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いちご同盟




 いちご畑で出会った少女たちは、梅雨時期の休暇で本当に各地にいちごを植えてきたそうだ。

 休暇の最終日、みどりの獣人を訪ねてバルバラの屋敷にやってきた全員が口を揃えて報告した。


「考えてみれば、いちごって春先の食べ物なのよね」

「植えてきたのはいいけれど、すぐに枯れてしまうかも」

「考えなしだったかしら。でも、あの土地の人たちがなんとかうまくやってくれるかもしれないわ。そうしたら、みんながいちごを育てて、来年にはいちご畑ができているかもしれない!」

「そうよ。秋にだってまた休暇があるわ。そのときにもいちごを植えに行けばいいのよ。何回でも植えたら、そのうち私たち以外にも協力してくれる人が現れるかもしれないし!」


 かもしれないばかりで何も確かなことはなかったけれど、世界を変える準備が彼女たちの手によって着々と進んでいるように見えた。

 中庭に茶器を揃え、急遽ティーパーティを開催したバルバラは、茶菓子のクッキーが減っていないか、紅茶のおかわりが必要かどうかを気にしていなければならない。みんなは「みどりの」を気に入って、すっかり恐怖心をなくしたようだ。彼を真ん中に置いて、クッキーはいるかお茶はいるかと世話を焼いている。


「ねえねえ、獣人さんはいくつなの?」

「獣人さんも、私たちみたいに誕生日を祝うのかしら?」


 みどりの獣人は幼い少女たちに取り囲まれ、きゃぴきゃぴとした話に巻き込まれるのを、戸惑いながらも受け入れていた。なにかを訊ねられればだいたい答えたし、笑ったのかなと思うような吐息を聞いたときにはバルバラが一番驚いた。だって、彼が笑ったところなんて、一度も見たことがなかった。


「さあ。誕生日というものがよくわかりませんが」

「生まれた日のことよ。私はね、春のたよりが来てから三日あとに生まれたって聞いたわ」

「私は冬よ。次の年が来る直前だったの」

「獣人さんは? どんな季節に生まれたの?」


 わかりません、ともう一度答えてから、彼は考えるようなしぐさをして付け加えた。


「わかりませんが、おそらく、夜かと」


 これに対し、少女たちは両手を揃えて「きっと満月の夜ね」と瞳を潤ませる。みどりの獣人の瞳が月のように黄金だからだろう。それは彼が言葉を交わせるようになってすぐに、バルバラが言ったことだった。なんだか彼女たちと同じ思考をしているのが悔しいなと思う。

 バルバラのほうが彼と一緒にいる時間は長いし、話しかけた言葉だって多いはずなのに。

 バルバラの言葉は、ちゃんとみどりの獣人に届いているのだろうか。響いているのだろうか。どうも、彼女たちの高い声のほうが彼の内側に染み込んでいっているような気がしてならない。


 ──ねえ、あなたはわたしの親友でいてはくれないの?


「獣人さん、今度私の屋敷にいらっしゃいよ。庭の花菖蒲が見事なのよ」


 ──うちにだって花は咲いてるわ。毎日、一緒に庭を散歩してるんだもの、今さら菖蒲なんて珍しくもないのよ。


「あらずるいわ、それなら私のところにも来てくださいな。おいしいいちごパイを用意するから」


 ──いちごパイなら昨日食べたわ。ミートパイのほうが好きだって彼は言ってた。あなたは知らないでしょうけど、わたしにはちゃんと教えてくれたんだから。


「抜け駆けは無しよ。あのね、獣人さん。私のところにも鳥の獣人さんがいるの。今薬を減らしているところでね、あなたのように薬がなくても人と共存できるようになったらいいなと思ってるのよ。だからぜひ、遊びに来て。話し相手になってあげてくださいな」


 ──話し相手ならあなたがなってあげればいいじゃない。わたしの真似をして、獣人を買ったの? あなたはここにいる友人たちで満足しているんでしょうよ、なのになんでわたしの「みどりの」まで仲間に入れようとするの。


