初めての夜
その日、国を挙げての盛大な式典が行われた。常ならば資格ある者しか入ることの出来ない王城の庭園も、今日ばかりはと平民にも開放され大いに賑わい、沢山のご馳走が並んでいた。天が祝福しているかの如く空は晴れ渡り、街は色とりどりの花や飾り付けが為され、人々は新しく誕生した一組の夫婦、将来の国王と王妃の婚姻を心から祝った。
夜が更けてからも興奮はさめやらず、何発もの花火が打ち上げられ、今夜は無礼講だと身分を問わずに誰しもが夜通し騒ぎ続けた。
そんな中、夫婦となったばかりのこの国の王太子と、友好の証として輿入れをしてきた隣国の王女は、蝋燭の灯りでかろうじてお互いの顔が見えるような薄暗い部屋の寝台の上で向かい合っていた。長い式典とお披露目を終え、漸く初めてまともに言葉を交わす事ができたのだ。
「至らぬ私ではございますが、これから殿下の妻としてこの国を支えられるよう努めて参ります」
形式通りの完璧な挨拶をした王女に、王太子は苦笑する。
「私こそ、凡庸な男ではありますが、良き夫、そしていずれは良き王となると誓います。貴女のような素敵な女性に見合う男となれるよう努めていくので、どうかよろしく頼みます」
一通り言い終えると会話がなくなり沈黙が続く。何しろ隣合っているとはいえ、国が異なれば気軽に文を交わすことも出来ない。国境で王女一行を出迎えた際にはお互いに儀礼的な挨拶のみで、式典の最中もほぼ私語はなく、厳かに進められた。二人にとっては本当に初めての私的な会話なのだ。その上今夜は初夜。となれば、当然そういった事をするはずだ。
王女は閨について学んではいるが、怖くて堪らず、顔には出さないものの微かに手が震えていた。だが、いつまでも無言で向かい合っている訳にもいかず、意を決して口を開こうとした。
「あ、あの「この婚姻は二国の絆を深めるための政略的なものです」
王女の言葉を遮って王太子が話し出し、何を言われるのかと戦々恐々としてしまう。
「はい、もちろん弁えております」
男女の愛は期待するな、とかいきなり恋人の存在を紹介されるのだろうかと考えを巡らす。すると、王女の不安を感じ取ったのか王太子が慌て始めた。
「あ、いや、そうではなく⋯⋯どう言えばいいのだろう」
王太子の言わんとすることが分からず、首を傾げる。考え込むように唸っていた王太子が、言葉を選びながらぽつぽつと話し始めた。
「私たちは、幼い頃より婚約を結んでいたが、直接お会いするのも会話するのも今日が初めてです。私はずっと、妻となる人とお会いするのを楽しみにしていました」
思わぬ言葉に、え、と呆けた声を寸前で押しとどめる。
「その、貴女の肖像画は何枚も拝見していて...どんな女性なのか、何が好きなのかなど色々想像していたのです。本物の貴女は絵よりもずっと素敵で……国境で貴女を出迎えた際に、柄にもなく緊張しておりました。少し会話しただけでも貴女の賢さが分かったし、言葉選びが美しかった。⋯⋯私は、お会いしたこともない貴女が初恋で、今日もう一度恋に落ちたのです」
矢継ぎ早にされる王太子からの告白に驚きを隠せない。いずれ王妃になる者として常に優雅で余裕をもって在りなさいという母の教えを忘れてしまうほどに。
なぜなら、自分と全く同じだったからだ。王太子とは婚約を結んで以来、会ったことはおろか、文通すらしたことがない。知っているのは噂で聞いたことや、事務的な情報のみ。しかし、贈られた肖像画を見て優しげな人だとうっとりしたり、お会いしたらどんなお話をしようか、何がお好きなのだろうかと色々想像していたのだ。
舞踏会や夜会では、婚約者にエスコートされている令嬢達が羨ましくもあったが、私の婚約者の方が(多分)素敵な方だ、と一人悦に入ったりもしていた。
「あの、やはり気持ち悪かっただろうか⋯⋯」
反応のない王女に引かれてしまったかと不安になった王太子が怖々と声を掛ける。
「違います!」
思わず大きな声が出て、ハッと口を押え、声を抑えて話し出す。
「気持ち悪いだなんて、そんなことありません。とても嬉しかったのです。だって、一緒だったのですもの。私も、いただいた肖像画を眺めて、なんて素敵な方なのかと⋯⋯この方と愛し合える夫婦になりたいと、ずっと思っていたのです。私も、殿下が初恋で、初めてお会いしてまた貴方に惹かれたのです」
心から言っているのだと分かる告白に、愛しい女性と同じ気持ちだったのだと、思わず小躍りしたくなるほど高揚した。
「⋯⋯とても、とても嬉しい。貴女との挙式が人生で一番幸せな瞬間だと思っていたが、また更新されてしまった」
「ま、まあ、殿下ったら⋯⋯」
お互いに顔を赤くして照れ合う様は夫婦というよりはまるで初々しい恋人の様であった。
一息を置いて王太子は真剣な眼差しで語り出した。
「⋯⋯貴女は、今日この国で二番目に貴い女性となりました。そして、いずれはこの国で最も高貴な女性となります」
「はい。その為にこの婚約が成った頃より努めて参りました」
「ですが、その身を我が国のもので包んでいたとしても...貴女の御心まで縛ることはできません」
