画家本人の名前のことだ。

「名字で良いでしょ。兄弟なんだから」

 侑人が言うと、兄が笑いを堪えるような顔をした。

「……大講堂って、位置、変わらないんだろう? じゃぁ校舎の東側にあるじゃないか……東側に飾る絵に「西」ってクレジット入れるのか?」

 侑人は「あー」と思った。今、気がついた。

「急にこんな馬鹿でかい絵を描けって依頼してくるんだから、しかも自費で。そのくらいの意地悪しても、許される気がするけど?」

 侑人も兄と同じ顔をして、笑いを堪えた。

「わかった。クレジットについては、それで良い。でも、侑人が主導者ってのは納得してない。僕のが年上なんだから、僕に主導権を渡してくれたら、了承しよう」

 昌秀は言った。

「大人げないぞ」

「大人げなくて結構だ。ここは譲れない」

 兄は、ガンとして聞かない。そして、侑人にはそこまでの情熱と執着は、まだ芽生えていなかった。

「わかったよ、じゃぁ、兄貴が主導で。でも大学側には主に俺が描いたってことにして欲しい。これ、卒論の代わりになるらしいから」

 昌秀は、かなり渋々という様子であったが「わかった」と言った。

「僕のアトリエで描こう。描き始めは来年の四月? 構想とか、描きたいテーマとかは決まってるのか? このサイズのキャンバス、部屋に入るかな……業者に頼んで、部屋の中で木枠から組んで貰うとして……壁側の家具を全部どかして、サイズ間に合うか、調べてくる……それに絵の具も、特殊な色を使うのなら、早めに確保しないと、」

「待っ、ちょっと、待ってよ、気が早い!」

 ツラツラと流れるように発言する兄を、侑人は両手で制した。昌秀は、すっかりやる気になっていて、体中から何か生命力のようなものが、溢れ出ているように見えた。目が、キラキラしている。

「だって、はやく描きたくて、そわそわするだろ、こういう大物は!」

 昌秀は言った。兄のそういう気配にあてられたのだろうか。侑人も、なにか、意味もなく楽しい気持ちが。胸の中に、体の中に広がっていくようだった。

 ムズムズする、ワクワクする。伝染する、沸き上がる、意欲と緊張感。凛と寒く、よく晴れた、クリスマスの朝みたいな、そういう気持ち。

 侑人は兄の目を見て、はっきりと言った。

「今は、なんの構想もないけど。でも、でもさ、兄貴」

今度は絶対に、誰にも壊されない絵を、圧倒的な絵を、描こうよ

 侑人のその言葉に、兄の目には更なる炎が宿ったように見えた。

 その日、兄は実家に泊まっていくことになった。父の帰りを待って、侑人と昌秀は、父母に、改めて絵の制作に関する援助をお願いした。寄贈するだけなので、ギャランティーは発生しない。おまけに、画材含めて制作費用も全額自費。大きな絵なので、構想や下書きも含め、制作にはかなりの期間と費用を要する。

 それも、兄弟二人で描くのだ。意見が常に完全一致するとは思えない。互いに納得のいく結論を出しながらの制作となると、ひとりで描くよりよっぽど時間がかかりそうだ。

 その間、昌秀は自分への絵の依頼の一切を断ることになる。元々、そこまで多くない収入だったが、講堂の絵を描いている間は完全に収入ゼロになるのだ。

 侑人に関しても、言うまでもなく収入ゼロ。両親に資金援助をして貰う他にない。父も母も、しっかりと二人の言い分を聞いてくれた。父は少し涙ぐんで、

「私も、若い頃、本当は画家になりたかった……才能がなくて、すぐに諦めてしまったけど。その諦めた道の先に、お前たちがいるんだなぁと思うと、なんだかなぁ……たまらなくなるなぁ」

