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intermezzo ~水の灯し火~

間奏曲 ~水の灯火~


澄んだ大きな湖のほとりに、寄り添い合うように木組みの家が並ぶ小さな里がありました。

里の名前はアクアーティカ。

里の人々は、日々を水の恵みとともに、静かに穏やかに暮らしていました。


里の(おさ)には今年で七歳になる息子が一人──。


「──父様、父様」


「なんだい、ラグ?」


肩までのふわふわの水色の髪と、透明な(あお)の瞳で父親をじいっと見つめた息子に、父親は優しい声で返事をしました。


「父様、今朝マシューおじさんたちが話しているのを聞いたの。やっぱり僕には、僕よりうんと年上の兄様がいるって……」


とたん、父親は厳しい眼差しに変わり、教え込むように息子、ラグへと言い聞かせます。


「ラグ。よく聞きなさい。お前は私達のたった一人の息子。お前以外に息子はいないのだよ、それが真実だ。お前はここ、アクアーティカの次期里長。長となる者が噂話などに揺さぶられてはならない、いいね?ラグ」


「は、はい、父様……」


ラグは父親の鋭い視線にびくりと身体を震わせ、逃げるように父親の部屋を去ってゆきました。


そっと、足音を立てずに外への扉を開くと、少し離れた湖を目指して駆け出します。

藍色の裾の少し長い衣を風にはためかせ、小走りで目指したのは、湖の一角、ひときわきらめく水面(みなも)でした。


「ラグ・アクアーティカ、今ここに……盟約の歌を捧げん──」


水面に片手を当てて、小さな口からたどたどしく言葉をつむぐと、水面が揺らめき──。


「……こりずにまた来たのだな、ラグ……アクアーティカに祝福されし子よ……」


そこに映し出されていたのは、ラグと同じ空色の真っ直ぐな長い髪を持つ、若い女の人の姿でした。



***




──“真実を映す水”、そのことをラグが知ったのは一年前、ラグが六歳になりたての頃でした。


『この広い湖のどこかに、守り神様がすまわれているんだってさ』

『アクアーティカが水の守り人の名を持つのも、古い時代からの神様との約束って話だけど、どうなのかねえ……』

『里長様は知ってるみたいだよ、代々のなんとやらって……秘伝? なのかな?』


偶然話を耳にしたラグは父親にその事を尋ねましたが、父親は『時が来たらな』と黙ったきりでした。

何の知識もないラグには、ただ諦めるしかありません。


けれどある日、ラグは思いもかけぬ話を耳にすることになります。

それは、“ラグに十三歳年上の兄がいる”という噂話でした。


その話に守り神様のことなどすっかり忘れたラグは、父親に問い続けました。


『父様、僕には兄様がいるの?』

『父様、兄様に会わせて』

『父様、父様、父様……!』


……どんなに言葉を重ねても、父親から返ってくるのは厳しい眼差しと噂話への否定だけでした。


普段はとても温厚な父親の凍てつくような眼差しに違和感を覚えたラグは、その頃から夜にこっそりと湖に向かうようになります。

心の中のぐるぐるしたものをそっと吐き出すように、毎晩月夜にきらめく湖に話しかけました。


『父様は何か隠してる……兄様はいるんだ……きっと』


すると、どうしたことでしょう。

ぽつりと呟いた言葉に、水面の一角がまばゆく輝いたのです。


目もくらむほどのその一角から、ラグの耳元へと直接語りかけるような澄んだ声が響きました。


『少年よ、真実を知りたいのなら導きのままに……さあ、一緒に』


澄んだ声は、女の人のようでした。

しかし、辺りには誰も居ません。

――ラグは恐る恐る、導かれるままに、女の人の声を復唱し、輝く水面に片手を当てました。



***



『ラグ・アクアーティカ、今ここに盟約の歌を捧げん』


まるで声に水面が反応するかのように渦を巻いた後、静かになった水面には、ラグの姿ではなく、とても綺麗な──

そう、本人いわく“アクアーティカの守り神”の姿が映っていたのです。


……別名が“真実を映す水”。

女の人は人間ではなく、遠い遠い昔からこの地を守ってきたのだと言っていました。

時に“必要である者に必要であるもの”を見せながら──。


『少年、(なんじ)の名は?』


『ラグ……』


『ラグか、良い名だ。古代の水を(つかさど)る紋章からとったのだな。なるほど、アクアーティカにふさわしい』


『あ、あの……あなたの名前は』


『私か? 言うておろうに、守り神だと。うむ……そうだな、呼びにくいのならばセレーネとでも呼ぶがいい。ここからよく見える、月の名だ』


『……セレーネ様?』


『様、などと呼ばんで良いわ。セレーネと呼べ。お主は久しく出会えた“盟友”なのだから』


水色の長い髪を持つ守り神様は、月を映した柔らかな眼差しで微笑みました。

その微笑みは身体全体を包みこむように優しくあたたかな、抱擁のようでした。


“盟友”とは、代々のアクアーティカの里長の中でも極めて水に属した特性を持つ者でなければなることのできない、言わば“守り神様と心を交わすことのできる者”なのだそうです。