「俺に、できることでしたら」


 ──「みどりの」はなぜ、断らないの。



 五人の少女とみどりの獣人は、朝露を散らしたクチナシの香る庭園で、次の約束をしていた。

 次は私のお屋敷で。

 次はいちごパイを持って。

 次は鳥の獣人も一緒に。


 バルバラがクッキーの補充を頼もうと使用人を探しに行っているあいだに、それらの約束は交わされたようだった。


 戻ってきたとたんに少女たちがくすくすと笑って、バルバラが何かあったのかと訊ねても「なんでもないの」「そう、なんでもないの」と言って顔を見合わせ、またふふふと笑うだけ。そのあと「今度教えてあげるわ」と言っていたが、バルバラは別に知りたくもなかった。


「そう。じゃあまた今度でいいわ」


 失礼とわかっていて、クッキーを補充したあとバルバラは席を外す。


「あら、何よバルバラ。怒ったの?」

「いいじゃない、女の子には秘密がつきものよ。いちいち気にしてたらやってられないわ」


 なぜだろう。

 なんだかとても、気分が悪い。


「……べつに怒ってない、ちょっと歩きたい気分なだけよ。好きにくつろいでいてちょうだい」


 彼女たちの台詞を振り切る。鬱陶しいとしか感じないのは、彼女たちを友達と思っていないからだ。

 早く帰ってほしい。そしてできればもう遊びに誘ってくれなくていい。せっかく仲間に入れてくれるのに、そんな恩知らずなことを思った。





 てくてくと歩いていくと、八重咲きのクチナシがバルバラを取り巻いた。低木のクチナシはきちんと整えられ、道を塞ぐことがない。濃い緑と混じりけのない明るい白が鮮やかだ。

 ぱちんぱちんと枝を断ち切る音が聞こえてきたのは、どれくらい歩いた頃だったろう。

 胸騒ぎがしたのに、バルバラは足を進めずにはいられなかった。


「……あ」


 そして見つけたのは、懐かしささえ感じる黒髪。馬のしっぽのように垂らされたひとつ縛りの強情な髪が、朝露で濡れている。

 その人物が足音を聞き付けて、こちらを振り向いた。

 久々に出会う、バルバラの元親友は目を見開いて裁ち鋏を取り落とした。


「お嬢様……っ」


 そばかすの浮いた顔を青ざめさせ、彼女はすぐさま地面に平伏した。


「ご、ごきげんようございます、お嬢様」


 声が震えている。


「うん……ごきげんよう。あの、あなた、」

「おっ、お許しを! お許しをお嬢様!」


 震え声が、激しく言葉を吐き出す。バルバラは、後ろからつき飛ばされたかのように舌を噛んでしまって、口をつぐんだ。それを彼女はどう捉えたのだろうか、さらに頭を低く、いっそ額を地面に擦り付けて、許しを乞う。


「どうかお許しくださいませっ。わ、私などをお側においても良いことなどありません! 私には仕事もございますし、こんなっ、こんなふうに汚れておりますでしょう? 華族のお嬢様が私のような使用人を親友だなどとおっしゃってはいけません」


 彼女の様子は、まるで誘拐犯に許しを求める子どものようだった。バルバラは彼女を取って食いやしないし、監禁だってしない。けれども彼女にとってバルバラは脅威なのかもしれなかった。


 家に帰してくれなかったバルバラ。

 次は檻に監禁されるかもしれない。だってバルバラは華族の娘で、権力があって、願ったことはたいてい叶えられるのだから……。

 そんな恐怖が、彼女の声から、揺れて潤んだ瞳から、察することができた。

 それなのにこの屋敷の庭師の手伝いをしているのは、その庭師が彼女の父で、唯一の家族だったからだ。彼女はここから逃げられない。バルバラに捕まる恐怖に怯えながら、二年、この庭で仕事をしてきたのだろう。