 と言った。昌秀も侑人も、父が画家になりたかったなんて初耳だった。過去の様々な選択肢、その先にあるのが、今、このときなのだ。誰にとっても。


 夜、昌秀は侑人に「侑人の部屋で寝ても良い?」と尋ねた。侑人も、今日ばかりは文句を言わずに「いいよ」と答えた。

 早々に部屋の電気を落として、侑人はベッドに、昌秀は布団に入った。

 冬の足音が静かにゆっくりと近付いてきているように感じる、涼しい夜だった。

「侑人が前に言ったように、ウチは恵まれてるんだなぁ」

 ほんのりと青みのある暗い部屋の中で、昌秀が呟いた。

「普通の家じゃ、こうはいかないよ……芸術の道、目指したくても、目指せない人もいるし……美大生みたいに、自分で道を切り開かないといけない人もいる」

 昌秀も侑人も、美術大学に進学したわけではない。けれど、日本画家の祖母と、画廊主の祖父、父を持っていれば、それだけでアチラ側へのパスポートを手に入れることが出来る。芸術の大成には、運と実力が必要とよく言われる。

「僕たちは、運の方は、最初から持ってた感じになっちゃうもんねぇ……あとは実力だけ」

「それもそれでプレッシャーで死にそうになるけどね」

 侑人が言うと、昌秀はポツンと、虚空に投げかけるみたいに、

「侑人、お前は、死ぬことを考えたこと、ある?」

 と言った。侑人は少し間を置いてから、

「……それは、モチーフとしてってこと?」

 と尋ねた。

「ううん。自殺の方」

 兄は言った。まっさらな、純粋な声色に聞こえた。

「……ないな」

 侑人が答えると、昌秀は「僕はいっぱいあるよ」と言った。その言葉について、侑人はなんと答えて良いかわからない。

「侑人、もし、この先、画家として生きていく中でさ、本当に本気でじゃなくてもいい。本気じゃなくても、死にたいなぁって思うことがあったら、僕に言いなさい」

 兄の声には、年長者の経験が滲んでいる。

「僕は、誰にも相談できなかった。誰にも。本気で死にたいって思ったら、友達にも相談できたかもしれない、真剣だったら。でも、真剣とまではいかないんだけど、なんだか限りなく、死に近寄ってしまっている瞬間みたいなのが、たぶん、あって。でもそういう、曖昧な、本気か本気じゃないか、自分でもわからないような死にたいっていう気持ちは、友達にも、ましてや親にも、相談できないものだろう? 本気でもないのに、心配かけるのも違うし。でも、誰かに聞いて欲しいくらいには、手の届くところに、死ぬことへの、憧れが沸いてきたりするんだ」

僕は誰にも言えなかったけれど、侑人には、僕がいるから、何かあったら、なんでもいい、なんでも、それは、話して欲しい

 昌秀は、布団の中から、侑人の方を見ているようだった。侑人は、兄の方は見ないようにした。あまりにも切実な言葉だった。今までの、兄の人生の孤独が、切なかった。前を歩く人がいる心強さよ。

