第五章 龍よ、さらば -6
亜子は記憶を失っていたこの一年間のことを全て覚えていると言っていた。つまり、小林とのことも全て覚えているということだ。龍之介が人間に戻った今、亜子はどうするつもりなのだろうか。隅田川の花火を見ながら、亜子は迷っている、と言っていた。そして、ペットの龍之介に結婚しても一緒にいてほしいと言った。龍之介が人間に戻った今は、結婚しても一緒にいるわけにはいかない。亜子がプロポーズを受けた場合、当然、龍之介に別れが訪れる。それだけは嫌だった。せっかく人間に戻ることができたのに、亜子と別れるなんて、まして、あの小林に奪われることで亜子と別れなくてはいけないなんて、龍之介には耐えられなかった。
そんなことをグルグルと考えていると、龍之介の頬に急に冷たいモノが触れ、目の覚める思いがした。亜子がコーラの缶を龍之介の頬に当て、楽しそうに笑っていた。その笑顔を太陽のようだと思い、龍之介は感極まって涙ぐみながら亜子の手首を掴んだ。亜子は小さく「きゃっ」と言って、少しだけ驚いた顔で龍之介を見た。
「亜子。退院したら、ラブホテルに行こう。亜子とセックスしたい」
「なに言ってんの? どうしたの? 急に」
真剣な眼差しの龍之介に、亜子は戸惑いを隠せず、掴まれた手を少し引いた。龍之介はギュッと力を強め、亜子を引き戻した。そのまま立ち上がって亜子を抱きしめようとすると、体中に痛みが走り、「痛たたっ」と言って龍之介はよろけながら亜子にもたれかかった。亜子は龍之介を支えきれずに、そのまま芝生の上に倒れ込んだ。龍之介は、全身を地面に打ち付け、「うわっ」と悲痛な声を上げながら亜子の下になった。
「大丈夫? 生きてる?」
歪めた顔を緩めながらゆっくりと目を開けると、亜子が上から龍之介の顔をのぞき込んでいた。
「生きてるけど、しばらく動けない」
龍之介は亜子に心配してほしくて、少しだけ大袈裟に言って苦しそうな演技をした。
「どうしよう。わたし、看護師さん呼んでくる」
そう言った亜子の手を龍之介は掴んで引き留めた。
「亜子が小林のプロポーズを断ってくれたら大丈夫かも」
自分を卑怯だと思いながら、龍之介は亜子を真っ直ぐに見つめた。
「昨日、断わったよ」
亜子は龍之介を見つめ返しながら冷静に言った。予想外の言葉を聞いて、龍之介は何も言えなかった。
記憶を取り戻した亜子は、記憶を失くす前の自分の気持ちを思い出し、小林のプロポーズを早々と断っていたのだ。
龍之介がICUで眠っている間、亜子はできる限りのことを行動に移していた。龍之介の両親の記憶や学校への手続きに最後の魔法を使ったあと、小林には魔法で記憶の書き換えはせず、自分の記憶が戻ったことと、龍之介が好きだという気持ちを伝え、正式にプロポーズを断ったのだという。
「先生に正直に言ったの。記憶が戻った今、龍之介のことが好きで好きでたまらない、って。記憶を失くす前よりも何倍も何十倍も何百倍も好きだ、って」
龍之介は嬉しくて何も言葉が出なかった。体中の毛穴から細胞から、なにかじんわりした温かいものが噴き出すようだった。
亜子は月のような微笑みを浮かべた。不思議だった。今の亜子は、記憶を失くす前と、失くしていたときの亜子が混ざり合っている。月のような亜子は記憶を失くしていたときの亜子だ。その亜子が、記憶を取り戻した今でも顔を出す。亜子は記憶喪失を経験したことで、厚みのある女になったのかもしれない。
「ねえ、龍之介。龍之介が龍になる前から、もう一回やり直そう」
亜子が、いいことを思いついた、というように声を弾ませる。
「龍になる前って?」
龍之介が思い出そうとすると、亜子の顔がゆっくりと降りてきて、龍之介の唇を塞いだ。龍之介は一瞬放心すると、我に返り、痛みを堪え亜子の背中に腕を回した。亜子は初めて公園でキスをしたとき龍之介がしたように、何度も何度も龍之介の唇をついばんだ。龍之介は芝生の上に横たわりながら、亜子に身を任せ、これが夢でないことを祈った。
唇を離すと、亜子は
「龍之介が退院したら行こうね。ラブホ」
そう言って、悪戯っぽく笑った。改めて言われると何だか恥ずかしくなり、龍之介ははにかみながら微笑んだ。すると亜子は「わたしが教えてあげる」と、月のように微笑みながら囁いた。龍之介は亜子の口から思いもよらないことを聞いて、目を見開いて亜子を見つめたまま硬直した。亜子はそんな龍之介を見ると、二カッと笑って横にゴロンと寝ころび、大口を開けて腹から笑った。太陽の亜子が帰って来た瞬間だった。龍之介もつられて笑うと、病院の庭中に二人の笑い声が響き渡った。
もう龍には戻らなくていい。この体で死ぬまで生きていく。それがどんなに幸せなことか、首の後ろに芝生が貼りつくのを感じながら、龍之介は心の底から実感していた。
そして飽きるまで、亜子と笑い合った。噴き出る汗で肌を湿らせながら。
了
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。心より、感謝いたします。
また、貴重なお時間を、わたしの拙い小説に割いていただき、本当にありがとうございました。
皆様に、幸多からんことをお祈り申し上げます。




