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第16話 野球興行という祝祭のありがたみ

 はっと気が付くと、詩織の目の前には格子状の柄があった。右横を振り向くと、白色のドアとテーブルがある。誰もいない。音も無くて静まり帰っている。彼女はパニック状態で息苦しくなっていて、脂汗をかいていた。

まだ詩織は状況を理解していなかった。仰向けにしていた体を、おもむろに起き上がらせた。目の前には陽子も、他の通りすがりの人もいない。目の前の風景は、どう見てもズムスタではない。上を見上げた。先ほど見た格子状の柄である。爆撃機は無いし、音もしない。

彼女は目線を下に落とした。自分の着ている服は先ほどまでのブラウス、カーディガン、ジーンズではなく、部屋着のTシャツとジャージだった。左側を見た。窓に、青い空が映っている。かすかに「ザザァ…」と音がした。詩織は窓を覗き込んだ。


そこはズムスタでもなければ、炎上して崩れ落ちる高層ビルでもなかった。穏やかな海岸だった。幾層もの波が流れては、砂浜に溶け込んでいく。いつしか見た、稲佐の浜だろうか。いや、違う。


詩織はようやく状況を理解した。ここは、昨晩から自分が泊まっている、親不知海岸すぐ傍のホテルの、1階の部屋なのだと。パニックのあまりにベッド上で暴れたようで、シーツが乱れていた。


先ほどまでの光景。広島市街地に大量の爆撃機が襲い、市街地を戦火に巻き込んでいき、そしてB―29があの恐ろしい原子爆弾をズムスタに向けて落としていくシーン。あの筆舌に尽くし難い光景と、今目の前に広がる青空と海の風景は、あまりにも対照的だった。


詩織は夢を見ている間、「自分は今夢を見ている」と全く意識しなかった。今目の前に起きている、広島が爆撃されるシーンが、今生きている自分の人生だと勘違いしていた。詩織は戦争の「疑似体験」をしてしまった。

その恐怖な体験から目が覚めて、真の現実世界に戻った時、目の前にある風景は、あまりにも美しかった。青空の下の波打つ光景。もの静かに「ザザァ…」と聞こえてくる。親不知海岸の平和な日常が流れていた。


海岸の先に、ぽつんと一人の人間が立っていた。目を凝らして見ると、悠斗の後ろ姿だった。

詩織はまだ興奮や息苦しさが続いていた。窓を開けて外へ飛び出し、裸足のままで一心不乱に海岸を走って行った。遠く先にいる悠斗の方へと向かう。足に砂が付いて汚れていくのも、髪が風で乱れるのも、全く意識しなかった。

懸命に懸命に走って行き、悠斗にたどり着くと、ぎゅっと強く抱擁した。悠斗は冷静に彼女の肩をつかみ、語った。「どうしたんだよ、お前。何回電話しても出ないし、予約客じゃない俺が客室に入るわけにもいかないから、仕方なく海岸を散歩してたんだよ。」

興奮している詩織は大声で「怖い夢見てたの!!」と叫んだ。

「どんな夢?」

「戦争に遭う夢よ。ズムスタで試合見てたらいきなり空襲が始まって、しかも原爆が落ちそうになった夢だったの。怖くて思いっきり叫んだら目が覚めたの」

「何でそういう夢を見たの」

「わかんない。でもさ、目が覚めたらこんなに平和な海岸風景があって、悠斗がいるって幸せよ。」

「それはお前、本当に怖い目に遭ったな」


喋りたいことを喋った詩織はようやく落ち着いた。悠斗に「もうチェックアウトの時間を過ぎてるし、とりあえずホテルに帰ろうや」と促された。悠斗は腕時計を付けている左腕を詩織にかざして見せる。その時計は10時を少し過ぎた時間を示していた。チェックアウトの時間を過ぎている。2人はホテルの方に歩き始めた。裸足の詩織は、鋭利な物が地面に落ちていないか、気を付けながら歩く。

