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何気ないまいにちをあなたに伝う  作者: こころも りょうち
ぼくの生活
5/22

1ノ5 思イ出

 ブロック塀は強い光に照らされ、その塀に囲まれた日本家屋の旅館が住宅街の中にポツンとある。その旅館は「旅館」と書かれた札があまりにも不似合いに掲げられている。

  懐かしい風景だ。()()はここへ来た思い出を持っている。あの日の朝のように気持ちよく晴れ渡った空の下、あの日の続きに帰ってきたかのようにその旅館の入口に立っていた。

 ベルを鳴らす。誰も出てこない。

 だから思い切って玄関の戸をガラリと開ける。広い玄関には左右にたくさんのスリッパが入った下駄箱があり、一歩上がった先には茶色の布が掛かった古いソファーがある。その向こうに開き戸のついたカウンターがあり、ガラス戸の前に『御用の方はこちらのベルを押してください』と書かれたボタンが置かれている。

 ぼくは靴を脱ぎ、玄関を上がり、そのベルの場所まで行き、ベルのボタンを押す。

『ブーーーーー』という低い音が続く廊下の奥で鳴っている。

 廊下を小走りに駆けてくる音がして、若い女の人が顔を出す。

「はい?お泊りでしょうか?」と、若い黒縁眼鏡の女性はぼくに尋ねる。

「い、いえ、ちょっとお尋ねしたい事があったのですが」

「ええ、何か?」

 ぼくは聞きたいが、相手が違う。ぼくが会いたかったのは若い女性じゃない。

「あの、私、10年前にこちらの旅館に泊ったことがあるんですが、その時の事で、ちょっと聞きたいことがありまして」

「10年前ええ、ですか?」

 結構気さくな感じで、明るいその女の人は笑顔を浮かべ、困り果てる。でもすぐに表情を真顔に戻し、「ちょっとお待ちくださいね」と言って、突っ掛けを履いて玄関の外に出て行った。

 ぼくは待たずにその後を追った。玄関を出て、塀の外に出る前の狭い庭のような道のような場所を左手に向ってゆく。柿木が小さな実をつけて生っているのを眺めながらさらに奥へ向う。洗濯機が四台も並んでいて、その向こうで少しさらに左手に折れる。そこには中庭があり、左手に旅館よりも古い昭和を思わせる家がある。

「おかあさーーん」

 女性はその家に向って、大声で声を上げる。でも出てきたのは女性でなく、皺の多いおじさんだった。

「何だ、お父さんいたの?」

「いや、畑に行くのに軍手忘れて」

 農作業だか土木作業だかしそうなおじさんが現れる。

「あの」女性は付いてきたぼくの方を見て「あの方が10年前の事を知りたいって言ってるんだけど」

「10年前?10年前たってなあ」

 おじさんは古い話だなと感じ、何も覚えていないかのような顔をする。

「あの、私、10年前にこの旅館に泊ったことがあるんです。その時なんでけど、実は一人で酔っ払って帰ってきたと思ったんですけど、誰かにここに連れてこられたのではないかと思うんです。その事が知りたくて」

 ぼくがそう言うと、おじさんは何の話だか、というような表情を浮かべる。

 やがて家屋から今度は齢のいった女性が出てきた。ぼくはその人を知っている。そう、あの日、ぼくに、ここにお一人で来られてお泊りになりましたよ、と言ったのはその女性だ。当時より少し太った感じだが、ぼくにはわかる。

 おじさんはやってきた女性にその話をする。

 太ったお母さんは少し困った表情をしてぼくの方を見る。そして玄関口に回り、そこから表に出てくる。ぼくの傍に寄って顔をよく見てから話し出す。

「覚えてますよ。確かに、変な話だからあまり言いたくないんだけど、もう10年前だしねえ」そこで少し口篭り、迷ってからまた話し出す。「若い男性の方が一緒で、あなたを連れてきて、今日泊れないかと言うんです。ちょっと酔いすぎてしまって眠ってしまったんだけど、って言ってました。…。私は、お金を先払いしてくれればどうぞ。って言ってねえ。その人が払ってくれたんで」

