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狼峠

作者: 華

 ゆきは日の暮れかかった山道を歩いていた。萌黄色の小袖は薄汚れていて、歩き疲れた足を懸命に前に進めている。夕焼けで赤く染まった道には誰一人おらず、カラスの鳴き声が物悲しさをいっそう際立たせていた。


 ゆきは故郷から少し離れた町の商家に奉公に出ていた。先日、実家からの文で父の危篤を知り、急遽主人に暇をもらったのだ。急いでいるためがんばれば一山越えられると思ったが、女の足ではいかんせん難しかった。予想どおり、峠に辿りつくのと日が沈むのは同時だった。とっぷり日が暮れた峠は、月明かりを頼りにしても足元すらよく見えない。こんなところで夜を明かすわけにもいかず、山を下りたところの村で一晩泊めてもらおうと足を速めた。


 すると突然、茂みから伸びてきたものに身体を絡めとられ、そのまま引きずりこまれた。それが男たちの無骨な腕だと気づいたときには地面に押し倒されていた。


 恐怖にかられながらも必死に手足を動かしたが、男たちは下品な笑い声をあげながらゆきの無駄な抵抗を押さえつけた。それと同時に荒々しく小袖を乱していく。ゆきは素肌を外気にさらされたからではなく、恐怖で内側から凍るような寒気に支配されていった。


 だがしかし、それは別の恐怖によって打ち砕かれた。四つ足の獣たちがゆきに覆いかぶさる男たちに襲いかかったのだ。


 男と獣たちが転げ回っている隙に、ゆきは起きあがってもつれる足を懸命に動かした。暗闇のどこかに、揺れる茂みの中に獣たちがいるかもしれないと思うと、それでも走り続けることでしか恐怖に対応する方法はなかった。


 どれだけ走っただろうか。小さなくぼみに足がつっかかり転んでしまった。ゆきは上半身だけを起こし、息を整えた。


「おい」


 心臓がこれでもかというほど飛びあがった。


 茂みを挟んだ場所に松明を持った男が立っていた。さきほどの男たちとは違うようだった。


「なにしてる」


「峠を越えようと思って……」


「ここは夜になると狼が出る。周辺の村人はみんな知ってるぞ」


 あの獣は狼だったのか。


 ぞっとすると同時に、自分は無傷ですんだことに幸運と安堵を覚える。


「今夜は俺の家に泊めてやる。来い」


 ゆきはありがたく思ったが、腰が抜けて立ちあがれなかった。見かねた男は茂みを一越えして半ば強引にゆきを背負った。


 男はこの山の麓の村はずれに住んでいる源内といい、猟師をしているらしい。ゆきも名前や住んでいる町、奉公に出ていること、里帰りをしていること、この峠が狼峠と呼ばれているなんて知らなかったことを話した。源内は時折うなづいたり、「そうか」とぶっきらぼうに返事をした。


 源内は村はずれの小汚い家に着くと、煮炊きしてあったものを囲炉裏で温めなおし始めた。どうやら食べ物までふるまってくれる様子だったのでゆきはお礼を言ったが、きこえているはずの源内は無言だった。出された煮物は野菜が少なく、贅沢にも兎の肉がごろごろ入っていた。


 食事がすむと奥の間に案内された。源内は質素な布団を一式用意すると、自分はさっさと掛け布団だけ手に取り囲炉裏の間で寝た。もしかしたらと思っていたが、女として危惧していたことはなにも起きなかった。


 奉公に出ているゆきは主人よりも早起きしなければならないため、早朝には慣れていた。今朝も、前日の疲労が残るものの、普段とあまり変わらない時間に起床した。源内を起こさぬようこっそり囲炉裏の間をのぞいてみたが、そこはもぬけの殻だった。ゆきは今のうちにと朝食の準備にとりかかった。


 麦を混ぜた米が炊きあがる頃に、源内は帰宅した。手には弓矢を持っているが、獲物はなかった。


「おかえりなさいませ。勝手ながら朝食の準備をいたしました」


 源内はなにも言わずに朝食を食べ、ゆきが「お味はいかがですか?」ときくと、やっと「美味い」と答えた。


 源内のもとを発つとき、ゆきは奉公先へ帰る前にあらためて礼にうかがうと言ったが、そんなことはいいとそっけなく返されてしまった。しかし、朝食の残った麦米の握り飯を渡されたとき、矛盾した優しさを感じた。


 ゆきの帰りを待っていたかのように、彼女の父は死んだ。ゆきには兄と兄嫁がいたため、葬儀は滞りなくすんだ。そして奉公先へ向かう途中、約束どおり源内のもとを訪れた。無言だが拒みはしない彼に、嬉しいような、安心するような、泣きたくなるような感情を覚えた。











