2ノ4 足リナイ
締め切りも迫り、かれは何とか書き上げた出来の悪い作品を編集者である女に渡した。彼女でさえかれの書いた作品はいつもと違って物足りないと受け取った。それでもきっと読む人が読んだらいいものなのだろうと捉えて、原稿を出版社へ持ち帰った。
かれは落ち着かない気持ちに溢れ、都内のホテルで高級娼婦を買った。部屋に入ってきた女を冷たい視線で見回した。娼婦は男の行動に落ち着かなかったが、笑顔を見せて対応していた。でもやがてかれは激しい怒りを露にし、娼婦をバカにし出した。
「嫌なら帰るわ」と、その娼婦の女は言った。もはや帰るつもりだった。
しかしかれは100万の札束を出し、その娼婦に伝えた。
「要らないなら帰ればいい。欲しければ俺の言うとおりにしろ」
娼婦はその札束に完全に目を踊らされた。
「本物よね?」
そう疑って、札束を一枚一枚ペラペラと見る。
かれは娼婦のカールヘアを根元から掴む。
「い、痛ったーい」と声を上げるが、かれはそれを気にしない。
「欲しいんだろ?」
かれはそう言って綺麗な女の鼻立ちを唇で啜る。娼婦の女は何も言わない。
そしてかれは女を散々なまでにいたぶった。髪の毛をぐちゃぐちゃにして、化粧が落ちるまで顔を嘗め回してからベッドに顔を押し付け、後ろからぶちかまして、あちこちを叩き捲くった。
娼婦の女は逃げるに逃げれない状態になり、ひいひい泣くように、感じるように叫んでいた。それから1時間続いた。娼婦はベッドから床に転げ落ち、倒れ込んだ。女は床でヒクヒクしたまま、もはや精神が崩壊してしまったかのように倒れていた。かれは女の上に一万円札をばら撒いた。
もう十分なはずだ。自分の行為で落ち着かない苛立ちは消えるはずだ。かれはそう思っていた。
それでも酷い作品を書いてしまったという不快な気分が消えない。ホテルを出ると落ち着かない感情が溢れてきた。娼婦にやった行為はむしろ気分を害した。
ホテルの前でタクシーに乗り込むと、レンタカー屋へ行くように指示した。現状の自分を、自分の存在を知っている相手に見せたくはなかった。カノジョである長い髪の女に見せる顔もなかった。いつもなら強気な態度を取れるかれも今はそれができない。だからまるで逃亡者のように、知られないままにどこかへ行ってしまおうとした。
レンタカー屋に着くと置かれていたクーペを借り、間髪置かずに車を走らせた。逃げるかのように必死に走らせた。
※
悪い吐息が切れないまま、かれの運転するクーペは山野を駆け抜けた。平日であったせいもあるだろう。自分で想定していたよりも早く目的の場所に着けた。
枯れた木のある山道へと足を踏み入れる。路肩の広い場所にクーペを止め、木と木の間に隙間がある林の中へと入ってゆく。数週間前に訪れた時は木々に葉があり、辺りを闇に染めていたが、今はもう葉がほとんど落ち、強い西日が森の奥まで入り込んでいた。辺りはすっかり冬の出で立ちだ。
わずかな葉がちらりと顔を掠めて落ちてゆく。もう冬はすぐそこまで近づいていた。
誰もいない山道を一人歩いてゆく。落ち着かない気持ちがかれを焦られせていたから、寒さも感じずにいた。息を切らせて足場の悪い道をスタスタと上ってゆく。
夏は青々と茂る木々の中にポツンとあった木も、今は周りと一体になって姿を眩ませていた。全く目立たない。意識してよく見れば、その木は別の木よりも少し艶やかに見える。周りの木に葉のない時期は、むしろその木の方が力強く生きているように見える。
日は落ちかけ、夜闇に包まれるのもすぐそこまで来ているが、それを気にせず目的の木に着くとその木の幹に手をかけた。あちこちの枝を触り、ゆさゆさ揺すって、一本の太目の枝を選択した。そして手始めにその枝を上下に激しく揺さぶった。枝はまだ生きている。生命が枝の先まで伝わっているのを感じる。かれはその枝の先が地につく位まで強引に折り曲げる。
「よし!」とかれは気合を入れていった。
そしてそれから力いっぱいに枝を右へ左へと無理な方へと折り曲げてゆく。しかし枝はしなり、なかなか折れようとしない。
「ぐ、ぐあああああ」とかれはでかい声を上げる。
森の奥で誰もいないから声は誰にも届かない。気を狂わせたようにその枝を右へ左へと揺すり、でかい唸り声を張り上げる。そしてさらに無理な方向へと力を込めて枝を曲げてゆく。
