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第6話 守の被爆体験

 2013年。大庭守は87歳になっていた。歳を重ねるごとに体力は衰えていき、球場遠征はやめていた。自宅のTVでカープ戦を見ることが中心になっていった。

1926(大正15)年生まれの彼は19歳の時まで、太平洋戦争に翻弄され続けた。終戦する直前の45年8月6日に広島市に滞在し、一発の爆弾が落とされるところを目にした。その後のことはあまりにも衝撃的で、筆舌に尽くし難い苦難だった。崩れ落ちた瓦礫に挟まれながらも、必死になって逃げ出し、一命を取り留めた。熱線を浴びなかったのは幸いだった。周囲で次々と人々の体が溶け、あるいは黒焦げになった。この世のものとは思えないおぞましい光景だった。

彼はその、原子爆弾に被爆した体験を、心に閉ざし続けてきた。もし口に出して話したら、あの日の恐怖が今にもよみがえりそうだった。その後受けてきた差別や偏見も思い出したくなかった。

広島市や地元三次市など多くの地域で、被爆者が自身の体験を語る講演活動が行われていたが、守はその活動に加わろうとは思わなかった。仕事に明け暮れ、定年後はカープ三昧の日々を送ってきた。広島の被爆者には、自身の体験を語らない人が多くいる。守もその1人だった。


12月のことである。1年ぐらい会っていなかった森川拓人から、電話があった。拓人は「お久しぶりです。私、学会があって広島に行くのですが、よかったら一緒に飲みませんか」と誘った。守は「もちろんですよ。楽しみです!」と快諾した。

21日の土曜日の夕刻、広島駅南口の噴水広場で2人は落ち合った。駅構内の居酒屋で2人はビールで乾杯した。

拓人は「今年はカープがCSに進出して、めでたいですね!」と切り出し、そして、「最近は大庭さんは球場観戦はなさらないのですか?」と尋ねた。

守は「歳も歳で、だんだん体力が無くなってしまってな。時々ズムスタに行く以外は、家でTVで観戦しているよ」と答えた。

拓人は「そうですか…。」と寂しそうにつぶやいた。

大切な友人である拓人を寂しがらせてしまったので、守はさらに加えた。

「わしの同級生にはまだ元気な者はいるけど、わしの場合は原爆で被爆しているからな…。その後遺症があるのかもしれん。」

「原爆の後遺症はよく聞きますよね。放射能の影響とか、数え切れないらしいですね。」

「ほんま困るよ。わしはあの日、広島市じゃなく三次にいたらよかったわ。」


拓人は、「それにしても被爆者の方は年々高齢化していますよね。若い世代に被爆体験が語り継がれていって、風化を防いでほしいですね」と言った。守は少し考えた後に、「金沢では、原爆はどんなように受け止められているの?」と聞いた。

拓人は、「広島と随分違いますね。大学の学生と話をしたら、「原爆」という言葉を知っているだけで、投下日が8月6日だということを知らない子が多いですね。」

守は「そうか…」とつぶやき、少し考え込んだ。


その後はカープの話に戻り、2人は楽しく談笑した。時間はあっという間に過ぎていき、お開きになった。

広島駅の在来線のホームで2人は握手をして別れた。守は帰りの芸備線の車中でじっと考え込んでいた。

拓人の言う、「被爆体験の風化を防がないといけない」「金沢での様子は広島と随分違う」という台詞が心に残った。「わしも、被爆体験の語り部を始めようかな…」と考え始めていた。

23時過ぎに三次駅に到着し、夫人・慶子の運転する車に乗り込んでからも、守は同じことを考え続けた。今この世界には多くの核兵器が存在している。保有国の首脳が決断するまでもなく、テロリストに渡ってまた「惨禍」が繰り返される危機がある。今目の前にいる慶子や麗華、晃などのかけがえのない家族が、また「あの時」のように黒焦げになり、体が溶けていったら…。そういう恐ろしい想像が頭をよぎると、やはり、「過ちを繰り返してはならない」「被爆はもう自分たちで終わりにしたい」と思った。


それから11日後。2014年の年始を迎えた。大庭家では守を中心にして親戚一同が集まった。孫の麗華は大阪の看護実習生、晃は東京の大学生になっていた。守の弟や東京在住の59歳の長男、その妻子など、大勢集まっていた。

守はその大勢のメンバーを前にして、「わしが今年決意したことがある」と切り出した。何事かと、皆目を丸くした。

「わしの被爆体験を、若い人々に話すことに決めたよ。」

3歳下の慶子は、「あなた、大丈夫なの?」と言ったが、守の意志は固かった。「被爆者が年々高齢化していく中で、しっかり若い世代に継承していかないといけんと思ったんよ。」


県北・三次の冬は厳しいが、春になると守は活動を本格化させた。地元三次市だけでなく広島市にも行って、講演活動を続けた。

悠斗と陽子、詩織のいる大学にも出向いて講演をした。主催は陽子や詩織の所属する平和サークルである。講演が終わった後の控室で、陽子たちが「遠い所からありがとうございます」と礼を言った。陽子は控室の外から様子見している悠斗に、「ちょっと、あんたも入って!」と手招きして呼び寄せた。


守は笑顔で、「久しぶりじゃのう、悠斗君」と出迎えた。学校の勉強をきちんとしているものの、あまり平和のことを考えてこなかった悠斗は恐縮し、「すみません、カープに夢中になってばかりで、平和のことをあまり考えていなくて…」と言った。ところが守は、「いいんよいいんよ。カープは大切だよ。わしも講演の後で、よくズムスタに行ってるよ。」と言った。更に、「平和があるからこそ、野球を楽しめるんよ。これは大事だぞ。」と語った、その語調は強かった。


悠斗と守のこのやり取りを横で聞いていた詩織は、じっと考え込んだ。彼女はすっかり熱烈なカープファンになった一方で、「なぜ広島の人は、平和を強く追求している一方で、あれほどカープに熱心なのだろう」という疑問を、持ち続けていた。「平和」と「カープ」という、関係なさそうに見える2つのことが、彼女の頭の中では、まだぴったり一致できていなかった。しかし講演活動の傍らでカープ観戦を続けている守の言う、「平和があるからこそ野球を楽しめる」という言葉には、何か正解があるような気がしてきた。


守はさらに続けた。「悠斗君。スタルヒンのこと、調べたら調べるほど、無残な人生だったんだよな。彼といい沢村栄治といい、戦争は悲劇を生んでばかりだよ。」

悠斗は、「スタルヒン」について、「巨人の選手だから俺には関係ないや」という気持ちを抱いていたが、守はスタルヒンに沢村栄治と、巨人の選手の名前も出して、平和の重みを訴えた。そのことは悠斗の心の中で、何かの変化を生んだ。「平和を考える上では、選手がカープだろうと巨人だろうと関係ないのではないか」という思いに駆られていった。

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