徐福―始皇帝を騙した男―
潮風を受けて鰭のような白い帆が膨らんでいる。
微かに揺れる船首に立ってみると、青頭巾の老船長が銀の匙状の慈石を黒い式盤に投げつけている。
そして水夫に指示を出して帆の向きを変えさせている。
この式盤は方位を占う為に用いる司南とかいったか。
果たして当てになるのかならないのか。
……危うい。
会稽で出帆し、朝鮮に寄港するまでは順調だった。
荒波で自位置を見失ってからもう十日はこうして海を彷徨っている。
肝心の蓬莱は影も形も見えてこない。
「抜かりないか」
「私には抜かりはありませぬ。しかしこの指南と天運は図りかねます」
「左様か」
青頭巾はまた慈石を式盤に投げつける。
やはり頼りになる代物には思えない。
船尾の方に振り返って見ると、無数の帆船が鴨の子のように連なっている。この旗艦はさながら親鴨か。
危うい親鳥だ。
自嘲気味に息を吐くと青頭巾が尋ねてくる。
「霊薬の居所には抜かりありませぬか」
「長生不老の霊薬か……そんな物はなかろう」
そう返して笑い合う。
戯れに薬師の真似事を始めて20年。
薬の無力さと命の儚さは散々に思い知らされてきた。
「儂は戦と血が嫌いでな」
「同感です」
「あの王は……殊更戦と血の匂いがしおる。恐ろしくて堪らぬ」
「恐ろしいから騙したのですか」
「何……王に煮殺されれば血は出ぬ」
青頭巾はひとしきり笑った。よく笑う男だ。
「あなたは臆病なのか豪胆なのか」
「それに秦は滅びる」
青頭巾は少しだけ眉を潜めた。
「秦が滅びますか」
「力だけでは国は保てぬ。……それに面を一目見て分かった。秦王の死期は近い」
秦王……確か皇帝とか名乗っておったか。
神にでもなったつもりだろうが、儚い物よ。
最も我々の運命も同様に儚いが。
……船首から蒼い海の彼方を見つめても、やはり蓬莱は見えない。
「どうなろうと……煮殺されるよりは増しだな」
「違いありません。海で死ねるなら本望です」
「豪胆な男だな。お前は」
「光栄です。徐福様」
しかし……
「三千の童男童女と千の人夫。雛鳥達を巻き込んでしまったのは心残りだ」
「あの子供達ですが……何故秦王に願ったのです」
「王との駆け引きの一端だ」
「戦乱で溢れた孤児が気がかりだったのでは」
「想像に任せよう」
また潮風が吹いた。
青頭巾は水夫に指示を出して縄を張り、帆の向きを変えていく。
――それから一刻過ぎた頃、ついに海の彼方から薄緑の線が覗いた。
歓喜する水夫たちとは裏腹に、青頭巾は静かに微笑むだけだった。
「……徐福様」
「あれが蓬莱か」
「蓬莱は海底にあると聞きましたが」
「冗談はよせ」
やがて、入り組んだ崖の先に入り江が姿を現した。
白い砂浜の向こうには森が何処までも広がっている。
故郷の琅邪にこんな入り江があれば立派な港と漁村が出来ている事だろうが、人の気配は全く無い。
改めて新天地へと辿り着いた事を実感させられる。
年柄も無く胸が高鳴っていく。
「骨を埋めるには悪くない地だ」
「違いありません」
小さく笑い合った後、青頭巾は細い目を開いてじっと私を睨んだ。
「王になるおつもりですか」
しかし私はまた笑った。
「王にはならん。王がいるから戦が起きる」
帆がまた小さく揺れた。
新天地の入り江に向けて、ゆっくりと船は進んで行った。