 この女を親友などと呼んでやるものかと思っていたのは自分なのに、強い胸の痛みを感じる。

 親友だった人に、おまえなど親友でもなんでもないと思われたのは、きっと、バルバラのほう。


 どうして叶わなかった。

 ただ、一緒にいたかっただけだった。

 ただ、そばにいてほしいだけだった。

 他の人よりもバルバラのことを優先してくれる、そんな特別な関係が心地良かったのに。


「あ……お嬢様、うしろに」


 彼女がふと顔をあげて、視線をバルバラの背後に投げる。振り返る気力もなかったから、バルバラはこれだけ言って再び歩き出した。


「もうあなたと遊ぶことはないわ。安心して」

「え」


 目を見開く彼女の琥珀の瞳が好きだった。戸惑う彼女にきらびやかなドレスを着せては、あれが似合うこれが似合うと着せ替えごっこをするのが楽しかった。誕生日には普段彼女が着ている質素なワンピースに似合う花の髪飾りを贈るのが、毎年楽しみだった。

 バルバラは、彼女を自分の所有物にしたかったわけではないのだ。彼女を怯えさせて、支配したかったわけでもない。

 お互いがお互いを一番に思うような、特別な友達でいたかった。それを最初に破った彼女をバルバラは許さなかったが、かよわい少女を力ずくでそばに縛り付けたバルバラのことを彼女こそ許さないだろう。


 なのにどうしても謝罪の言葉が出てこない。

 歩き出した足は止まらず、彼女の横を通りすぎ、クチナシの迷宮に迷いこむ。

 空を見上げると、いつの間にか曇天が広がっていた。果てのない曇り空が、どこまでもどこまでも続いている。空気が重たい。雨が降るのかもしれない。放置している客人たちを帰宅するよう促す必要があると思ったけれど、花やかで賑やかな空間に戻るのがすこぶる億劫だった。


 しかし、ぽつりと頬に当たるしずくに気が付いて、戻らないわけにはいかなくなる。

 そしてようやく振り向いて、そこに人がいたことに飛び上がるほどびっくりした。


「わ……っ、あなた、いつから……?」


 誰かが来ていたことはわかっていたが、無視をして歩いてきたからもう戻ったものと思っていた。けれどもみどりの獣人は、相変わらず表情の読めない顔で立っている。三日月のように細く、縦長だった瞳孔が少し広がってバルバラを捉える。

 彼はずっとあとをついてきていたのだろうか。太いしっぽでバランスをとって、筋骨逞しい足でたしたしと歩く身体の大きなリザードマン。皮膚の大半は布に隠れているが、それが象のようにざらざらで硬くて、お腹だけはちょっと柔らかくて温かいのをバルバラは知っている。


 馬に似た鼻面を、少しバルバラに近付けて彼は言った。


「あなたの客人たちが帰り支度をしています」


 執事がいいようにしてくれたのだろうと思って、バルバラはうなずいた。


「そう。なら、大丈夫ね。そろそろ雨が降りそうだったから」

「あなたは……」


 みどりの獣人が言いさして、やめる。ぱちち、ぱちち、とまばたきが増えた。


「なあに? 獣人はあんまり雨が好きじゃないって聞いたわ。あなたも早く中に入ってちょうだい、じゃないと濡れちゃうわよ」


 笑って見せても、彼が笑い返すことはない。言いよどんで、そのまま、固まっている。

 だがやがて、彼はぽつりと一言こぼした。静かで

独り言じみた口調だった。


「あなたから、クチナシの匂いがする」


 そりゃそうだろうと笑いかけて、ふいに息をするのが苦しくなる。

 もしかしたら始めて、この獣人から言葉をかけられたのかもしれない。そんな気がした。いつも答えるだけの彼が、話題を変えて、自分の思ったことを言葉にしたのだ。

 泣きたい気持ちが、小雨と共に発露する。


 バルバラは思わず、みどりの獣人を短い腕で抱き締めていた。背丈も何もかも足りないけれど、全身で包み込みたいと思った。ほとんど衝動だ。

 けれども獣人は、それを、許容した。


「どうしました」


 簡潔な問いかけの数秒後、ためらいがちにバルバラの背中に硬い手が添えられる。ぽん、ぽん、と慰めるように軽く叩かれて、びっくりした。彼にも意思があるのだと改めて感じた瞬間だった。


「なんでもないわ……」


 これを手離すなんてありえない。バルバラは温かい獣人のお腹に顔を埋めて、強く思った。


 ──この人はわたしのものだ。わたしのものだ。わたしのものだ!

