第2話 守と拓人の出会い
大庭守は81歳ながらも熱心かつアクティブなカープファンで、日本全国の野球場に試合観戦に行っていた。ファン歴は1950(昭和25)年のチーム創設以来、57年である。1975(昭和50)年の初優勝も、その後の黄金時代も見続けてきた。仕事の定年退職後はセ・パ両リーグの多くの球団の本拠地球場を回っただけでなく、長崎ビッグNスタジアムや秋田こまちスタジアムなど、いくつもの地方球場を回っていた。全国を旅行してそれぞれの球場を体験するだけでなく、その球場の土地に触れ、観光をすることが楽しかった。
しかしチームは1991(平成3)年以来優勝から遠のき、成績が低迷していた。彼はそれに対して歯がゆい思いをしていた。2006年オフに黒田博樹投手が、ファンの懸命な残留祈願活動の結果チームに残留したものの、そういう良いチーム状態で迎えた2007年シーズンも失速したペナントレースだった。更に沈んだ気持ちで臨んだオフに、新井選手の移籍は追い打ちをかけた。黒田博樹投手もメジャーリーグに移籍した。決定的にチームはどん底状態になった。
そういうどん底の中で迎えた、翌年の2008年。守は春に、広島県尾道市のしまなみ球場でのオープン戦を観戦した。外野の芝生席の近くで、他のファンがこう話していた。「今年は黒田も新井も抜けたから、カープはとことん落ちていくよな。」…守は内心それに同感した。悲しい現実をぐっと飲み込んだ。
公式戦が始まると、守は5月にいつもの如く球場観戦の旅行をした。行き先は北陸である。富山アルペンスタジアム、石川県立野球場、福井県営球場での3連戦が組まれていた。対戦相手は阪神である。新井選手が移籍した先の球団である。守はそういう阪神が相手であることにモヤモヤしつつも、新幹線と在来線特急で北陸に向かった。
石川県立野球場は、金沢市の市街地の外れにある、古めかしい球場である。守は近江町市場商店街、金沢城など市内各地の名所を観光した後、球場へ向かった。観客席には阪神ファンが多く詰めかけたが、4分の1程はカープファンだった。
試合中、雨が流れ続けた。涙雨のようだった。阪神・新井選手が7回に2ランホームランを打ち、試合の主導権を握った。カープはその裏に1点追い上げ、9回にもチャンスを作ったが、相手阪神の守護神の藤川球児投手に抑え込まれて、敗戦した。
阪神ファンに囲まれながら球場を後にし、同じく阪神ファンに囲まれたバスで移動して、市内繁華街の香林坊に降り立った。居酒屋で、守は1人で酒を飲んだ。周囲には阪神のレプリカユニフォームを着た人やカンフーバットを持っている人がちらほらいたが、それに敢えて目を背け、ビールと日本酒を飲んだ。酔いが回り、負け試合の悔しさがぐるぐると周っていく。誰かにその気持ちを話したくて、たまらず、自宅に電話した。電話に出たのは麗華だった。
「お祖父ちゃん、雨の中大丈夫だった?風邪引いてない?」
「それは大丈夫だよ。それよりもなあ、負けたよ。新井にホームラン打たれたよ。あいつにやられたよ。もう敵になったんだなって、はっきり実感したよ!」
そう大声で言いながら守は涙を流し、うつ伏せた。店員や店長、他の客は驚き、心配そうに彼を見つめた。
暫くして、うつ伏せた顔を上げると、そこには柔和な笑顔の男性がいた。眼鏡をかけた、優しそうな顔つきだ。50歳ぐらいに見える。
彼はこう言った。「私もカープファンです。今日は残念でしたね。」守の向かい隣の席に座り、自分も酒を注文した。突き出しを食べながら、話し始めた。
「今日は貴重な、金沢にカープが来る日なのに、仕事が忙しくて球場に行けませんでしたよ。ハハハ」
守は泣きやみ、驚いて尋ねる。「貴方は広島出身なのですか?」
「いやいや、生まれも育ちも金沢ですよ。カープ球団のアイデンティティに惹かれましてね。何かこう、資金力が無くても頑張ってると言いますか…。それに好感を持っていまして、もう10年ぐらいファンです。ただ、周りにはちっともファンがいないんですよね。」
居酒屋で知らない者同士が話し始めて盛り上がるのは、カープファンの間ではあまたよくあることであり、文化と言っても差し支えない。守は突然相席した見知らぬファンと、違和感なく話し始めた。