「じゃあ、次の質問ね。侑人、お前、恋したことある?」

 昌秀は、少し声色を明るくして言った。話題の飛躍に、侑人は笑った。

「なんだよ、変な絡み方してくるなよな……」

「いいだろう? こういう話、あんまりしてこなかった」

 昌秀も笑った。侑人は、心の中、当たり前のように彩輝の顔が浮かぶ。

「……恋、未満? っていうか……完全な、妄想片思いっていうか……そういうのしか、したことない……」

 侑人が言うと、

「柏木姉か」

 と、昌秀が言った。大正解過ぎる回答に、ブッと侑人は吹き出した。本当に、むせてしまって、ベッドの上でゴホゴホと咳込む。鼻の奥がツンと痛んだ。

「わかりやすいなぁ~」

 兄がクックックと喉の奥で笑っている。

「なんで知ってんだよ」

「スケッチブックになぁ、あんだけ大量に……」

「なんであれが彩輝さんだってわかるんだよ、別に、普通だろ、裸婦スケッチなんて、みんな、やるし、」

 侑人は、ムキに、そして早口になった。

「えー、だってめちゃくちゃ大輝に似てるし。あそこ、兄弟三人とも似てるのかな。侑人の友達……名前なんだっけ?」

「……悠輝」

「悠輝くんかぁ。彼も似てるの?」

「……まぁ、似てる……って言わせんなよ! 俺が友達を女体化して描いた変態みたいになるだろ……!」

「友達の姉の裸体描いてるんだから、十分変態だろ」

 昌秀は容赦なく言った。侑人はもう、何も言い返せずに顔が熱い。

「お前は昔から、怒ると言葉が出なくなるねぇ」

 昌秀は優しい声を出して笑った。それは、小さい小さい、子供に対する声だ。

「ねぇ、侑人。僕ね、昔……って言っても本当に、お前が産まれたばっかりの頃だけどさ。ずっとね、自分のこと「オレ」って言ってたんだよ。「僕」じゃなくてさ」

 兄は時を巻き戻すみたいに、横たわる侑人の体の中に、遠い過去を見つけようとしているようだった。面影を、探すような空気が、部屋の中をゆっくりと動く。

「侑人が産まれるって知った時、九歳くらいだから……小学校の三年生とか? そのくらいだったんだけどさ。幼心にねぇ、これから産まれてくる弟は、きっと僕の言葉を一番に真似するんだろうなって思ってて、そしたら、弟には「オレ」じゃなくて「僕」って言って欲しいなぁって思って。その時から、自分のこと「僕」って呼ぶようになった。はじめ、母さんがビックリしてね、どうしたのアナタって。「僕」って言うたびに、笑われたけどさ」

そのうち、本当に慣れてしまって、僕は「オレ」じゃなくて「僕」に成りきってしまったね

「弟のお前は、そんなこと微塵も知らずに、いつの間にか勝手に「俺」になっちゃったし。せっかく口の良い子に育てようと思ったのに」

 昌秀は言った。侑人は、ベッドの中、自分で自分の足を擦り合わせながら、

「……俺、別に口悪くないし……それに、小学校にあがるくらいまでは、俺も「僕」って言ってた気がするし」

 と答えた。記憶をたぐり寄せる。小学校にあがった直後に仲良くなった子が「俺」と言っているのを聞いて、格好良いなと思って真似したのを覚えていた。

「家族の間でもさぁ、こうやって、小さいことも、大きいことも、思うとおりにはいかないもんだよね。当たり前だよね、違う人間だしね」

 昌秀は、少し寂しそうな声で言った。けれど、その声には、清々しい雰囲気もあった。

 侑人は、父や祖父が、兄弟のどちらかに画廊を継いで欲しいと思っていたことを、再び考えた。兄にそのことを話そうかとも思った。兄は、そのことを知っているのだろうか、とも思った。でも、辞めておいた。どちらにしても、自分も、兄も。もう、違う道を目指すことを決めたのだ。

「……俺さ、兄貴のこと、怖かったよ。画家になるって、なんとなく決めてから……兄貴が、別人みたいに見えることがあったし……」

 侑人は言った。このまま、仲の悪い兄弟になってしまうのではないか、という危惧も、なかったわけではない。

「え、今更? 結構怖いって有名だよ、僕」

 昌秀は笑った。

「兄貴のこと、怖いとか言う人いるの?」

 家族の前でも、もちろん外でも。誰に聞いても、昌秀は温厚で優しいと言われている。お父さんに似たのね、とも。

「よく怖いって言われるよ、彼女に」

 昌秀はサラリと言った。侑人は「え」と大声を出した。澄んだ声が、思いの他、高音でキンと部屋に響いた。

「うるさ」

 兄は迷惑そうな声を出したが、侑人はそれどころではない。

「え、待って、兄ちゃん、彼女、いんの?」

「あ、今、兄ちゃんって言った」

 昌秀は布団から体を起こして、嬉しそうに侑人を指さした。

「うっさい!」

 侑人もガバッとベッドの上で起きあがる。呼び方なんて、そんなことは今、どうだって良いのだ。

「嘘でしょ、全然知らなかった……兄貴は絶対、永遠に彼女とか作らないタイプの人間だって思ってた」

「酷いなぁ。そんなに興味なさそうに見える?」

「見える」

 昌秀は暗い部屋の中で、ケラケラ笑った。

「こう見えて、お前のお兄ちゃんは結構モテるんですよ」

 それについては、侑人は納得するし、反論はない。兄は侑人の中では、柔らかく整った顔立ちの、良い男なのだ。身内の贔屓目もあるだろうけれど、それを抜いても、モテるだろうなと思っていた。

