1ノ3 探ソウ
秋の月が浮かぶ。月は四季関係なく浮かんでいるはずなのになぜか秋の月はぼくの記憶に焼きつく。いつかの記憶ほど涼しい季節ではなくなったけれど、確かに秋には月があったんだ。
秋の月が浮かぶ。ぼくは電車の車窓に浮かぶ月を眺めていた。仕事終りの時間に街へ行く。反対車線の電車は満員だ。こちら側の電車は町外れの高校から街中の方面へ帰る高校生ばかりが乗っている。
今日もいつもの一日だった。いつもと同じ一日を過ごしてきたけれど、学校へ行くのを止めてしまった中学生は、ぼくに言った。
「先生、いつもと何か違うね」と。
「何が?」とぼくは尋ね返した。
彼女はぼくをじっと見つめていた。ぼくは彼女の出ない回答を待てずに、先に答える。
「秋だから、長袖にしてみた。暑くて、大失敗だったけど」
「んんんん、違う。それとは関係ないよ~な」
「髪を切った。おとといだけど、ちょっと短くしすぎた」
彼女はにこやかになって、少し頷く。
「うんうん。すっきりした。そっちの方がいいんじゃない?」
「そう!ありがとう」
ぼくは素直に喜んでみる。
「でも、そうじゃなくて」
彼女はまた煮え切らない表情をし、ぼくに対してガンを飛ばす。いや、ただ見つめているだけ。彼女の一重の目はぼくを睨みつけているように見える。
やたらとじっくり見た割には首を傾げる。ああ、そうですか、と言いたい気分だが、そのままその話は終わった。
何も変わっていない?いや、ぼくは変わったよ。そう、登校拒否中学生に言ってやってもよかった。
ぼくは月夜の街へ繰り出す。不況の街の夜は閑散としている。歩く人はまばら、路上の車は渋滞を連ねている。
※
昨夜、降り出した雨は今日も降り続いている。ぼくはいつもの朝を迎え、喫茶店の窓際でカフェラテに振りかけたシナモンを混ぜていた。
雨の日に出掛ける人は少ない。街は昨夜から閑散としているようだ。
月夜の出来事を振り返る。
満月の消えた街から人々は姿を消した。そして店員よりも客の方が少なくなった居酒屋で、ぼくは一人焼酎を飲んでいた。その店で何かを思い出せそうだった。それが何なのか知りたくて一人酒を飲んでいた。
あれはきっと10年前だった。ぼくがこの町を初めて訪れた日のことだ。
でもやはり何も思い出せず、ただ時間が過ぎていくだけだった。
居酒屋で一人きり、雨の降り出しと共に客も減っていく。居心地の悪くなったぼくは大学時代の友人に電話を掛けてみた。
「確か、10年前、俺が一人旅したことあったよな」と、何気なくその友人に聞いてみた。
「さあ、そうだっけ。おまえそんな旅なんて行った?」
聞く相手が悪かった。そいつは昔から自分にしか興味のない奴だ。ぼくが10年前、どうしていたかなんて覚えているはずがない。無駄な電話だった。意味のない行動だ。
だから電話を切って再び自分の記憶に頼ってみようとした。
店を出た。街を徘徊しながら思い出そうとした。当時は今とは駅前もまるで違っていた。いくつかの路地を歩いたが、記憶がある場所には出くわさなかった。果たしてぼくは本当に昔、この町へ来たことがあるのだろうか?