ラグには、この資質がありました。


『──セレーネ、僕は知りたい。僕には、兄様がいるのですか? だとしたら、僕のせいで兄様は』


『……ラグ、まずはお主の力で里をくまなく歩いてみよ。あがいて、あがいて、それでも見つけられぬ時に、またここに』


水面は再び渦を巻き、静かに戻った時にはただ、ラグのあっけな顔が映されているだけでした。



***



──それから一年と少し、今日のこの日まで幾度かセレーネと会したラグでしたが、セレーネはそれ以上のことを話すことはなく……


ラグは今日も、必死に問いかけました。


「セレーネ、お願いです、教えてほしい。僕は兄様がいるって信じています、その兄様が何故ここにいないのか、理由のカケラもつかめなかった……。だけど、セレーネ、僕は知りたい……! 真実を、何があったのかを…… そして、どうしても兄様に会いたいんです。僕の父様も母様も優しいけれど、僕は血を分けた兄様に会いたい……! お願いですセレーネ、にい──」


「やれやれ、困った盟友だ」


「セレーネ……?」


「お主は今日まであがいても何一つ手がかりをつかめなかった。しかしながら、お主は今日までにひとつのことをやり遂げた……。のう、ラグ? わかるか? お主は今日までに三万回、“兄様”と口にした。──途絶えなかったその想い、受け取ろうではないか」


──ふいに、水面が水しぶきを上げ、人の形をしたものが湖上に浮かび上がりました。


それは次第に明瞭になってゆき、やがて水色の長い髪を背中で一本の三つ編みにした長身の青年となり──。

額に巻かれた緑の布には、アクアーティカの紋様が染め上げられています。


「に……いさ……ま……?」


現れた姿に涙声でラグが語りかけると、穏やかな微笑みが返ってきました。


“急に意識が飛んで、何が起きたのかと……しかしまさか、アクアーティカと繋がれるなんて。……もしかして、もしかしなくても。君は私の弟くんですか?”


「──っ、はい……っ!はい……! 僕はあなたの弟、ラグです!」


“ラグ……古代の……。素敵な名前ですね。私はアウィス。父上と母上はご健在ですか?”


「アウィス……兄様はアウィスというのですね……! ずっと……ずっと知りたかった……です……。……父様と母様は元気です……が…… どうして……どうして兄様がいないなんて嘘を……っ」


小さなラグを抱きしめようとしたアウィスは、自らの肉体は別の場所にあると気付いて、上げかけた両手を下ろします。


アウィスは知っていました、自分の存在がアクアーティカに隠蔽されていることを。

新たに弟が生まれて、次期里長になる立場となったことも。



***



──それはラグが生まれる少し前のことです。

アクアーティカには、十一歳になる“忌み子”がおりました。


何故その子が忌み子なのか……

それは、その子の能力にありました。

その子は、水の里アクアーティカなら誰しも持つ水の魔法の力の他に、アクアーティカでは禁忌とされる“(ほのお)の魔法”の才をも備えて生まれてしまったのです。


それだけではありません。

その子はさらに、風や土、光に闇、ありとあらゆる属性の魔法の資質を持ち、十一になる頃には全ての魔法を難なく操りました。

まるで手遊びをするような手軽さで、その子は強大な魔法をも駆使してしまったのです。


ある日、水辺で鳥をかたどる炎の魔法を使い遊びながらにっこりと微笑んだその子に向かい、一人の男性がそっと歩み寄りました。


その男性こそ、ラグの父親であり里長、そして対面したその子こそ、里長の実の第一子、アウィスでした。


里長はアウィスの肩に恐る恐る触れ、今から少し旅行に行こうとアウィスを馬車に乗せました。

馬車はいつ用意されたのか、静かに里を走り去り、後ろ窓を振り返ったアウィスの目には、神妙な面持ちの里の皆が映って……しばらくして見えなくなりました。


どれほどの時間が経ったのかおぼろげになった頃、やがて馬車は大きな街に着き……

里長は街の中央の噴水の太いへりにアウィスを腰掛けさせ、『ここで少し待っていなさい、すぐ戻る』と言い置きして──。

……そして、ずっと、ずっと、アウィスが暗くなるまで待っても戻っては来ませんでした。


──アウィスは魔法の資質もさることながら、数々の書物の知識にも長けていました。

そんなアウィスですから、己を避け続けていた里長からの旅行の誘いに戸惑い、こっそり光の魔法で道しるべを作って帰り道を記憶しておりました。


けれどアウィスが帰ることは、ありませんでした。



***



“──ラグ君、私はね、このアクアーティカにおいて毒だったのです。強い力は支えになります、しかし強すぎてはいけない。強すぎる力は暴発を招きかねない、危険なものなのです。父上は私を追放することでこの里を守ったのですよ”


穏やかに、ごくごく穏やかにアウィスが語ると、ラグは肩をふるわせました。


「……兄様……、……でもっ、でも僕はなにかおかしいと思う。追放して……兄様がいたことを全部隠して、何もなかったみたいに過ごして……そんな、そんなの、絶対におかしいっ」


ラグの両目は今にも零れ落ちそうな涙で溢れています。

アウィスはどうしようかと戸惑い苦笑いすると、再び右手をラグの肩へと伸ばしました。


──ぱしゃん。

弾力のある水がほんの少し跳ねて、アウィスの右手の先が消えてなくなります。


「あ……」


“安心して下さい、ラグ君。この身体はおそらく水で形作られているのでしょう。少しの間ラグ君と私の意識を繋ぐために、守り神様が奇跡をくれたのかな?”


