第三章 亜子の秘密 -5
四月二十日
ゼミの小林先生に告白された。先生のことは尊敬しているけれど、わたしは先生の気持ちには応えられない。だって、龍之介が好きだから。あのバカ、ちっともわたしの気持ちをわかってない。
龍之介と司は一瞬、固まった。どうやらこの日記は、亜子の日常のことも書かれているようだった。始めの数ページは同じような内容ばかりで、影の正義のことは何も書かれていなかった。
「小林のヤツ、結構しつこく亜子を誘ってたのか……」
ボソリと呟く龍之介を司がキッと睨んだ。
「知ってたの? 姉ちゃんが他の男に言い寄られてたこと」
「いや、あの日、初めて知った。たまたま、三人で昼飯食べて、そん時に……」
「でも、龍ちゃんがもっと早く姉ちゃんに想いを伝えてくれてたら、あの日、姉ちゃんは泣いて帰ってくることもなかった。そしたら、こんなことにはなってなかったかもしれないね」
その声は怒りで震えていた。
司の言う通りだ、と思った。恥ずかしがらずに潔く亜子に想いを伝えていれば、亜子は小林に言い寄られて困り果てることもなかったし、何よりも、事故に遭った日、公園に行くこともなかった。公園に行かなければバイクに狙われることもなかったかもしれない。狙われていたことには変わりはないが、防げていたかもしれない。龍之介は改めて、自分を不甲斐無く思い、頭を垂れた。
司は落ち込む龍之介を無視して、鼻息荒くページをめくった。
五月三十日
俊美さんと二人で調査を始める。わたしたちも、光の正義の役に立ちたい。いつか影の正義と全面対決すると、吉中リーダーが言っていた。それまでに、こちらが有利になる情報を入手したい。
初めて日記に「光の正義」「影の正義」の名前が出てきた。龍之介と司は目を合わせた。それから一週間置きくらいのペースで、亜子が俊美と行動を共にしたことが記されてあった。俊美は亜子の二つ年上で都内に一人暮らしをするOLだった。俊美との活動記録の合間に、小林から言い寄られて困り果てている旨が記されていた。この数カ月の亜子の日常は、俊美と小林で回っていて、そこに龍之介への悪態が加えられている有様だった。
六月二十二日
影の正義のリーダーは伊藤遥だと思っていたが、それは表向きのことだった。わたしたちは、たまたまだけれど、本当のリーダーを突きとめてしまった。書くのが怖いくらいだ。俊美さんは、もうこんな探偵まがいのことはやめようと言った。
七月一日
俊美さんと相談して、わたしたちの情報を吉中リーダーに伝えることにした。早く言って楽になりたい。
七月七日
今日は七夕だ。わたしと俊美さんは、吉中リーダーの家に行って、とうとう伝えた。影の正義の本当のリーダーは、大御所様だ、と。わたしと俊美さんは、魔女の集会にはしばらく顔を出さないように、と吉中リーダーから言われた。
ページをめくると、日記は最終ページになった。
龍之介と司は金縛りにあったように、しばらく動けなかった。二人の呼吸する音が微かに部屋に響き渡っていた。
「司、知ってるのか? この、大御所様のこと」
龍之介がやっと口を開くと、司は数秒してから静かに答えた。
「……知ってるよ。魔女界の生き字引みたいな人で、誰もが信頼してる人だよ」
亜子は、とんでもない人にケンカを売ったようなものだ。単なる見せしめで狙われたのではなく、亜子も俊美も、完全に消されるところだったのだかもしれない。ところが、二人とも強運で命拾いした。亜子は記憶を失くしたが、俊美はそうではない。俊美はもう一度狙われるかもしれない。龍之介が司を見ると、司もこちらを見ていた。同じことを考えている目だ。
「司。この俊美さんと連絡取れるか?」
司は少し考えた表情をすると、急に思いついたように、「ちょっと待ってて」と言うと、部屋を飛び出した。しばらくすると、スマホを片手に持って入ってきた。亜子のスマホだ。
記憶を失くした状態の亜子にスマホを持たせるのは混乱を招くだけなので、郁子が保管していたらしい。
さっそく亜子のスマホを立ち上げて、ラインを開き、〝友だち〟の画面を開いた。何人もの名前が並ぶ中に、龍之介と司や両親の名前もあった。小林の名前を見つけたとき、龍之介はグッと顎を引いた。大学の友人らしき名前が並ぶ中に、吉中小巻と田山俊美という名を見つけた。「あった」と司が小さく言うと、さっそく俊美に「会いたいです」とメッセージを送った。
ちょうどその時、玄関から、ただいま、と声がして、亜子と郁子が買い物から帰ってきたのがわかった。司はスマホを机の引き出しにしまうと、龍之介と一階へ降りた。
和菓子の老舗『いたち屋』で、どら焼きを買ってきたので、みんなで食べようと言って、郁子がお茶を淹れてくれた。久しぶりの外出で、亜子はなんだか晴れやかな顔をしていた。機嫌がよかったのか、どら焼きを手で割って、龍之介に食べさせてくれた。
「リュウちゃん、美味しい?」
月のように密やかに見守るような笑顔で龍之介の顔をのぞき込む。龍之介は顔を熱くさせ、口をもぐもぐ動かしながら頷く。亜子の笑顔に胸が高鳴る。口の中のどら焼きを吐き出しそうだ。
――黙れ。俺の心臓。
龍之介はやっとの思いでどら焼きを飲み込んだ。亜子の大きな秘密を盗み見た重たい時間が嘘だったかのような幸せなおやつタイムに、龍之介は、この時間がいつまでも続くことを願った。
その夜、亜子はベッドで横になりながら、足元で丸まる龍之介に嬉しそうに語った。
「あのね、わたし、九月から思い切って大学に通ってみようかと思うの。そのほうが、早く記憶を取り戻せるかもしれないでしょ? ちょっと勇気がいるけど、新しく友人ができると思えば、案外楽しいかもしれない。どう思う?」
「すごくいいと思うよ。応援するよ」
亜子は「よかった」と言って喜んだが、龍之介は内心反対だった。大学で何か思い出して頭痛に襲われでもしたらと思うと、心配だった。そして、何より、記憶の無い亜子に、小林がやたらと接近してくるのではと考えると、龍之介は居てもたってもいられなかった。自分は龍の姿で何もできない。小林の挑戦的な目を思い出すと、龍之介はわなわなと震えた。でも、それ以上に、自分から行動しようとしている亜子を応援してあげたかった。
「休みの間、一から勉強しなくっちゃ」
亜子は楽しそうに笑った。龍之介は亜子の喜ぶ顔をもっと見たいと思いながら眠りに落ちた。