酒の酔いが回る。雨の下の路上、輝くネオン、過去の記憶が少しだけ戻ってくるのを感じた。10年前のあの日、ぼくはある男に誘われて、居酒屋で夕食をごちそうになっていた。
そうだ、そうだった。
「一人旅してるんだ?」と、男はぼくに関心を持った。「俺も数年前にヨーロッパを旅したことがあってね、そういう旅している人を見ると、なんか話し掛けたくなるんだよね」
そうだ、そう、そんな話で、あの男はぼくを居酒屋に連れて行ってくれた。そしてどこかのこじんまりした居酒屋で日本酒を飲み交わした。
「20歳にはなっているよね」
「ええ、まあ学生ですけど」
「まあ、一応、未成年に酒をおごって、何かあったらね」
確かそんな話をして、居酒屋に入ったはずだ。その後、その男と何の話をしたか、そこまで詳細には覚えていない。男はこの町の出身で、年齢は5つくらい上で、痩せていて、色黒だった。黒いジャケットを着ていたような気がする。それがその男の印象だ。
でも男は途中からいなくなってしまった。1時間か、2時間か、あまり覚えていないけど、男はその後、10分待っても、20分待っても帰ってこなかった。
あの日、ぼくはその男に騙され、酒をおごった。怒りはあまりなかった。確か払った額が思ったより安くて、胸くそ悪い気分が一気に吹き飛んだためだ。
あの夜はよく晴れていた。星々が目立ち、大きな月が輝いていた。ぼくはかなり酒に酔っていた。気がついたら旅館の布団の上に寝ていた。夜中ふと目が覚めて、自分の今居る場所がどこなのか、と一瞬と惑ったくらいだ。でもぼくは飲みすぎて気持ち悪くて、その日どうやって帰ってきたかとかはどうでもよくなってすぐに眠ってしまった。
その翌朝、旅館の主人に聞いた。
「あの、昨夜、自分は一人でここに戻ってきましたか?」
主人は、「ええ、一人で普通に戻っておいでになりましたよ」と答えた。
それだけではない。わずかな記憶では、あの日ぼくはホテルに泊ったと記憶していた。あの日もその不思議な感じを持っていたはずだ。
『自分が泊まったのは本当に旅館だったろうか?』
何だろう?この、奇妙な相違は?そんな不思議な体験をしたのにすっかり忘れていた。酒に酔ったからだと思い込んでいたせいだろう。でも何かがすっきりしない。
奇妙な記憶。
忘れていた記憶を昨夜は少しだけ取り戻した。でもその記憶の中の町の風景は、夢の出来事であったかのように消えてしまいどこにも存在していなかった。昨夜歩いた街は過去の記憶と繋がらない。果たして本当にぼくはこの町へ来たのだろうか?と考え直させるくらい、町の景色を思い出せなかった。
今日も、何もない、退屈な時間が、喫茶店の隅っこで潰されてゆく。どれだけ雨が降っても、雨は溜まることがなく、循環を繰り返す。ぼくの日々は似たようにリピートされてゆく。その日々を変えるために、ぼくは今まであった暮らしを捨てて、ここへやってきた。
この町が好きだったから?いや、違うよ。ぼくはこの町に何かを探しに来た。少しだけわかった気がする。ぼくにはこの町でやるべきことがあるのだ。
テラスの隅の天井からぽたりぽたりと落ち続ける水滴を眺めていた。雨が続く。水滴は永久にそこでリズムを刻んでいるようだけど、いつか止まる瞬間が訪れるだろう。ぼくに繰り返される何かもいつか終わる。ぼくはその瞬間が訪れるのを望んでいる。
でも本当は恐い。わかるかな。本当に恐い。その瞬間を終わらせるのを恐れているのに、その瞬間の終わりを望んでいる。
きみならわかってくれるだろうか?こんなぼくの気持ちが。
※
晴れ渡る秋の空は心地よい。スカッとした一面の青空なのに気持ちはすっきりしない。求めたい感情はぼくの体を起こし、電車に乗らせて、ぼくを町の中心にあるいつもの駅まで連れてきた。
今日はいつもとは違う北口に降り立った。北口も南口と同じようにロータリーがあり、バス停がある。南側ほど発展しておらず、辺りには少し古い2,3階建てのビルが立ち並んでいる。その西側には新しいドラッグストアがあり、そのさらに西側に進んでいくと小さな公園にぶち当たる。この辺りは人通りこそ少ないが、新しい開拓地の一角だ。
ぼくは公園まで来て、バスケットゴールが傍にあるベンチに腰を下ろした。バスケットコートの地面はアスファルトで出来ていて、その周りを低いブロック塀が覆っている。座っても中で遊ぶ人たちの姿が見えるくらいの低い塀だ。ぼくはその外側のベンチに腰を下ろしている。高校生くらいの男の子たちがその中で3オン3を結構真剣にやっていた。