「どうして、あの日の翌朝、ぼくが一人で来て、一人で泊った、なんて言ったんですか?」

「プライドが高い奴だから、酔いつぶれて連れてこられたなんて思われたくないだろうから、って言ってましたよ。それで、一度荷物を取りに店に戻ってまた来る、って言って。取ってきて、それからあなたの泊った部屋に。何か変だったから覚えてはいたんですけど、その後何もなかったですから。どうかされたんですか?」

 太ったお母さんはぼくにそう尋ねる。

 そうだ。何もないと言えば何もない。ただ奇妙なだけ。それだけでしかない。

「いえ、ちょっとどうしても、本当の事を知りたくて」

 お母さんは不思議そうな顔をする。だからぼくはさらに尋ねる。

「その人って、ぼくより少し年上の感じでした?当時。それで色黒で、黒いジャケットを着ていた。ぼくより少し身長が低かった」

「ええ、黒いジャケットを着ていたような。たぶんその人だと思いますけど、なにしろ10年前だからあまりよくは覚えていなくて、お知り合いじゃないんですか?」

「ええ、まあ、ちょっと礼を言いたくて。昔を少し思い出しまして」と適当に取り繕う。

「ああ、そういうことですかぁ。ごめんなさいねえ。私もそこまでは関心がなかったもので、他は何も覚えてなくて」

「いえ、いいんです。ありがとうございました」と言って頭を下げた。

 晴れ渡る空の下、ぼくは緑の男に教えられた住所までやってきた。でもこれ以上は何もわかりそうにない。

「あの人は、ぼくの荷物を置いて、すぐに出て行ったんですか?」

 帰り際、太ったお母さんに尋ねてみた。

「いいえ、そう、確か、2時間くらいはいたはずですよ。なかなか出てこないんで、気になって一度部屋をノックしようとしたんですけど、何か、、、、いえ。ごめんなさい。それだけです」

「何か?」

「いえ、何も見ていませんから」と、太ったお母さんは苦笑いを浮かべた。

 ぼくはそれ以上、何も聞くことが出来なかった。でも何かがその間に起こっていた。この人がぼくを覚えていたのは、酔って運ばれたという理由じゃない。その2時間の間に感じた何か、その奇妙な何かを感じて覚えていたに違いない。

 そこまでの確信は得られた。だけどぼくはそれ以上、その太ったお母さんから聞き出せなかった。


 休日の3日間、その何かをずっと考えていたけど、何も思い当たるものはなかった。考えていたんだか、ぼおっとしてただけなんだか、わからないままに時は過ぎ、またいつもの日に戻っていく。ぼくには何もわからない。


 ※


 畳の部屋にちゃぶ台。勉強机はあるが、一度として少女が座っているのを見た記憶はない。彼女はちゃぶ台で勉強をしている。

  また今日もいつもと変わらない一日が平穏に過ぎてゆく。かわり映えのしない少し短くなった少女の髪を眺めながら、無駄な時間を過ごしているかのように時を送る。

 ぼくは袋小路にいるみたいだ。もう先へ進む方法は見当たらない。休みの日に10年前に行った旅館を訪れてからその先はなく、どうしていいかわからない毎日を送っている。登校拒否を始めた中学生が少し髪型を変えたからと言って何も変わらないように、ぼくの生活も変わらない。

「今週は元気がないねえ。しぼんだ花みたい」と登校拒否中学生はぼくに言う。

「いつもと変わらない」とぼくは言い返す。

 10年前を考えようとする気持ちから離れ、ぼくは国語の朗読を始める。何だかよくわからない評論を読んでいる。日本がどうのこうのという話。いろいろな事がより一層どうでもいい気分になってくる。

