第1話 涙の別れ
―2007年11月8日―
プロ野球・広島東洋カープの全国のファンは、一様にTVに釘付けになった。国内FA権を取得した新井貴浩選手が、その権利を行使して他球団に移籍することを表明したからである。
記者会見に臨む新井選手は大粒の涙を流していた。カープに残留したい気持ちと、他の球団に移籍したい気持ちで揺れ動いた心境がまざまざと現れていた。「つらいです。カープが大好きなので、つらかったです……」と語った。
30歳の男性が公の面前で涙を流すシーンはあまりにも衝撃的だった。ファンは驚き、戸惑った。そして「移籍する」という事実に失望した。その失望はやがて、「カープを見捨てた裏切り者」という怒りへと変わっていった。この移籍表明の前に盛んな残留祈願の署名活動が行われたが、その思いは実らなかった。
広島県の北部、中国山地の山あいにある三次市。市内の小さな集会所ではこの日の夜、敬老会が開かれた。10人ほどのお年寄りが座敷の上で胡坐をかいて座りながらくつろぎ、テーブルに並べられた寿司を食べ、ビールを飲みながら談笑していた。
学校を終えた小学生の子どもたちも5人ほど、参加していた。会場内のTVは、新井選手の移籍表明を伝えるローカルニュースを映した。
子どもたちは遠慮が無い。TVに映る「涙の記者会見」シーンを見て、「おーい何で泣いてるんだよ!」「わけわかんねえ!」「もう敵だな、さよなら!」と口々に言い合う。
給仕係を務めていたエプロン姿の高校3年生・大庭麗華は、グラスを乗せたお盆を両手で持ち運びつつ、子どもたちに向かって「まあまあ、落ち着いて」と言った。そして参加者のお年寄りたちの方を向いた。お年寄りたちもビールを飲む手を止め、腕組みをして真剣にTVを見ていた。「黒田投手もメジャーリーグに行きそうだし、これは困ったな」「エースと4番打者の同時流出だよ」と心配する声が相次いだ。
麗華は参加者の1人で、自分の祖父である守を見て、驚いた。彼の頬には涙がつうっと伝っていた。守は顔を震わせ、声を振り絞ってつぶやいた。「ドラフトで下位指名を受けて入団して以来、がむしゃらに練習してレギュラーに這い上がるあいつを、わしはずっと応援してきたのに…。どうしてこうして出ていかれるんだよ…。」新井選手を人一倍応援してきたからこそ、その悲しみは一層深かった。これまでにも江藤智選手、金本知憲選手などのFA移籍はあった。だが新井選手を熱心に応援し続けた守にとって、今回はひときわ衝撃だった。敵になる新井選手とどう向き合ったらいいのか、その答えが見つからなかった。
やがて新井選手は阪神タイガースに移籍した。同一リーグへの移籍であるので、カープとの対戦はとても多いことになる。カープ相手にガンガン打ちにいく新井選手のシーンを想像すると、守は寒気のようなものすら、覚えた。