 取り上げようとする人には、わたしが近付かせない。


 胸の奥からふつふつとわいてくる、どろりとした熱をもて余す。


「……みんなのところへ戻りましょ。こっちへいらっしゃい」


 バルバラは彼から離れ、その手を握った。茶器を用意した場所まで戻るあいだ、みどりの獣人は何も言わなかった。






 勇み足で戻ると、友人たちはすでに迎えの馬車を用意してもらって、すぐにでも帰路につけるというところだった。


「もう。ふたりしてどこかへ行っちゃうんだから」


 ぷりぷりと怒る少女に、別の子がにやにやする。


「この子ったら本当にみどりの獣人さんが気に入っちゃったんだから。バルバラ、気を付けないとだめよ、この子に持ってかれてしまっては取り返せないかもしれない」

「まあ、私をなんだと思ってらっしゃるの」

「あなたに奪われるくらいなら私が先にもらい受けるわよ」


 好き勝手に言う彼女たちを、衝動的に張り飛ばしそうになる。けれども右手を左手で押さえつけて、我慢した。


「雨が降る前に、早くお帰りになったほうがよろしいのではなくて?」


 がんばってそれだけ言うと、彼女たちは口を尖らせてピーチクパーチクと騒ぐ。


「そんなに邪険になさらないで。冗談じゃないの」

「でも私、譲っていただけるのなら何より彼を大事にするわよ」

「それなら私だってよ。バルバラが彼に与えるものよりもうーんといいものを差し上げてみせるわ。バルバラ、いっそ勝負しませんこと? 彼を賭けて私と戦うの、どうかしら」

「わあ、あなた本気!? 獣人さんを気に入ったのはいいけど、そこまでだったなんてね……バルバラ、あなた受けてあげてくださらない? なんだか姫君を賭けて決闘する騎士みたいで、ちょっと楽しくなってきたわ」


 わあわあと囃し立てる女も、本気でバルバラから「みどりの」を奪おうとする女も、何も考えず決闘を楽しみにする女も、ぜんぶぜんぶ憎たらしくてならなかった。

 バルバラは、近くに壁があったら迷いなく蹴り飛ばしていただろう。


「ねえバルバラ、私本当にその獣人さんがほしいわ。決闘でもなんでもするから、私に譲ってくださらないかしら……」

「絶対に嫌よ!」


 食い気味に、バルバラは怒鳴った。以前、メイドがみどりの獣人をデッキブラシで洗おうとしていたときよりも、もっと苛烈な怒鳴り声だった。


「彼はわたしのものなのに……取ろうとするならあなたは泥棒と同じよ! この盗っ人! さっさと出ていってちょうだいっ」

「ちょ、ちょっと、そんな言い方ってないと思うわ。落ち着いてちょうだいよ」

「なぜ落ち着かないといけないのよ!」


 盗っ人を擁護する女も、敵だ。

 敵だ。敵だ。敵だ。


 バルバラはみどりの獣人の服をわしづかみ、ぐいっと引っ張った。


「この人は二度とあなたたちに会わせないわ。帰ってください。そして一生顔を見せないで!」

「そんな、そんなのはあんまりよ! 私たち友達なのではなかったの?」


 友達。どこが。

 顔面蒼白で、彼女らはバルバラに取りつこうとする。けれども無慈悲に、それらを弾いた。


「わたしのものを取ろうとした人に、言われたくないわ。あなたたちなんか友達じゃない! ただ話してただけの人よ、単なる知り合いというのよこういうのは」

「ひどいわ、仲良くしていると思っていたのに」


 五人ともが一様に悲壮感を漂わせるから、バルバラは鼻で笑った。


 バルバラに内緒でみどりの獣人と約束を交わそうとするような女を、友達にするはずがないではないか。向こうだって、みどりの獣人目当てに来ていただけで、バルバラに会いに来たわけではないだろうに。そういう口のうまい女は、すぐにバルバラを騙すから嫌いだ。庭師の娘とおんなじだ。