 実に冴えない。

「やめようか?」と中学生は言う。少女はぼくのやる気のない朗読に気づいている。

 ぼくは朗読を止め、黙り込む。彼女は鋭い一重の眼でぼくを睨むように見つめている。知っている。彼女の目はぼくを睨んでいるわけではない。そういう目の形なのだ。

「先生、やる気のなさ、ありありだね。別にいいんだけど、わたしだってほんとにやる気ないから」

 とは言われても、そういう訳にも行かない。これは仕事であってぼくは月々安いながらも月給を頂いている。だからぼくは役目を務める義務があるわけである。

 少女の言葉を無視して朗読を続ける。これじゃあ一体誰が勉強しているのかわからない。頭に入らない日本語を読んでも誰の勉強にもならない。アナウンサーになる練習でもしているようだ。

 何のため?わかっている。こんな学習に大切なんていえるものは何一つない。ぼくらは最低の場所にいる。生きている場所さえないかのようだ。ぼくらは互いに引きこもり、この場でただ生きる肩書きを探している。勉強をしているのは生きるための努力をしている最低限の許しを得るため、という行為でしかない。

「わたしだって、いつまでもこうしていたいなんて思ってないよ。面倒くさそうにしないでよ」と、少女は深く煮詰まった声でぼくに伝えた。今まで聞いたことのない少女の声だった。

 毎日会う人は退屈な置物のように輝きを持たない。その登校拒否中学生をそう感じる。自分の方に気を向かそうとするその少女の行為を、ぼくは受け入れない。学校も行かず、夢も見ず、ただこっちを向いてほしいなんていうわがままな態度を取る小娘に目を向けたりはしない。

「じゃあ、好きにすればいいだろう?」と、うつむく少女に冷たく言い放つ。

 しばらく黙っていた。

 またドキュメンタリー番組のナレーターのように国語の本の朗読を淡々とし続けた。少女の沈黙は続いた。続いて、少女の目に涙が溢れているのが目に映った。

 朗読を止めた。泣きたきゃ泣けばいいだろう?という冷たい自分がいる一方で、この子もいろいろつらい想いをしているんだろう、と心痛める自分もいる。

 善悪の思いに揺れている。

 だけど掛ける言葉は出てこない。10分、20分とそんな沈黙と、少女のすすり泣く声が聞こえた。あたりはシンとしている。少女の母親は買い物に出かけていて、1時間は帰ってこない。ここにはぼくらしかいない。

 ふと中学生の頃いじめられていた痛みがぼくの体を包み込む。いじめっ子の安田や田野の姿が目に浮かぶ。ありありと嫌な思い出が溢れ出してきた。

  学校はろくな場所じゃなかった。誰もが自分の立場を気にして誰かを味方にして自分の位置を守っていた。力や金や忠誠心や便利さや雄弁さ、様々な自分の特権を使って自分の地位を保とうとしていた。社会形成の練習場のように机が40個並んだ部屋ではそれぞれがそれぞれの位置を持っていた。そこに入れない者は弾かれる。弾かれ、外されたものは社会に戻れない。ぼくのようになんとか生きてゆくしかない。それも出来なければ生きてさえゆけない。

 この子は…?

 ぼくは、

 あの旅で自分を変えるはずだった。あの旅の終りに未来を感じていた。でも、あの男はぼくから全てを奪った。旅館の中で何かをされた。そして未来への希望は断たれた。

 激しい怒りが心の奥から生まれてきた。芯から燃え上がる。

「負けるな!」と、ぼくは声を発していた。大きな声ではないけどその声は確かに響き渡るしっかりとした声だった。

 少女はその声に涙を止めた。すすり泣く声を止め、ティッシュで涙をぬぐった。

「ごめんね。先生。何でもないの」と言った。

 ぼくらはこの世界で自分の居場所を探している。


 ()()はぼくがどこでどう暮らすことがいいと思う?登校拒否していた中学生もいつかは一人で生活していかなくちゃならない。ぼくらはどこかで暮らしていける場所を必要としている。

