第21話 それぞれの決意
25日の日曜日。悠斗と詩織はJR呉線の竹原市内の駅・忠海駅に降り立った。そこから忠海港へは、歩いてすぐだった。乗船券を買い、大久野島行きの船に乗り込んだ。入口から船に乗り込み、数段ステップを降りたところにある客席は、海面すれすれの高さである。さながら潜水艦のようだった。発船して15分で、大久野島の桟橋に到着した。
2人は海岸沿いの道路を歩き、「大久野島毒ガス資料館」に入った。この大久野島は昭和初期から戦争終了まで秘密裏に毒ガス工場が稼働し、「地図から消された島」として知られている。資料館の中の展示物は、工場従業員の健康被害の悲惨ぶりを物語っていた。「今なお被害者への救済は続けられている」という文面に、2人は胸を打たれた。
資料館を出た後、2人は島の丘を登ったところにある展望台を目指した。「砲台跡」「防空壕跡」と、戦時中の遺構を示す看板があちこちに立っている。展望台までは距離にして約1キロではあるが、坂道を登るのは体力を費やした。途中、家族連れが止まって座り込んでいた。その様子をよく見ると、小さなウサギが2匹、エサを食べていた。この大久野島は、ウサギが多数野生する島でもある。
40分ほどかけて、ようやく展望台にたどり着いた。木造の大きなデッキを階段で登ると、東西南北360度、海の風景が広がった。本州本土が見え、あるいは他の離島が見えている。瀬戸内海の多島美の風景は、出雲の稲佐の浜、新潟の親不知海岸のずっと一面に水平線が広がる風景とはまた違った趣きがあった。9月も下旬になって暑さは大分緩んでいて、心地良い風が吹く。
詩織が切り出した。海の風景を眺めると、自然と詩織の気分は高揚していく。
「私たちが出会って3年だね。」
「お前と初めて話した時のことはよく覚えているよ。ズムスタの試合後の懇親会で、隣の席になったよな。」
「あの時の私、カープに全く興味無かったし、正直悠斗のことを、球場巡りの物好きだなって訝ったよ」
「そんな俺と友達以上になりたいって出雲大社で祈ったり、吉山さんを一方的に嫉妬したりしたのは、何故なんだよ」
吉山千佳子はその後彼氏ができ、また就職して大阪に移り住んでいた。
詩織が続ける。「顔がタイプだったのもあるけど、それ以上に、性格に惹かれたのよ。一本筋に自分の好きなことに忠実だなあって」
「お前よく正直にいろいろと話すなあ」
「フフ。私はそういう性格よ。でもなかなかあんたに告白できなかったわ。だけど備後落合駅で、ぎりぎり告白直前の台詞を言ったわね。人の気配が全く無いのに、JRの保線の人が急に現れて怖くなったからよね」
「でもさあ、あの駅前の、中国山地の風景も、お前の心を解きほぐしたんじゃないかな」
「そうだよね。山の風景と海の風景はいいよね。何だかこう、平和な日常が流れていてね。」
2人は暫し、感慨にふけった。今度は悠斗が切り出した。
「明日からまた、お互い仕事だけど、なんか俺は、今結構充実してるよ」
「私もよ。やる気満々よ。今の職場でディレクターを目指したいわ。平和の意義を、いろいろな方面から発信していきたいわ。空襲のこと、原爆投下のこと、沖縄戦のこと、野球選手の惨劇、そしてこの大久野島毒ガス工場のこと、などね。」
「俺も職場で、平和行政のために尽力していきたいよ。草の根の被爆継承活動を支えていきたいな。」
悠斗はしみじみとして、話し続けた。
「守さんと旭川で出会って7年か。あれ以降、本当にいろいろあったなあ」
「一時は意識が無くなっていたのに、新井選手の応援歌を聞いたことがきっかけで意識を取り戻したよね。私あの時目の前にいたから、鮮明に思い出すわ」
「あれから治って退院した後、守さんは残された人生で気力を振り絞って、被爆体験を書き記し続けたよね。そして90歳、大往生されたね。」
「被爆者の方々は年々亡くなっていくけれども、伝えようとしたことは後の世代が受け継いでいかないといけないよね」
更に詩織は語気を強めた。
「守さんの伝えようとした被爆体験、絶対に広めたいよね」
「もちろんだよ」
その頃、拓人と陽子は京都市で開催の、平和学の学会でお互い顔を合わせていた。拓人は守の遺した資料を基に、平和追求の社会学的アプローチを始めた。守の資料を基にした書籍の出版準備を始めた。平和学を専攻する陽子との共同研究を夢見ていた。
守の遺した思いは、悠斗たち4人を通じて、全国そして世界へと広がっていく道筋が付いた。息の長い取り組みであるが、4人の強くて熱い思いはその実現を保証していた。
その頃麗華は、仏壇に置かれた守の遺影の前に、「カープ坊や」のカップ酒を供えて、手を合わせていた。遺影には、守の快活な笑顔が写っていた。麗華は、「被爆体験の家族伝承を始めなければ」と思い始めていた。被爆者の高齢化によって新たに始まった、「家族伝承」を考え始めた。