「いいから帰って! 帰ってよ!」


 このあとバルバラは、彼女たちからどんなに手紙が来ても、贈り物が来ても、そのまま突き返した。みどりの獣人と一緒に小部屋に籠って、使用人すら入れることはなかった。


「何を、怖がっているんです」


 あるとき獣人が言った。

 食事も着替えるものの用意も自らの手で行うバルバラを、彼はそう評した。


「怖がってなんかないわ」


 むしろ最初からこうすべきだったと思うくらい、安寧の日々を過ごしている。バルバラは彼の着替えをたたみながら、笑った。バルバラの蒼い瞳には、瞳孔を狭めて食い入るようにこちらを観察する獣人の姿が写っている。


「ねえ、あなた、前みたいに外に出たい? あの女の子たちとお話をしたい?」


 わたしを諭そうとしたって無駄よ、とばかりに先手を打って訊ねてみると、彼はやはり無言を貫いた。バルバラはそれをわかっていたので、強い口調で言い切った。


「絶対に許さないわ」


 みどりの獣人は、床に座り込んだまま、薬漬けだったときのように静かにうつむいた。





 そうやっているうちに、また冬がやって来た。あの女の子たちは本当にいちごを植えたのだろうか。どっちでもいいが、それの報告を土産にして屋敷を訪れるのはいい加減やめてほしい。

 とりつく島もなく、バルバラはすべてを遮断する。


 庭師の娘と部屋に籠ったときはわりとすぐに執事が注意しに来たが、今回は眉をひそめられるだけで何も言われなかった。おそらく相手が獣人だからだろう。

 獣人を部屋に閉じ込めても困る者はいない。

 けれどもそれが、少し、悲しい気もした。ぜんぶバルバラのせいなのに、それでも、助け出してもらえないみどりの獣人がかわいそうに思えた。


「あなたを逃がしてあげられる人が、現れたらいいのにって思うことがあるわ……」


 雪の降る夜、暖炉のある部屋に移ったふたりは、絨毯の上に座っている。けれどもバルバラは薄い寝間着のまま、冷気をまとった窓ガラスのそばに腰かけている。カーテンの隙間から、さらさらと流れていく白い結晶を眺め、つぶやく。


「俺を、逃がす……」

「そう」


 振り向いて、暖炉の炎に照らされた黄金の瞳を見つめた。彼も薄暗い窓際にいるバルバラの濃い青の瞳を見つめ返した。


「あなたを見つけたのがわたしで、残念だったわね」


 返事はいらなかった。彼は答えたくない、答えられない声かけには口を閉じることが多い。余計なフォローを入れるより賢明だ。バルバラも、それに助けられることが多々あった。特に、ふたりで部屋に籠るようになってからは。


「そう思うなら、やるべきことがあるのでは」


 なのに、こんなときばかり、彼は言葉を紡ぐ。彼にとって一言一言は繊細な雪の精みたいなものなんじゃないかと時々思う。それくらい、彼は言葉を出し渋るし、いざしゃべるときはたいていゆっくりした口調だった。