「で、殿下⋯⋯!私は幼き頃に既に覚悟は──」
「分かっております。貴女がこの国に嫁いでくださる為にどれだけ励んでくださったのか。⋯⋯しかし、いくら覚悟をしていたのだとしても、直ぐに故郷から我が国に心を移すことは難しいでしょう」
その通りだ。周りには誰一人として親しい人はおろか、同郷の者がいない。自分が国民たちに受け入れてもらえるかもわからない。夫となる人に会いたい気持ちはあったが、それよりも不安で不安でたまらなかった。
「少しずつで良いのです。故郷を愛しく思うのは当然。恋しく思うのも当然。故郷を捨てる必要はありません。ただ、少しずつこの国を好きになっていって欲しい。貴女の心の中でのこの国が、少しずつ大きくなっていってくれたら、これ程嬉しいことはない」
「でんか⋯⋯わた、私は⋯⋯」
ああ、だめだ、泣いてしまう。優しい人なのだろうとはこれまでの会話や身に纏う雰囲気から分かっているつもりだった。でも、こんなに私を想ってくれるだなんて思いもしなかったのだ。
「泣いていいんだ。私たちは隙を見せず、国民に不安を与えないためにも常に理性的で在らねばならない⋯⋯でも、ここにいるのは私達だけだ。夫婦は支え合うもの。この部屋の中では表情を貼り付ける必要も、感情を抑える必要もない。ましてや今日は私達夫婦の一歩目だ。これから良き夫婦となるためにも、たくさん言葉を交わさねば」
そういって王太子は優しい手つきで王女の目尻を拭った。
「殿下⋯⋯私は王妃となるためにずっとこの国のことを学んで参りました。恐らく、自国のことよりもこの国のことを学んでいた時間の方が長いでしょう。故に、他の方たちよりもこの国のことを知っていると自負しております」
うん、と王太子は頷く。
「ですが、それはあくまで知識だけです。私はまだこの国での経験もなく、実情も分かりません」
「そうだね」
「ですから、これからたくさん知っていきたいです。この国の良いところも、問題となるところも。そして、いずれこの国を心から愛したいと思っております」
「ありがとう。やはり貴女は素晴らしい女性だ」
肩の力が抜け、互いに憑き物が落ちたように心からの笑みを交わし、どちらともなく手を伸ばし抱きしめ合う。父と兄達以外で初めて男性に抱き締められたのにとても安心する。この腕の中は安全なのだと思ってしまう。
少しして、落ち着いてくると途端に恥ずかしくなり、ドキドキしてしまう。夫の胸に押し付けられる形になっているので、彼の心臓も早鐘を打っており、緊張していることが分かる。
「あ、あの、殿下⋯⋯」
「いや、分かっている、今夜は大切な日だ。貴女に恥をかかせるわけにもいかない。ただ、その、貴女に怖い思いをさせるのが嫌で⋯⋯」
こんな時でもこちらの心配をしてくれる優しい夫にときめいてしまう。
「殿下、私は、その、殿方程ではないかもしれませんが、きちんと閨のことを学んでおります。ですので、これから何をするのかも分かっているつもりです」
「う、うん⋯⋯」
「それに、お慕いする貴方になら、何をされても⋯⋯」
「そ、そんなことを言ってはだめだ!貴女に欲を抱く男の前でそんな軽はずみなことを言ってはならない!」
突然出された大きい声に驚いて、ビクッと肩が跳ねてしまった。
「で、ですが──」
「それにその、大変恥ずかしながら、私はこういった経験が全くなく⋯⋯」
何と返していいのか分からず言い淀んでいると、思いもよらぬ告白をされ、ポカンとしてしまった。とても信じられず、気を遣ってくれているのだろうかと訝しく思う。
「え⋯⋯?その、てっきり学んでいらっしゃるものとばかり⋯⋯」
「あー⋯⋯貴女という好いた女性がいたため、他の女性とどうこうというのが考えられず⋯⋯座学だけは学んでいるのだが」
開き直ったのか、やけくそ気味に語る夫に、どうしよう、とても嬉しい、と内心にやけてしまう。反応がない妻に、夫は幻滅されただろうか、と肩を落とした。
「や、やはり情けないよな」
「いいえ、そうではないのです。思ってもみないことで、う、嬉しくて。好きな方の初めてとなれるのが、とても」
「そ、そうか⋯⋯」
「はい⋯⋯」
照れくさくて暫く抱き合ったままで沈黙が続いてしまう。
覚悟を決めたのか、薄暗い部屋でも分かるほどに顔を真っ赤にした夫が言った。
「その、下手かもしれないが、できる限り貴女が苦しくないよう努力する──だから、いいだろうか?」
「──はい。その、嬉しくはあるのですが、やはり怖く思う気持ちもあり⋯⋯で、ですので、優しく、してくださいね?」
可愛らしく小首を傾げる妻に、益々煽られてしまう。
「も、もちろんだ!花を愛でるよりも優しく、宝石に触れるよりも丁寧にすると誓おう!」
「まあ、殿下ったら⋯⋯よろしくお願い致します」
目が合うのを合図に、夫は妻をそっと寝台に横たえ、覆いかぶさった。
そこから夜が明けるまで、愛を交し合う若く新しい夫婦を窓から覗く月だけが見ていた。
読んでくださりありがとうございます。
二人の名称や口調が徐々に変わっているのはお互いへの意識の変化に合わせてます。