少し頭が痛い。風邪を引いたわけじゃない。これはいつもの反応だ。いつもぼくは楽しんでいる若者を見ると頭が痛くなる。いつだってぼくは机の上に座っていた。わぁーわぁー騒いでいた記憶は自分の学生時代にはない。思い出したくない記憶が頭を痛めつける。
忘れよう。その記憶はぼくに何の利益ももたらさないのだから。
繰り返される毎日を終りにしよう。それがぼくの今するべきことだ。
目を閉じる。
秋風が優しく、耳元を掠めてゆく。でも少年の声が響く。少し遠くに恋人どうしの笑い声が響く。頭は痛むばかりだ。
忘れよう。けど思い返せば、ずっと何もない毎日を繰り返してきた。それは10年前より前も同じだ。
どうしていいかわからなかった。中学生時代も一人きり、高校時代も一人、机に座っていた。あの日、あの旅に出た日、少しだけ何かを変えようとしていた。そしてあの日ぼくはぼくを変えられると感じていた。あの男に会うまでは、これまでの自分の生活を改めようと決心していた。
自分の感情を思い出す。少しずつ何かを思い出そうとしている。だってあの日、未来に希望を抱いていた。行動すればきっと出来ることもある、と信じていた。そして欲しいと思うものに手を伸ばそうとしていた。
だけどあの日が終わり、次の日になると感情はすっかり変わっていた。大きな穴が空いていて、その穴に全ての感情が吸い込まれていってしまうように、どうでもいい気分になってしまっていた。何もかもが、くだらなく、空しい出来事に感じられるようになっていた。
今もまだ空しい。でも今は、この穴を埋めて、欲しい物を求めたいと少しだけ感じられている。それがせめてもの救いだ。そのために自分はここに来ている。
どれだけ時間が過ぎたろう。いろいろと考えていたけど、相変わらず何も思い浮かばないままに時間だけが過ぎた。
空は暗くなり、バスケットコートにはもう誰もいなくなっていた。赤く丸い街灯がコートの中を照らしている。ぼくはベンチから立ち上がり、そのコートの中に入ってみた。
ボールを探した。バスケットボールを探したけど、そこにボールはなかった。そこに立つのはぼく一人だった。誰かにボールをパスしたかった。けれどパスする相手もいなかった。その前にボールもない。ぼくはずっと一人だ。
ずっと一人だった。
※
雨が降っても、槍が降っても、結局同じ朝が始まった。
古い家の2階、瓦屋根を流れる雨水、ざあざあ、ざあざあ雨は降り続く。そんな窓の外の風景を眺めている。一面灰色空。広がる雨空の風景。
雨が降っても、お日様が照っていても、いつもとさして変わらない。ぼくの相手は登校拒否をしている中学生の女の子。急に寒くなったせいか、赤いカーディガンを羽織って、英語の過去形を勉強している。季節は移りゆくけど、ぼくの行く場は移りゆかない。いつもと同じ一週間を繰り返す。脳の中身は少しくらい変わったろうか?
「I go、I went」
少女が発音練習をしている。少しは英語を覚えたようだ。ぼくの脳もそれとさして変わらない。いや少しは何かがわかったような気もする。曖昧表現は国会議員の先生方よりもぼくの方が酷いかもしれない。何をどうしたいのか、今日もはっきりせずにここに居る。
「何よ~、何かバカにしてない?」と、赤いカーディガンの中学生が言う。
「ん?何が?」と、ぼくは応える。
「何となく、その顔が、、、覚えが悪いなあって思ってるでしょ?」
「酷く気のせいだ」
少女は、そう応えたぼくににっこり微笑む。そしてオウム返しをする。「酷く気のせいだ」
さらに笑みをこぼす。さっきまで不貞腐れていた表情が嘘のようだ。
ぼくは何も答えない。ただ崩れて、可愛くない顔がさらに可愛くなくなった少女の顔を見ている。
「先生、おもしろいね。変なの」と、彼女は言う。
「そうか、そうかもしれないな。俺は変かもしれない」
そう答えてやった。
「ふふ」と少女は鼻で笑い、さらに笑みを増す。「普通、自分で言う。俺って変かもしれないって」
『そうだな、言わない』と答えたいが、なんか面倒くさい。この子との会話が面倒だ。「続き!読んで!」と、ぼくは少し強い口調で言う。
登校拒否中学生は少し不機嫌な顔をする。けど、「はい、はい、読みますよ」と言い、続きを読み出す。
でもこんな毎日に落ち着いている。どことなく、未来が来ないで欲しいと望んでいる。
このままがいい。ぼくは勉強ロボットのように、朝が来て、ここへ来て、少女に勉強を教え、夕方帰り、眠る。ただそれを繰り返す。製品寿命が来るまで、同じ事を繰り返す。それがいい。