「あなたの友人たちは、悲しんでいると思います」

「あの女の子たちのことを言ってるなら、見当違いよ。だってあの子たちはあなたに会いたくて、わたしの機嫌を取ろうとしているんだもの。そんなの、友達って言わないわ」

「しかし」

「いいのよ! あんなのはいらないの! わたしにはあなたがいるんだからそれでいい!」


 さえぎるように叫ぶと、彼は口を開くのをやめた。


 なんだか息苦しい、と思った。

 いつまでこうしていればいいんだろう。彼を外に出さずにいるのは安心だけれど、自分が外出しなければならないとき、反動のように不安が増す。

 また執事がバルバラのいないうちに彼を逃がしてしまっているのではないか。使用人が、あの女の子たちが、彼を外に出して自分のものにしてしまうのではないか。

 気が気じゃなかった。


 気が急くような心地で、その後もぐずぐずと春を迎え、夏を過ごし、秋の木枯らしを室内から眺めた。

 そんな折、使用人から噂を聞いた。


 獣人の本能を抑える薬を減らしすぎたご令嬢が、獣人の怒りを受けて重傷を負ったという話だった。

 もしも、鳥の獣人を買ったあの子が噂のご令嬢なのだとしたら、調子に乗るからだとしか言いようがなかった。なんでもかんでも手に入れようとするから、そういうことになる。


 しかし話はそれだけで終わらなかった。真偽のほどはわからないが、娘に怪我をさせた獣人を、一家の主が殺処分したらしい。そして南で起きていた獣人との陣取り合戦に参戦したというのだ。


 結果は、人間側の大敗。数年前、市場の人が「獣人も容赦しなくなっている」と言っていたのは、年を重ねるごとに顕著になってきているようだった。獣人はもともと身体能力が高い生き物なのだ、いくら道具を使ったところで個々の人間は弱い。そのぶん卑劣な戦略で勝とうとするから、獣人は悲惨な死に方をする。そして獣人が怒り狂う。そんな魔のループが出来上がっていた。


「いくらなんでも無礼ではありませんか! どうぞお引き取りを!」

「お引き取りくださいませ!」


 何やら屋敷が騒がしい、と思ったのは、南の敗戦の報を聞いてから幾日もしない晩夏のことだった。

 執事やメイドの制止をくぐり抜けて、たったひとり、押し入ってきた少女がいる。彼女はバルバラとみどりの獣人がいる部屋の扉を豪快に開け放ち、その隻眼に激しい感情を宿らせていた。ただ、彼女の抱える感情が怒りなのか悲しみなのか、はたまた焦りなのか、バルバラには読めなかった。


「バルバラ」


 少女は甘さも幼さもない低い声で呼ばわった。いちご同盟と名付けられた、いちごを植える少女たちの集団はみんなほわほわとして春の日のモンシロチョウみたいなものだった。でも、今強引にバルバラを訪ねてきた少女は、いちご同盟のうちのひとりだった以前の彼女とは似ても似つかない。

 感情を隠そうともしない、熾烈な隻眼。世界でもっとも多い鳶色の瞳が、光も受けていないのに黄金に燃え上がっているように見えた。


 バルバラは窓際から駆け出して、みどりの獣人の前に陣取る。


 十余年しか生きていない少女なのに、顔の右側を物々しい黒の眼帯で覆った姿はひどく勇ましかった。鎧を身につけて剣を掲げた救国の乙女のように、彼女は戦の雰囲気をまとっていた。これは勝てないかもしれない、と無意識に思った。思ってしまった。


 だからバルバラは、歯を食いしばって、身構える。


「あなたの顔、どうなさったの?」


 彼女は笑った。鼻で笑った。

 