額から汗が吹き出るほどの労力を費やし、かれはその枝を折ろうとする。
「うーーーー、ああああ、うぉーーーーー!!」と声を上げる。すると枝はすっとしなりを無くす。負けを認めたかのように力を失い、ゆっくりと限りなく生命力を無くしていった。
かれはにやりと笑んだ。木はその枝を生命の一部とするのを諦めたようだ。枝をグルグルとねじり、枝が幹と繋がる根元が破損していくのをかれは楽しんだ。幹との繋ぎ目は少しずつ伸びきり、弱まり、手を離すとダラリと地に垂れ下がった。
再びその枝を持つとかれは最後の力を込めて、綱引きの綱を引っ張るように力いっぱい幹から遠い方向へと引いてゆく。少しずつ枝は伸びきる。そこに捻りを加えてゆく。『ぐいいい、ぎゅるん』というような不思議な音を立て、枝は木の幹から分離した。
かれは全身で呼吸をしていた。とても疲れていたようだが、誰も俺には叶わないというような不気味な自信を持った眼力の強い笑顔を浮かべていた。
気がつくと辺りはすっかり闇に包まれていた。
※
目覚めの悪い朝を迎えていた。体がだるい。昨夜の酒がまだ腹の中に残っている。かれは不快な気分で目を覚ます。
東北地方の中都市にあるホテルに泊っていた。ホテルでは何もしないまま二晩を過ごした。冬寒くなってきた街を歩き、地方ならではの飯を喰った。それくらいで後は何もしていない。寝ているか、テレビを見ているか、そんな風にどうでもいい時間を送った。
東北地方とかれは何の繋がりもない。そんな何の関係もない土地にいる事が今の自分には合っていると想像した。何も知らない地で全てを忘れれば自分の求めていた自分を取り戻せる、と根拠のない予感を抱いた。
でも二日経っても、理解不能の不快な感情が押し寄せてくる。かれは起き上がると、ふらふらと歩きながらロビーへと向かった。
広いロビーは出張中のサラリーマンでいっぱいだった。かれはその場に不似合いなスウェット姿で横切り、ロビーにある公衆電話に向かい、そこから電話をかけた。
「もしもし?」と、女は出た。
「俺だよ」とかれは言う。
「どこにいるんですか?」
女は少し強い口調で尋ねてきた。
「何?怒ってるの?」とかれは尋ね返した。
「話したい事がたくさんあるのですが。まず連載の前回分です。修正しないとならない点が多いので今回は見送りとなりました。次回分に回すので、5日後までに修正してください。修正の理由と修正箇所については話をしないとならないので、いち早くお会いしたいのですが」
編集者である女は業務的な口調でかれにそう説明した。どこか公共の場所にいるのだろう、とかれは推測した。電話の向こうの女は最初の質問に対する回答を待っている。
「来いよ」とかれは言った。
「どちらへ?」と女は訊き返してきた。
かれは今いる場所をホテル名とホテルの部屋までしっかりと伝えた。
「わかりました」と女は言った。
その日の午後2時に長い髪の女はホテルのロビーへとやってきた。部屋まではやって来ずにフロントのホテルマンを使い、かれを呼び寄せた。そしてきっちりと、直すべき原稿だけでなく、かれの部屋にあったはずの携帯電話とノートパソコンを持ってきた。
「準備がいいね」とかれは皮肉そうに笑って言った。
彼女はそれを気にせず、一通りの物をかれに渡した。
「行こうか」とかれはホテルの一室に彼女を誘うが、長い髪の女は「いえ」と断り、どこかの喫茶店がいいと提案し返す。
珍しい、とかれは思ったが別に構わなかったので了承した。
ホテルの傍にある静かな喫茶店で、長い髪の女は修正点の話を始める。それはとても事務的で感情や気遣いのない喋り口調だった。
いつもと違う、とかれは感じていたが、どうしたらいいか、止めるのも変えるのも不自然でできそうにはなく、そのまま話を聞き続けた。
今はまあ良しとしよう、と考えて、かれは編集者の話をただ素直に聞き入れた。自分には心の余裕があると考えている。彼女が怒っていてもまあいいだろうと。
だが目の前にいる女性はかれが凡人以下になりかけていると感じている。それはなんとなくだけど、その『なんとなくが』大きな差になる。
いつになったらかれはそれに気づくのだろう。かれがそれに気づく日はいつになることだろう。