そのうち男性は、「私はこういう者です」と名刺を差し出した。「森川拓人 金沢文化大学准教授(社会学)」と書いてあった。一方の守は「すみません、私はとうの昔に定年退職していて、名刺が無いのです」と言い、そして、「准教授って、どういうポジションなのですか?」と尋ねた。
拓人は、「今までの「助教授」ですよ。去年に呼び名が変わりましてねえ。ハハハ」と答えた。拓人は気さくで、大学教員らしい威厳をみじんも見せつけなかった。守も、名刺を見た当初はその肩書に緊張したが、拓人の気さくさに次第に打ち解けていった。
守は翌日の福井県営球場の試合も観戦した。ドラフト1位入団の先発投手が好投するも7回に崩れ、敗戦した。富山で勝利を見届けたのみで、3試合の観戦結果は1勝2敗だった。翌日に広島へと戻った。負け越しはむなしかったが、北陸の土地に触れられたことに加えて、拓人に出会えたことが思い出に残った。守は「この縁を続けていきたい」と思い、すぐに拓人の名刺に書かれた住所宛てに手紙を送った。電話番号も書き添えた。手紙が届くと拓人からの電話があった。「今後ともよろしくお願いします。近いうちにどこかの球場で一緒に観戦しましょう」と拓人は話した。
この年のカープは、コルビー・ルイス投手や高橋建投手の活躍などがあり、予想に反して良い戦いを繰り広げた。クライマックスシリーズ(以下、CS)争いに加わり、ファンは大いに沸いた。結局はCS入りを逃して4位だったが、良い余韻を残したシーズンとなった。
翌2009年の8月には、読売ジャイアンツ(巨人)対カープ戦の2連戦が北海道の旭川と札幌で組まれた。守は拓人に電話し、「平日ですが観戦できますか?」と聞いた。拓人は「大学が夏休みですので行けますよ。ぜひ行きましょう!」と答えた。これで、2人の住む広島・金沢から遥か遠い北海道での観戦が実現することになった。
旭川の球場は、守は個人的に強い関心を持っていた。球場名は「スタルヒン球場」である。ロシアに生まれて亡命し、戦前に旭川の地で長く暮らし、その後プロ野球投手として活躍したヴィクトル・スタルヒン投手を称えて球場名に冠している。
そのスタルヒンは悲運の連続の人生を送っていた。ロシアで革命による迫害を受けて日本に亡命した。太平洋戦争時にはプロ野球出場禁止の処分を受けた。守も戦前生まれで、戦時中にはスタルヒンの動向を見てきていた。
守は、拓人と球場前で待ち合わせをすることになり、広島から1人で現地に向かった。移動中の飛行機や特急列車の中ではスタルヒンの伝記本を読み続けた。長女のナターシャ・スタルヒン氏が著した本で、父親の壮絶な人生が綴られていた。自分がスタルヒン存命時にニュースから伝え聞いていた悲惨さと重ね合わせた。
試合前日の8月3日、球場前のスタルヒン銅像の前で守と拓人は待ち合わせた。そしてふと球場内の方向を見て、2人はあっと驚いた。カープの大勢の選手陣が練習を終え、一斉に歩いて出てきていた。2人とも思わず駆け寄った。
マーティー・ブラウン監督が目の前にいた。守は緊張のあまり、言葉が出ない。そこに拓人が流暢な英語で、「We came from Hiroshima and Ishikawa!」(私たちは広島や石川から来ました!)と話した。監督はフレンドリーに応えた。コーチは握手を求めて手を差し出し、選手は笑顔で応じた。守と拓人は思わず飛び込んできたサプライズに驚き、大変に喜んだ。
翌4日に試合が開催された。当時のスタルヒン球場にはナイター設備が無かったので、平日の火曜日ながらもデーゲーム開催だった。試合は均衡状態が続いたが、延長戦で巨人の亀井善行選手にサヨナラホームランを打たれ、カープは敗戦した。2人はしばらくがっくりうなだれたが、気を取り直し、「明日の札幌では勝ちましょう」と話し合った。
翌日の札幌ドームの試合は同点に終わり、結局2人は遠征で勝ち試合を見ることができなかった。しかし2人は「これからもよろしくお願いします」と暖かい雰囲気で握手を交わし、新千歳空港で別れた。