遺したもの
陽子は麗華から、詳細を聞いた。守は5日前に体調を崩し、すぐに入院となったが、意識が無くなって身動きできなくなったという。
「守さんがカープの優勝に立ち会えなかったなんて、悲しいね」
「昨日の優勝した瞬間、私が耳元で「優勝したよ」とささやいたら、つうっと一粒の涙が流れていったよ。お祖父ちゃん、聞こえていたんじゃないかな」
その後も危篤状態は続き、麗華たち大庭家のメンバーは夜を明かしたという。そして朝7時に永眠を見届けた。享年90歳であった。
麗華は陽子たち3人に報告を済ませた。そして、生前の守がよく話題にしていた、拓人にも伝えなければ、と思った。しかし生憎彼の電話番号を知らなかった。翌日の12日、月曜日の朝9時になるのを待って、金沢文化大学に電話した。大学の電話交換係に「森川拓人先生をお願いします」と言い、拓人の個人研究室に回してもらった。ちょうど研究室にいた拓人は電話に出た。訃報を聞くと、「そうですか…」と固まった。
彼は一日中、仕事が手に付かなかった。夜になって、守と初めて出会った香林坊の居酒屋に行き、1人で飲んで守を偲んだ。深酒をしてフラフラと帰宅し、ベッドに寝落ちした。
気が付くと拓人は、ズムスタの観客席に座っていた。隣には守がいる。堂林翔太選手が見事なホームランを決めて、守とハイタッチした。
そこで拓人ははっと目覚めた。目の前に見える風景は、真っ暗な自分の寝室だった。守がもうこの世にいないという現実をまざまざと感じ、ポッカリと穴が開いたような気持ちになった。
17日の土曜日に守の初七日が行われ、悠斗と詩織、陽子の3人が参列した。3人は麗華と弟の晃から、晩年の守の暮らしぶりを事細かに聞いた。毎日机で原稿を書き、夜になるとカープのTV中継を見ていたという。原稿の内容は被爆体験、そして、1941年から4年間続いた太平洋戦争の回顧にも広がっていたという。麗華は3人に「ちょっと待ってね」とその場を去り、そしてすぐ戻って来た。その原稿の実物を持ってきた。見た目、300枚はありそうである。
「お祖父ちゃんが書いたこの原稿を、できるだけ多くの人に読んでもらいたいのよ。でも原稿をあの人、また別のあの人と順々に回すのは大変だし、どうしたらいいかしらね。」
陽子がすかさず言った。「コピーを取ったらいいと思いますよ。私も協力します。」
そして4人はコピー業者に原稿を持ち込んでコピーを依頼した。納期は後日である。悠斗と詩織、陽子はとりあえず広島市への帰路に就いた。2日後にコピーは納入され、それから2日後に3人の自宅に届いた。
詩織はコピーを読んだが、その中の一文に心を打たれた。「1950(昭和25)年、広島カープが設立された。私は「ああ、平和があってこそ野球が楽しめるのだ、と嬉しく思った。戦争の惨禍に打ちひしがれていた当時の私にとって、カープは心の支えであり、希望だった。私はずっとカープを応援していきたい。」 …広島県の人がカープを愛し、それが世代を超えて受け継がれているのは、そこにあると、詩織は理解した。
コピーが納入された翌日、シフト勤務の麗華は仕事が休みだった。彼女は一路、金沢へと向かった。直接の面識は無いし、原稿やコピーのことを聞いていない拓人にいきなり宅配便で届けても戸惑うだろうと思い、直接手渡すことにした。事前に連絡して取った待ち合わせ時間に、2人は研究室で対面した。
麗華は拓人に、「生前は祖父が本当にお世話になりました」と言った。拓人は「お祖父さまに出会えて本当に幸せでした。あの方と一緒に観戦し、飲み交わした思い出が、走馬灯のように蘇ります」と述懐した。
大学内の食堂で、2人はお茶をした。7月に拓人や陽子と一緒に観戦したゼミ生たちが一緒になった。ゼミ生たちは「先生の亡くなった友人の孫」の麗華に対して緊張したが、やがて解きほぐれて和やかに会話した。守と拓人が出会ったいきさつやその後の交流、守が晩年に伝えようとした被爆体験を真剣に聞いた。泣き出す学生もいた。
拓人は受け取ったコピーを何度も読み返した。自分なりに、守の体験談を継承するにはどうすればいいか。そのことを考え始めた。