「……兄貴の彼女、絵、描く人?」

 侑人は尋ねた。拗ねた心が小さくグツグツ鳴っている。何に対する拗ねなのか、自分でも理解不能だった。

「ンなわけないじゃん。絵を描くヤツは全員、敵だもん」

 昌秀は悪びれもせずに言った。

「え、心狭っ」

 侑人が言うと、兄は侑人を見て、

「そのうち侑人にもわかるよ」

 と、諭すように言った。わかりたくない、と侑人は心から願う。敵が多い人生を、生き抜ける気がしない。

「……兄貴は、俺のことも敵だと思うの?」

 侑人は小さな声で尋ねた。

「んー……」

 兄は、笑いながら唸った後、

「家族だからねぇ、敵だとまでは、思わないかなぁ……」

 と曖昧なことを言った。

「でも、前にも言ったけど、怖いよ、オレは。お前のことが」

「あ、今「オレ」って言った」

 今度は侑人が兄を指さした。昌秀は眉をハの字にして笑った。

「やっぱダメだな、なんか自分の中で違和感がすごい。すっかり「僕」で定着しちゃってる。慣れないことはするもんじゃないね」

 昌秀はそう言うと、パタッと布団の上に再び寝ころんだ。掛け布団をたぐり寄せて、眠る姿勢に入っている。侑人は、モゾモゾ動く兄を、ベッドの上から見守りながら、

「俺のこと……怖いって思ってくれるんだ……」

 と、呟いた。兄は「悔しいけどね」と、侑人と同じように呟く声で言った。

 侑人も、再びベッドの中に潜り込む。

「侑人、絵、勝手に見て、ごめんな」

 兄の声が、柔らかく響いた。

「いいよ、もう。それに、俺、兄貴が意外と臆病なこと、知ってたわ、そういえば」

 臆病で、失敗が怖くて、傷付くのが怖くて、諍いが嫌いな人だった。兄は、そういう人だった。侑人と昌秀は、よく似ているのだ。

「そうだねぇ、昔から、僕も侑人も、臆病で……ああ、父さんもそうかな……結構強いのが母さんだね」

 兄が言った。侑人は笑った。

「ほんとそれ。俺、未だに母さんに口出せないもん。なんか言葉が強いんだよなぁ、声の時点でも負けてる。……あと、ばあちゃんも強いよね」

「女性は強いねぇ」

 兄がしみじみと言った。

「僕の彼女も強い系だから……そういう人とバランスが良いのかもなぁ。侑人もたぶん、そういう系の人を好きになるよ」

「あ、確かに」

 侑人は納得した。彩輝も随分と強そうなタイプだ。社会人としてバリバリ世の中と戦っていけるだけの強さがある。

「なに、柏木姉、そういう感じ?」

「うん、そんなだった」

「あそこの家は、全員そういう感じなのかなぁ、大輝も強いんだよなぁ」

「柏木兄?」

「そう。侑人の友達、末っ子だろ? 大変そうだなぁ」

 兄の言葉に、侑人は「すげー良いヤツだよ」と答えた。

 昌秀は「わかるよ」とだけ言って、黙った。それきり、兄弟の会話は自然と途切れた。

 侑人は、こういう曖昧に良い雰囲気の夜のことも、絵に描いて留めておきたいと願う。

 良い空気や、良い時間。風景や人物だけでなく。カタチのない、流れていくようなモノも。どうにかこの世に留めて置きたい。

 侑人は、兄のように、後世まで自分の絵を残したいとは思わないけれど。

 けれど、良いと感じたことの全てを、目に見えるカタチに表したいと願って止まないのだった。


 *

 大学四年の春から、侑人は滅多に大学に行かなくなった。もちろん、卒業単位は足りているし、大学側にも了承を得ている。

 そして、大学の代わりに、毎日のようにアトリエである兄の家に通っている。

 構想から話し合って、話せば話すほどに喧嘩になった。兄の宣言した通り、これは絵の完成までに一生分の兄弟喧嘩をすることになるなと、侑人は実感している。

 そして、絵を描くことに対して、こんなにも自分が熱くなれるのだということも、改めて実感している。

『久しぶりだなぁ、侑人。調子はどうだね。順調かい?』

 時折、柏木から電話がかかってきたりもする。侑人にとっては、いろいろな事情を知っている上に、愚痴もこぼせる数少ない相手である。

「毎日、順調に大喧嘩してるよ」

 侑人は苦笑した。作業部屋の方から兄の声が響いてきた。

「侑人! 金の絵の具、もっと買い足せって言っただろ! これじゃ試し描きするのにも全然足りない!!」

 などと叫んでいる。

「うっさいな! 今、電話してる!」

文句あるなら、たまには自分も買いに行けよ!