 きみがどこかで暮らしているのと同じように。


 ※


 ある休日にいる。

 ぼくはこの町にある大きなショッピングモールに来ていた。理由はない。デートでもなければ、友達といるわけでもない。一人きり、買いたい物も特にはなく、見たい映画があるわけでもない。


 暇。

 以上。

 みたいな。


 しかし大きなショッピングモールだ。現代はこんな大きなショッピング街があちこちに点在する。さほど大きな街でもないこの町でも、人々は集まり、軽いお祭りといえるくらいの人がこのモールに集まってきている。駅前が閑散としているのも頷ける。町の人は皆こっちに集まっているのだから。

 とりあえずカフェでアイスラテでも飲んで気を落ち着かせる。喫茶店で珈琲、というのがいつものぼくだけど、ここにいるとなぜか少しだけいつもと違う雰囲気にさせられる。無駄にお金を使ってしまいそうだ。

 いつもと同じところにいるといつもと変わらない考えしか起こらないから少しだけ違うところに来たけれど、いつもより落ち着かない気分でいつもよりも大胆になりたい気分の自分がいる。

 何か方向性が間違っている。

 カフェを離れ、CDショップをうろうろし、全くわからなくなってしまった新譜を見て回り、ちょっといいな、とか、これはないだろう、とか一人批評する。それから雑貨屋が一緒になった本屋で変なおもちゃを見て回り、懐かしい少年時代を思い出しながら本でも一冊買おうか、という気にさせられる。

 財布の中身を見て千円札の一枚もなかったのを思い出す。これは無駄遣いをしないという点では良かったかもしれないけれど、ただ単に貧乏なのを思い知らされたという点では良くないことかもしれない。

 1階2階が吹き抜けているホールで名前もわからない男が新譜の曲を唄っている。ギター片手にマイクに向って叫んでいる。この街の駅前でたまに見かける路上パフォーマンスする奴らより、彼の方が声がいい。ぼくは2階で休憩用のソファーに腰掛け、その男のパフォーマンスを眺めていた。


 時が過ぎてゆく毎日。やる事もなく、金もなく、やりたい事もなく、恋人もいない。毎日がただ、過ぎて行けばいい。

 あれ、と感じた。何だろう?ぼくは何かを忘れている。そして今一瞬、何かを思い出した気がする。そう感じて立ち上がり、3階へのエスカレーターを上ってゆく。その上には駐車場しかない。車も持ってなくバスを乗り継いでここまで来たのだけれど、なぜか3階の駐車場へ行く必要があるように感じた。

 ゆっくりエスカレーターは上昇してゆく。ぼくの乗るエスカレーターには他に誰もいない。

 3階というか屋上に出る。外はすっかり暗闇に包まれていた。まだ真っ暗というわけではない。空が曇っているのですっかり暗く感じられる。

  ぼくは歩きながら辺りを見回す。たくさんの車が並んでいる。いくつか向こうでエンジンのかかった音がした。どこかの外車だ。

 さらにその外車に近づく。外車のライトが光り、外車はぼくに向ってきた。ぼくは駐車された車の並ぶ脇によける。

 そのワインレッドのボディーは横で一瞬止まる。車に乗る男は暗くて全く眩しくないのにサングラスをしていた。窓の内側を覗き込み、隣にドレスを着飾った可愛らしい女性が乗っているのを目にする。はっきりは見えないがきっと綺麗な女性だ。

 男はちらっとぼくの方を見て、すぐにまた車を走らせた。

 邪魔だ、と言いたかったのだろうか?きっとそれだけだろう。

  それとも、()()はぼくに、気づいた?と聞きたかったのだろうか。ひょっとしたらそうかもしれない。別にかまわない。それはそれで。

  きっと()()は気づくはずはないだろう。でもぼくはかれに気づいたんだ。恨みは脳裏に(つの)っていたんだ。10年前、ぼくから大切な何かを奪ったあの男、ぼくは彼を許さない。


 ()()に伝う。()()()()を取り戻すことが出来そうだ。きっともうすぐ。そして…


【一章終了】

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