自由を求めていた10年前、この町で、あの男はぼくに言った。
「でもいつかは畑を耕すだけの毎日になるのさ。朝起きて、畑に行って、水撒いて、夜が来て、家に帰って寝る。俺らは農耕民族だからな」
そんな話をしていた気がした。その意識を植えつけられた。きっとそれが楽だと感じるようになるのだと。きっとあの日、ぼくはあの男に魔法を掛けられたに違いない。その魔法が解けなくて同じ毎日を繰り返している。
魔法を解くべきか、迷う。きっと魔法は解けかかっている。その魔法は自分で解けるはずだ。いや、それともこの魔法はあの男にしか解けないのかもしれない。だから今日も宙ぶらりんなのか。
昼が来て、雨がふと止む。考えても答えは出ない。時は少しずつ進んでいる。このままであろうとしても、目の前の中学生はやがて大人になるだろう。その時が来れば、ぼくはここにいられない。
「先生、真面目な顔してどうしたの?」と、少女はぼくに尋ねる。
「いや、何でもない」
「そう」と言って、彼女はそれ以上何も聞いてはこなかった。
何でもないわけじゃないけど、何でもない事なのかもしれない。この生活がいつか終るという事、それはそういうどうでもいいのかもしれない。
※
その日もまた過去の記憶を探しに夜道を歩いていた。いつもと違うように記憶を頼らず適当に道を歩いて探していたら、知らない場所を歩いていた。
もう帰らないといけない。かなり遅い時間になっていた。雨も降り続いていた。
コンクリートで固められた川沿いの道を歩く。たぶん反対岸に渡れば自分の家がある辺りにまで戻れるだろう。恐らくその辺りを歩いている。
橋を照らす街灯の下に黒い傘が佇んでいる。傘は少しだけ動いた。緑色のトレーナーを着た背の高い男が持っていた。男は川向こうをぼんやりと眺めているだけみたいだ。
自分はその脇を通り過ぎて橋の上へと向おうとする。背高のっぽはぼくの方を一瞥する。
すると男は「ちょっと待てよ」と声を発した。
ぼくは立ち止まった。傘がぶつかったわけでもない。だから、その男が知り合いなのか、と考える。男の顔を覗き込む。知っている男だったろうか?この街に知り合いといえる相手はいるはずもない。ひょっとしたら家庭教師セミナーに一緒に参加していた社員の一人かもしれない。
「何か?」と、尋ねる。
男は何も答えない。髪は茶色に染めていて、短い。鼻がすっと伸び、目はくっきりしている。男のぼくから見ても整った顔立ちの男だ。その目にはどことなく人を吸い込むような独特の力がある。
こんな男に会ったことがあるだろうか?
「いつまでそうしているつもりだ」と、男は言った。
意味不明だ。いや、でも、その言葉はある意味合っている。
「何が言いたい?」と、ぼくは尋ね返す。
「おまえは何の為この町へ来た?今までの生活を変えるために、この町へ来たんじゃないのか?その為にこの町に来たのに、おまえはこんな所をうろうろしている」
男は幻覚だろうか?光の男のような存在かもしれない。
でも違う。男は確かに実体を持っている。どうして背高のっぽはぼくのしようとしている目的を知っているのだろう?ゾクッとする。不思議と顎がガクガクし出す。
「いいかい?」その背高のっぽは話を続ける。「人は誰だって欠点を持っている。おまえはおまえの過去に自信が持てずにいる。そして怯えている。それでいて、人生を変えようとしている。間違っているだろう?おまえは間違えだらけだよ。本当に人生を変えるつもりなら、まずはおまえの中にある弱い心を変えなくちゃいけないだろう?それもできずに何かを変えようなんてできるのか?」
心の中に男の声は響いてくる。事実はどうなっているんだ?
「あんたはいったい誰?」
男の大きな口がグイッと横に広がる。
「おまえはもう、気づいているんじゃないか?自分が何者なのか。そして、どうしてここに来たか、その理由を。まずは俺を知る前に、自分に気づくべきだろう?」
背高のっぽはそう言う。
ザアアアアッ、と急に雨が強まる。
緑の男はにやついたまま、ぼくの前を去ってゆく。その姿を追おうとしたが思うように足が動かない。金縛りにあったかのように、体はその場に止め付けられてしまっていた。
恐い。知りたくない。触れたくない。君もわかるだろう?誰だって嫌な自分なんて知りたくないのさ。嫌な自分には気づかないふりをしているだけなのさ。
それとも違う。それだけじゃない。真実をぼくは知っているのかもしれない。その真実を思い出すのを恐れているだけなのかもしれない。