 そんな妙な縁あって、ゆきの父の喪が明けると二人は夫婦になった。

 源内は珍しく米や野菜をあまり好まず、自分で獲ってきた肉を多く食べた。そして村人との交流があまりなかった。しかし彼が狩猟に出ている間、ゆきが子どものいない老夫婦の畑仕事を手伝ってやると、交流もだんだん増えていくようになった。


 一年がたった頃、ゆきが妊娠すると同時に源内の不審な動きが気にかかり始めた。時々、夜中に家を出て、日が昇る前に布団に戻るのだ。もしや外に女ができて、お腹の子とともに捨てられるのではないかと不安になったゆきは、ある夜こっそりつけてみることにした。


 いざ行くと、源内は狼峠のある山を登っていくではないか。ここには怖い思い出があるので帰ろうと振り返って息を止めた。そこには喉をぐるぐると鳴らした狼が数匹道をふさいでいた。後ずさるもそこにも狼が待ちかまえ、ゆきはぐるりと囲まれていた。無意識に腹をおさえ、立ちすくむ。自分よりも守りたい命がここにある。


「こいつだ、源内の嫁は」


 その声は狼からきこえてくるようだった。動揺のあまり頭がおかしくなったのか。


「源内は俺たちの仲間だ」


「でもお前と夫婦になってから、人間は襲うなと言ってきた」


「お前、源内の前から消えろ」


「でなければ村を襲う」


 狼達はゆきになにもせずに立ち去った。今のは夢か現かわからぬまま、気付けば布団の中に入っていた。身体は疲れているのに目が不自然に冴えている。眠れぬまま横になっていると、源内がゆっくりと自分の布団に戻った。


「……外は寒くなかったですか」


「少し見てきただけだから大丈夫だ」


 狼は源内を仲間だと言っていた。この人は何者なんだろう。私は何を孕んだのだろう。もしかして、とんでもないものが私の体内にいるのではないか。


 なにもきけぬまま翌々日になって驚愕した。村の家畜の牛や馬の数頭が食い殺され、畑が荒らされていた。足跡や糞から見て、狼の仕業に違いなかった。


 ゆきは罪悪感に苛まれながら、夫にも村人にも無言のまましばらくの月日をやり過ごした。しかし堪えきれなかったのは村人たちだった。今夜、村の男総出で狼退治に行くらしい。源内は普段の無口に拍車がかかり、乗り気でないのは一目瞭然だった。


 真夜中、いつしか雨が降り始めた。ゆきは囲炉裏で不規則に踊る火を眺め、じっと待っていた。だが突然戸が開き、顔の半分を血で染めた源内と、彼を支える村人が入ってきた。源内の左耳はなかった。


「狼を見つけて矢を射ったんだが、源内の奴、急に前にとび出してきたんだ」


「悪いが、こいつを頼む」


 村人たちはまたすぐ狼退治に行った。ゆきは驚愕しながらも、とりあえず源内を布団に寝かせようとしたが制止された。


「布団の間に護身用の弓矢がある。取ってきてくれ」


 ゆきは奥の間に引っこみ布団をあさったが、それらしきものは出てこなかった。


「あなた、弓矢なんてどこにも……」


 源内は滴り落ちた血を残し、姿を消した。再び狼峠に行ったのだ。血の気が引いたゆきはすぐさま追いかけた。身重だろうが、雨に濡れようがかまわない。源内が何者であろうと、彼を心から愛していた。しかし走っているうちに、自分を囲みながら追いかけるものがあるのに気付いた。


「言っただろう」


 ゆきはぎくりとして足を止めた。鋭い目に囲まれ、逃げ場はない。狼が跳ぶのと同時に、ゆきは膝が折れて地に伏せた。運よくかわせたが、別の狼がひたひたと近付く。今にも跳びかからんとする次の瞬間、また別の狼がゆきの背後から狼の群に跳びこんだ。仲間割れをする狼たちを拡散させたのは弓矢だった。村人たちが異変に気付き、やって来てくれたのだ。矢は数匹の狼に刺さり、命を奪った。村人の数人はゆきを助け起こし、残りの者は逃げる狼を追った。


「おゆき、大丈夫か。なんでここにいる?」


 心配する村人をよそに、ゆきは一匹の狼を見つめていた。ゆきを助けてくれた狼だ。他の狼に噛みつかれ、なおかつ矢で射抜かれて絶命している。そっと近付き、血と雨で濡れた剛毛を撫でる。その狼には左耳がなかった。


「あなた」


 呼びかけに答えはない。


「あなた、あなた」


 ゆきは狼の姿をした夫に覆いかぶさった。熱を失ってゆく胴体にしがみつく。


 このヒトの子どもを宿したまま、私一人どうしろというのだ。


 激しい雨音でさえ、ゆきの泣き叫ぶ声は消せなかった。










END

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