おどけるようにウインクしたアウィスに、ラグはぽかんと口を開けました。


「兄様はすごいです。僕なんかよりたくさんのことを知っていて──あ! 兄様、兄様は今どこにいるんですか?」


“私ですか? そうですね、里からだと……いえ、これは言わずにおきましょう。ラグ君がもう少し大きくなったら、いつかじかに会いましょう? 私も可愛い弟とゆっくり話がしたいですし”


「はいっ、ぜひ! いつか……いつか僕、兄様が帰って来られるように……あきらめないで里のみんなに訴え続けます! だ……だめでもきっと、きっと、どこかで会って下さいね……っ。僕、僕今日お会いしてわかりました、僕、兄様が大好きですっ!」



***



ラグが真剣にアウィスを見つめると、アウィスはくすっと笑います。


“ふふ、ありがとうございます、ラグ君。ねえ、ラグ君? 私は今まで、皆から恐れられていました。でも君は私を求め、大好きだなんて言ってくれました。……ラグ君、『僕なんか』ではないですよ、ラグ君は今日、私に光をくれたのです。とってもとってもあたたかな宝物を──”


「兄様……?」


“ありがとう、ラグ、私もあなたが大好きです。……もう、時間切れのようですね。また、会いましょう”


ざあっと、強い風がラグの正面から吹き抜け、水で形作られたヒトガタは湖へとかえり。

静かになった水面には、セレーネがただ微笑んでいました。


「セレーネ、兄様は」


“──案ずるな、あやつの意識は遥か彼方の肉体へ無事戻っておる。もう目を覚ましたようだ”


聞き慣れたセレーネの声に、ラグはもうこの場にアウィスがいないことを悟ります。

ラグはセレーネを見据え、ありがとうございました、と深くおじぎをしました。

その両目からは、ぽたり、ぽたりと水がしたたっておりました。


“忌み子は恐ろしかったか?”


「──いいえ。いいえ、セレーネ。兄様は、アウィス兄様は、優しいお人でした」


“……そうか。お主は強いな”


「いいえ、僕には兄様のような力は……僕は水の魔法も少ししか……」


“ラグ。強さとは、魔法の力の強さではない。……どんなに強大な力を得ても、大切なものを持ち合わせねば人はもろいものだ。──誰かを想い続ける心、よどみなき魂。愛こそが、何物にも勝る。そしてお主は救ったのだよ、大好き、という素直な言葉で、あやつの凍った心を解いたのだ”


「セレーネ……」


“お主は次期アクアーティカの長にふさわしい。自信を持て、ラグ。お主なら……いつか新たな風を──”



***



セレーネの言葉は次第に小さくなり、その姿までも、泡のように消えてしまいました。

きらきらと輝く水面には、ただぽつんと、ラグの姿が映し出されて。


──その日から、何度ラグが湖に呼び掛けても、セレーネが姿を現すことはありませんでした。


それはいつしか幼き日の思い出となり、いつまでもラグの心に光を灯し続けます。


大人になり幼なじみと結婚したラグは、かつてのラグと同じ年頃の娘に優しく語りかけました。


「──それじゃあセレーネ、お話の続きをしようか。君の伯父……私の兄はね、それから遠い都にエスタシオンっていう学園をつくったんだ。その学園にはね、どんな人でも入れる」


「どんな人でも? セレーネみたいに、力がうまく抑えられなくても?」


「もちろん。セレーネにはきっと、力の抑えかたを優しく教えてくれるだろうね」


「いいなあ! セレーネ、そこ行ってみたい! でね、伯父様にも会って──」


「セレーネ、あのね、セレーネの伯父様は……アウィス様は、亡くなったんだ。病気だったんだよ、徐々に身体の力がなくなる病でね、長く患っていた」


ラグは、肩にかかった緩く長い三つ編みの髪を背中に回して、セレーネを抱きかかえ、そっと膝に乗せます。


「──でも、そんな病気を抱えながら、後に生まれ来るみんなのために、誰でも入れる広い広い学園をつくった……すごいと、思わないかい?」


セレーネと呼ばれた娘はラグの胸にそっと額を預けると、一筋の涙を流してから、ぽつりと呟きました。


「強い、お方だったのね」



***



──守り神、セレーネからもらった名前を持つ愛娘の言葉に、ラグはゆっくりと、嬉しそうに頷き。


「父様と同じくらい」


次の言葉を耳にして、思い切りセレーネを抱きしめました。




──きらりと、誰にも知られず水面が柔らかく光っていました。




*間奏曲・おわり*

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