「どうしたもこうしたもなくってよ。バルバラ。私は世間話をするためにここへお邪魔したわけじゃないの」

「ならわたしも単刀直入に言わせてもらうけれど、お引き取り願えるかしら。二度と顔を見せないでと申し上げたのを、忘れてしまった?」


 彼女の鼻の付け根に、ぐっとしわが寄った。


「まったく変わっていらっしゃらないのね、バルバラ! 一年前と、なんにも! 相変わらずあなたは狭量で、排他的で、友人なんていらないという顔をする」

「そんなことを言いにいらしたの? 呆れた。じゃあ、あなたは一年前とどんなふうに変わったとおっしゃるのかしら」

「何もかもが違うわ。同じではいられなくなってしまったのよ、だからここへ来たの」


 みどりの獣人が、珍しく、腰をあげた。バルバラはそれに気づいて、すぐさま振り向く。


「鳥の……」


 地面の奥深くから出られなかった蝉の幼生のような、くぐもった低い声。バルバラの頭上を飛び越えて、みどりの獣人の声が隻眼の少女に届けられた。


「あの人は生きてるわ、獣人さん」


 心得たように少女は答え、バルバラなどそこにいないみたいにみどりの獣人をまっすぐに見つめている。


「でも、翼を落とされてしまった。もう飛び立てない。……だから獣人さん、あなたにあの人のことを頼みたいの」

「頼む、とは」


 嫌な予感がした。


「彼女を連れて獣人の国へ逃げてほしい」


 太陽が山際に消える、その一瞬のあいだに放つ閃光に似た輝きが「みどりの」の瞳を彩る。身を乗り出し、口を開こうとした彼をバルバラはすんでのところでさえぎった。


「行かせるわけないでしょ!」


 連れていかせない。例え彼の仲間を助けるためだとしても、彼がそれを望むとしても、みどりの獣人はバルバラのものだ。バルバラのものだ。バルバラのものなのだ。


「帰りなさい! 自分の不始末くらい自分でなんとかするべきです! この人を巻き込まないで!」

「いい加減にして! いつまで閉じこもっているつもりなのよ、バルバラ。じきに戦火はここへも広がる、そのときも獣人さんをそばに置くの? もうおままごとはやめましょう、獣人は人間の奴隷になるために生まれた訳じゃないわ!」


 自分だって鳥の獣人を買ったくせに、訳知り顔で説教を垂れる彼女が理解できない。バルバラはつかつかと彼女に歩み寄り、その肩を突き飛ばす。


「どの口が言うの!? あなたのせいで鳥の獣人は翼を落とされてしまったのでしょ? ねえ、どの口が言うの!?」

「だから言うのよ。守れなかったから言うのよ!」


 抵抗しながら、彼女は髪を振り乱して叫ぶ。

 みどりの獣人が、壁についた手を拳に変える。


「私のせいであの人は飛べないの。飛べなくなってしまったの、だから言うわ! お願い、あの人を守って、みどりの獣人さん! 私はまだこの国でやらなくてはならないことがあるから。私の代わりにあなたが、この国に囚われている獣人たちを連れて逃げるのよ!」

「獣人たち……?」


 少女は細い腕でバルバラの手を振りほどき、必死に訴えた。バルバラは、崖に引っ掛かった大切なものを掴もうとするように、彼女の口を塞ぎにかかる。

 でも、大切なものというのは、たいてい掴もうとしたときには遅く、小さな手をすり抜け、谷底へと転がり落ちていくものなのだろう。


「市場にいた獣人はみんな私が買い取った。この国にいる全員を逃がすことはできないけれど、私の屋敷にいる十二人だけはなんとかできるかもしれない! だからあなたも! みどりの獣人さんも一緒に……っ」


 バルバラは、彼女の頬を張り飛ばした。けれども少女は怯まない。思わぬ力強さで叩き返されて、地面に倒れ込む。


「バルバラ! そんなに奴隷がお好きなら、自分で子どもでもなんでも産んで好きに使役なさいよ。あんたの子どもには気の毒だけれど、そのうち自警団が嗅ぎ付けてあんたを牢屋にぶちこんでくれるでしょう。ああ、そしたらめでたしだわね! むしろ世界平和のためにそうしてちょうだいよ、バルバラ! みどりの獣人さんを巻き込んでいるのは、あんたのほうじゃないの?」

「わたしが? なぜ! いい加減にその無礼な口を閉じなさい、ここをどこだと思ってるの」

「わかっているわよ、ここが華族のお屋敷だってこと。でもあんたにだってわかってないことがあるわ、あんたこそ私を誰だと思っているのかしら。私はね、亡き父の後を継いでいるの。私はひとつの華族の長になったのよ」

「……長?」


 娘に怪我をさせた、獣人という種族を殲滅するため、彼女の父が南の遠征に参加したのは聞いた。大敗したのもまた耳にした。

 では、彼女の父も、その戦で命を落としたのか。獣人への復讐は失敗したというわけだ。しかし当の娘に悲しむ様子はない。ようやっと手にいれた、そんな強さのある眼をして彼女は言う。