ホテルに戻ると詩織は店員に「ご迷惑をおかけしました」と謝った。店員は「部屋の掃除を始めようにもドアが開かないし、中から叫び声が聞こえるし、何事かと思ったわよ」と言った。そして布巾を濡らして詩織の足に付いた砂を丁寧に拭い取った。店員は「無事で良かったわ」と言ったが、詩織は謝りっぱなしだった。


詩織はタウンウェアに着替えて、部屋の荷物をカバンに詰め、正式にチェックアウトした。そして悠斗の運転する車に乗り込んだ。親不知インターチェンジから北陸自動車道に乗り込み、富山へと目指していった。

悠斗は運転しながら話を切り出した。

「昨日は0時前まで試合があってさ、寝たのは1時だったんよ。そして起きたのは6時。寝不足だよ。」

「途中私が電話したじゃない?周りが騒々しかったけど、試合中だと悠斗が言うのは嘘だと思ってたよ。ごめんね。」

「アハハ、疑ってたんか。まあ、あんなに遅くなることは滅多に無いからなあ。」

「それより悠斗、一昨日のことはまだ怒ってるの?」

「ん?何のこと?」

「悠斗の料理が不味いって、私がキレたことよ。ごめんね、私酔ってた。」

「あー、そんなこともあったなあ。ハハハ」

詩織はじっと考え、言葉を絞り出した。

「それにしても、こうやって喧嘩したりするのも、平和な日常よね」

「言われてみれば、そうだなあ。カープを見て、勝った負けたで一喜一憂するのも、平和な日常だよな」

「私が見た夢みたいに、選手が兵役に召集されて、試合も無しになって、おまけに爆弾を落とされたら、もうカープどころじゃなくなるよね」


そう話しながら詩織は怖い夢を思い出し、それとは対照的な平和な日常を対比させた。目から思わず涙が流れそうになった。ふとそこで電話が鳴った。大庭麗華からだった。

「もしもし、麗華さん?」

「詩織さん、おはよう。今富山に向かってるところ?」

「そうですよ」

「昨日はさ、新井さんがホームランを打って、お祖父ちゃん本当に喜んでいたよ」

「カープを楽しめるほどに回復して、私も嬉しいよ」

「お祖父ちゃんに代わるね。」

 麗華は電話を守に渡した。

「もしもし、守さん?」

「詩織さん、おはよう」

「今日起きる前にですね、怖い夢を見たんです。自分の目の前で戦争が起きている夢です。そこからハッと気が付いて目が覚めると、今のこの日本の平和な日常を愛おしく思いました。今日カープの試合を観戦することが一層楽しみになりました。」

「戦争でプロ野球は中断したからな…。前言ったことの繰り返しですまないが、スタルヒンといい沢村栄治といい、戦争はたくさんの人を悲劇に巻き込むからな。平和があるからこそ、野球を楽しめるんよ。」


そう会話した後、ふと詩織は昨日が沖縄慰霊の日であったことや、5日後の延岡大空襲の慰霊祭のことを思い出した。戦争は様々な惨劇を生むのだと思うと共に、守の言う「平和があるからこそ、野球を楽しめるんよ」という言葉に思いを馳せた。戦争を実際に体験した守のその言葉は、重みがあった。


車は富山市内に入り、アルペンスタジアムに着いた。そこは祝祭空間だった。たくさんの露店が出店している。カープファンの赤と阪神ファンの黄色、それぞれのユニフォームを着た人が大勢歩いている。その顔は笑顔に満ち溢れていた。ズムスタで当たり前に見てきた野球観戦の風景が、今日は強烈に新鮮に思えた。それはあの怖い夢を見たからであった。


試合は残念ながら敗戦であったが、とにかく詩織もそして悠斗も、カープの試合という祝祭空間を楽しめる日常のありがたみを嚙み締めた。それは、日本が平和であるという「礎」があるからだと、2人とも思った。

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