 侑人も負けずに叫んだ。電話の向こうで柏木がゲラゲラ笑っている。

『仲良くやってるようで安心したよ』

「たまには息抜きしたい、遊んでくれ」

 侑人は言った。柏木は「いいとも」と請け負いながら、

『今日は俺からも、ひとつ報告があって電話したんだ』

 と言った。

「なに、どうした?」

 侑人が尋ねると、柏木は心底楽しそうな、嬉しそうな声で言った。

『今年の夏、俺は兄が憧れている有名バンドのツアーに、ローディーとしてついて行くことになった!』

「おお……! マジか、なんていうバンド……?」

 柏木が同行することになったバンドは、侑人でも、侑人の兄でも、なんなら母や父でも知っているような、超有名バンドだった。

「え、すご……なんでまた、そんなことに……」

『就職先のライブハウスが、実は彼らのバンドの原点らしくてなぁ。店長とボーカルが旧知の仲らしい。年代も同じようなものだから、合点が行くよ。それで、大きいツアーになるから、ローディーの数が足りないって店長に相談があったらしくてな。俺が同行することになった! しかも、ボーカル専属のローディーだ!』

兄が羨ましがってなぁ、サインを貰ってくるように頼まれたりして、なんだかちょっと、してやったりというか、見返せたというか……

『俺もまだまだ、思考が幼くて、ロックじゃないなぁと思うけど、なんかな、ちょっとスッキリした』

 柏木は言った。侑人はその声からも、柏木の心の中の風を感じられる気がした。

「柏木の兄貴も、ちょっと、心が軽くなったんじゃないか?」

 侑人は言った。柏木は「そうかもしれんなぁ」と笑った。

『結局、前を歩いてる兄たちも、その後ろを歩くしかない俺たちも、そこそこ苦労するという話だし、お互い様だなぁと、思えるようになってきたよ……』

 柏木は言った。

『俺が抜擢されたのも、店長の推薦があっただけじゃなくて、兄貴がロクロックのボーカルだってのがあったからだと思うしなぁ。兄貴様々だ』

「そう言われると、俺もそうだな。兄貴が講堂の絵、描いてなかったら、俺に次の講堂の絵を、なんて……誰も頼まなかっただろうしなぁ」

 兄たちの蒔いた種が、今の自分たちが歩く道の、その端々で咲いていたりする。そういう、恩恵みたいなものを、確かに感じ取れるようになってきていた。

 絵の完成を楽しみにしているよ、と柏木は言った。侑人は、完成までかなりかかるから、その前に遊んでくれと再度懇願して、柏木に笑われた。

 電話を切った後、沸々としたやる気が、全身に満ちてくるのを感じる。

(友達の威力っていうのも、本当に凄いもんだな……)

 侑人は、柏木という人間に出会えたことも、有り難く思った。あの日、あの時、あの場所で。あそこで出会わなかったら、きっと声を掛け合うことなんて、なかっただろう。

(兄貴の絵があったから……)

 あの絵が、二人を繋いだのだ。

「絵の力って、そういうもんかもしれないなぁ……」

 見えない力、何かを引き寄せたり、繋げたり、包んだり、満たしたり。必要な人には感じられる魔法のようなもの。


 常に、前を歩く者たち。常に、後ろを歩く者たち。けれど、両者とも、進んでいくしかない。自分の道を。それぞれの運命を抱えて。得をしたり、損をしたり。それぞれに、互いを羨み、妬み、時には優越を感じながら。

 自分自身で歩くしかないこの人生に、孤独とか、ままならない感じを覚えながら。

(絵も、音楽も……)

 そういう、誰もが持っている心の中の、小さな穴みたいなものを埋めたり、癒したりするために、存在しているのかもしれない。少なくとも、侑人は、そういう役割を果たせる絵が描きたいと今は思っている。

 後ろを歩く僕たちは、前を歩く彼らの咲かせた花を見つめながら。

 そのまた後ろを歩く誰かへ向けて、種を、蒔いて。

 いつの日か、それぞれに。

 春が訪れる日を、ただ祈り、願うのである。

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