「家のお金は全部、私が使い道を決める。そうできる立場にあるし、他の華族に呼び掛けをすることだってできるようになったわ」

「たかが十余年生きただけの小娘が、長になっただけで他の華族に認めてもらえるわけないじゃない」

「平時ならそうよね。でも今は戦時。混乱期というのは若造がいくらでも動き回れる格好の機会なのよ。あなたは知らないでしょうけど、獣人と戦い続けるか、和平を結ぶか、宮廷は揺れている。かねてより獣人との共生を望んでいたあなたのご両親と、私は足並みを揃えるつもりよ」

「何が言いたいの」

「和平派の華族を束ねてこの戦を終わらせるわ、私たち」


 そうなったら、バルバラの両親はバルバラに言うだろう。みどりの獣人を国に返してあげなさいと。

 華族の長となった少女は、バルバラの両腕を掴んで揺さぶった。


「ね、バルバラ。もうみどりの獣人さんを解放してあげましょう?」

「いやよ」

「なぜ? どちらにせよ、彼は自由になる。この屋敷の華族はあなたではなくあなたのお父上を長に据えているのだから、あなたの意思に関係なく物事は進んでいくわ。だけど、みどりの獣人さんのことだけは、あなたの手で終わらせるべきではないかしら。だってあなた、彼を大切にしていたじゃない。ちょっと見境がなかったけど、本気で大事に思ってたのは端から見ていてもよくわかるわ」

「そう、そうよ、とても大切にしているのよ……なのにあなたがそれを奪っていこうとしている。こんな最低なことって他にある……?」

「あるわ。大事にしているものを、あなたが自分で壊すことよ。このままじゃバルバラ、あなたは彼を飼い殺すでしょう。和平が成ったとしても、あなたは彼を奴隷のように閉じ込めて、周りから批難されることになる。そうなる前に、手放して。彼を自由にさせて」

「いや、いやよ、彼は奴隷なんかじゃない、大切な友達なの。なのにどうしてそれを奪っていこうとするの。わたしたちを放っておいてよ。お願いだから、彼を連れていかないで……」


 バルバラはぶるぶると首を振って、少女の言葉を拒絶する。生きるか死ぬかの選択を迫られている、そんな気がしていた。


「友達だと言うなら、鎖を外したってあなたのそばにいてくれるのではないの?」


 がつん、と頭の後ろを殴られたような衝撃を感じた。一度だって殴られたことはないのに、今までで一番、痛いと思った。

 バルバラは脱力して、床に座り込む。みどりの獣人が寒くないように敷いた、毛足の長い絨毯がバルバラの素足をちくちくと刺す。


 友達とはいったいなんなのだろう。

 ずっと一緒で、そばにいると楽しくて、うれしくて、お互いがお互いのことを大切に思っている。そんな関係になれる人がほしかった。それを友達とか、親友と呼ぶのだと思っていた。

 だけど庭師の娘はバルバラではない女の子を選んだし、みどりの獣人は無理矢理そばに留め置いていただけだ。何を捨てても大事にできると思っていたのに、一方通行でしかないその感情は相手の外見を素通りしてバルバラの元に戻ってきてしまった。見返りなど何もなかった。


 きっと契約を切ったら、みどりの獣人はどこへともなく行ってしまうのだろう。振り返りもしないで。そんなのは友達とは言わない。呼べない。

 また、バルバラの大切にしていた相手は、バルバラを捨てて去っていくのだ。


 華族の若すぎる女長はバルバラから離れると、みどりの獣人のところへ歩み寄って手を差し出した。燃える隻眼に彼を映して、彼女はきっぱりと言い放つ。


「私があなたを解放します。名を名乗りなさい。バルバラの奴隷ではなく一人の獣人として生きていくために、名乗りなさい」


 獣人は一度、ゆっくりとまばたきをして、顔を伏せる。


「──サフル」

「そう、ではサフル。獣人たちを頼みます」


 ついぞバルバラには教えなかった彼の名前は、あっさりと付き合いの浅い小娘に向かって告げられた。


 みどりの獣人を連れて、華族の女長が部屋を出ていく。バルバラは、それを引き留めることができなかった。




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