唇=愛情
結界を抉じ開けて侵入してきたせいか、神殿中が騒がしい。
「こんなところに入り込むのはお前くらいだ」
そんな騒ぎのもとである“ケガレ”が私室にいるというのに、この巫女はいつもの淡々とした調子を崩さない。怯えるでも警戒するでもなく、かといって親しさがある訳でもないその態度に、彼は口の端を歪めた。自分を見て顔色一つ変えない女を、彼は彼女以外知らない。
「俺ほど力のあるモノはいないからな」
「巫女を喰らい力を取り込む“ケガレ”などそうそういてたまるか。……が、その力ももう限界のようだな」
鋭い視線が、彼の腐り落ちそうな右腕へと注がれる。
右腕だけではない。
顔の左半分は皮膚がボコボコと沸騰したように蠢き、その皮膚が滴り落ちた肩からは歪な形に増殖した骨が突き出している。
もとより異形の身ではあったが、いまは生きる屍の方がマシな有り様だった。
ただ、生きたかっただけだ。
たとえ誰にもそれを望まれなくとも。
人を喰い、瘴気を取り込み、闇へとその身を沈めても。
「いま私を喰らえば助かるのではないのか」
「残念なことに、その力すら俺にはもう残っていないな」
巫女の持つ神力と“ケガレ”である彼の力は相反するものだ。それゆえに混ざり合うことはなく、本来ならば彼が巫女に触れれば、彼よりも力の弱い彼女は瘴気に侵されるのだが……。
「!」
辛うじて原形をとどめている左手を彼女の頬へと近づけると、触れた指先はじゅっと音を立てて崩れた。
微かに驚きに目を瞠った巫女はきっと彼の状態を正確に把握しただろう。
彼女を喰らうなどとんでもない。すでにこの身は彼女に触れただけで消滅してしまうほど弱っているのだ。なにせ、神殿の結界を壊すのに残っていた力のほぼすべてを使ってしまったのだから。
「そんな状態で……なぜ、ここまで来たんだ」
その問いの答えは彼自身もよくわからない。
「お前は、私を殺したいんじゃないのか」
殺したかった。
自分の手を彼女の首へとかけ、彼女が瘴気に侵されるさまを見たかった。
その瞳が憎悪に染まり、その唇が彼への呪いを吐き出す……その瞬間を望んでいた。そして、その機会はいままで少なからずあったはずなのに。
彼女はまだ生きている。
なぜなのかは、やはりわからない。
「姉様も、妹たちも殺しておいて……なぜだ」
たくさんの巫女を殺した。
より強い力を得るためにその屍を喰らいもした。それはただの必要な作業でしかなく、いうなれば生命活動にも似た本能のようなものだ。
「なぜ私を殺さない!」
不思議と、彼女こそが殺されたがっているように思えた。
「殺さないじゃない。殺せないんだ」
「殺せなくなってから来るな!」
珍しく感情を露わにする彼女が口にした言葉に得心がいった。
そうか……殺せないから、来たのか。
気づいてしまえばなんてことはない。陳腐で有り触れた理由だ。ただ、その根底にあるモノが生まれてこの方一度として抱いたことのない感情だったから気づかなかっただけで。
きっと、目の前の巫女が彼の思いに気づくことはない。
気づいてほしいとも思わない。
彼はもうすでに彼女から多くのものを奪っている。養い親であった師、巫女として支え合っていた姉妹、神殿の仲間たち……だから、最期にもう一つくらい貰ってもいいだろう。
身体から力を抜き彼女へと倒れかかれば、触れたところから塵のように消えていく。
「おい!」
叫んだ彼女の唇に自分のそれを合わせた。
触れ合うのは一瞬。
消える間際に、音にすらならない言葉で想いを紡ぐ。
――地獄に堕とされるならあんたがいい。
巫女とは“ケガレ”を払い、死者を正しく黄泉へと導くためにいるらしい。
ならば、自分が導かれる先は地獄だろう。
タイトル「堕ちたるものは深淵を抱く」
作者:吉遊




