腹=回帰
お疲れ様と言ってマグカップを手渡すと彼女は晴れやかに破顔した。
彼女のお気に入りのマグカップには、これまた彼女お気に入りの茶葉を使った紅茶が淹れられている。
「ん~っ、美味しい!」
「そう? なら、俺の腕も捨てたものじゃないな」
この家では、紅茶を淹れるのは彼の役目だ。
紅茶党の彼女の舌を満足させられるように随分苦労した。彼女は彼も紅茶が好きだと勘違いしているようだが、彼は根っからのコーヒー党。彼女がいない場所ではブラックコーヒー一択である。
彼が彼女に合わせて紅茶を飲み続けるかぎり、彼女が彼の嗜好を知る日はこないだろう。結局のところ、それは永遠にないということ。自分が淹れた紅茶を美味しそうに飲む彼女が好きだから、新しい茶葉を見つけては自慢してくる表情が好きだから、彼は彼女に本当のことを言わない。
ずっと一緒にいるのだから気づいても良さそうなものだけれど、これっぽっちも気づく様子のない彼女の鈍さが彼は好きだった。
「捨てたものじゃないどころか……もう天才だよ! さすが私のまー君!」
その誉めっぷりに思わず苦笑する。
彼は自身が歳のわりに老成している自覚があるが、それにしても彼女はあまりに子どもっぽい。これで彼より二十は年上なのだから、女性とはわからないものだ。
見た目だって、外を歩いていれば恋人に間違われるくらいなのに。
「そういえば、近所の人もまー君のこと誉めてたよ」
「へえ、初耳。雨の日に子犬でも拾ってるとこ見られたかな?」
「え? まー君、子犬拾ったの?」
つくづく、冗談の通じない女だと思う。
これが天然だというのだから恐ろしい。彼と出会う前の彼女はいったいどうやって生きていたのだろうか。よく子ども一人育てられたものだと変に感心してしまう。
彼女は彼の理想の女。
理想から少しでも外れた言動をすれば、飽きっぽい彼はすぐに冷めてしまえるのに、彼女がそうなる気配はない。
彼が彼女に抱く気持ちが異常だという自覚はある。それこそ、物心ついたときからそんなことはわかっていた。
口に出せない想いが、世間に認められない愛が、辛くないと言えば嘘になるだろう。けれど、彼女の一番は彼で、これから先の人生で彼女が誰と出会っても特別な位置にいられるとわかっているから、多少は我慢できる。
生まれたときから、いや、生まれる前から――彼女の胎にいた頃から、彼の特別は彼女だけなのだから、彼女にとっても彼は唯一の特別な存在であるべきだ。
「拾ってないよ。だって――母さん、アレルギーだろ?」
そう、彼女は彼の実の母親。
遥か昔にどこかの馬鹿が親子で愛し合うことを禁忌だと言ったせいで、彼のこの想いは公にできないものになった。……相手に受け入れられることがないのに、言う気はないけれど。
「そうそう、可愛いとは思うんだけど、なーんでか身体が拒否しちゃうのよねぇ」
「まあ、母さんは猫派だし、犬派で犬アレルギーよりはマシなんじゃない?」
「うん、そうよね! ……って、あれ? 何の話してたっけ?」
「俺がご近所さんに誉められた話」
「あっ、そうだった。まー君ねえ、一人でお母さん支えてすごいって。自慢の息子さんですねって言われちゃった!」
照れたように笑う彼女が愛しい。
抱き締めて、キスをして、めちゃくちゃに愛して――自分の子を孕ませてやりたい。
そんな“自慢の息子”にあるまじき凶暴な欲を隠して、彼は微笑んだ。父親にそっくりだという顔で、母親である彼女が見惚れるほどの笑みを浮かべる。
「母さんの育て方が良かったからだよ」
「ふふっ、本当? 自慢の息子にそんなこと言われたら調子に乗っちゃう」
「調子に乗っていいよ。こんなに良い男を女手一つで育て上げたんだから、表彰ものだ」
「あら、自信家」
「母さんがいつも言ってるんでしょ。俺ほどの良い男はなかなかいないって」
彼の方こそ、調子に乗っている。
父親が死んで以来、彼女に男の影がないのを自分がいるからだと夢想して悦に浸っている。
それは、ある意味事実だ。
「そうよー、そのせいでお母さん、新しい旦那さんできないんだもの」
「できなくていいよ」
彼の口から今までとはまったく違う冷めた声が漏れた。
驚いたような、困ったような顔をする彼女に気づき、彼は自分の失言を謝る。
「……ごめん」
「謝らなくていいわ。まー君……まだ、新しいお父さんができるのは嫌?」
彼女は、昔、彼が大泣きしたのを覚えているようだ。
随分と前のことだし、恥ずかしいからいい加減に忘れてほしいが、忘れたら男を作ってくるかもしれないので永遠に記憶しておいてほしい。
「嫌って……もう子どもじゃないんだし、そんなこと言わないよ」
気持ちを押し殺して、どうにか平静を装う。
「まー君」
ふいに、彼女に抱き締められた。
母親からの抱擁に安堵を感じるより性欲を刺激される辺り、人間として彼は異常なのだろう。彼女は彼の母親だが、彼にとって彼女は惚れた女でしかない。いつからそうなのかは知らないが、気づいたときにはそうだった。
「まー君は子どもだよ。どれだけ大きくなっても、お母さんの可愛い息子」
その言葉の残酷さを彼女は知らないのだろう。
いつになったら、彼は彼女の子どもではなくなる?
自分はもう子どもじゃないと、もうとっくに男なんだと告げて、この身を苛み続ける感情をぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。
それを押し止めて、彼は自分からも彼女に抱きつく。
「なーに? いきなり甘えたさんね」
甘い声は息子に向けたものでしかない。
「母さん――大好きだよ」
そう言って、彼女の腹に口づけた。
かつて彼がいた場所。
ずっとずっと、彼だけのもの。
彼女と愛し合えないのなら、生まれてきたくなかった。
永遠に、彼女の胎の中で羊水に浸かっていたかった。
男と女にならずに、二つにならずに、一つの存在のままでいたかった。
胎内回帰願望。
世間一般にいうそれとは少しどころではなく違うけれど、彼もまた還りたいと思っている。実らないのなら、せめて、この世に生まれ落ちる前に戻りたい。
「まー君?」
でも、本音なんて彼女に言えないから。
「俺を生んでくれてありがとうって、お礼を言ってるんだ」
「お腹に?」
「そう、お腹に」
そんな言葉でごまかした。
腹に顔を埋める彼に何を思ったのか、唐突に彼女は彼の頭を掻き抱く。
そして、そのまま頭を撫でられた。彼女の指が、彼女によく似た髪質の髪を優しく梳かしていく。
「まー君は本当に良い子ねぇ。年頃の男の子って、もっと“うるせーオフクロ!”みたいな感じじゃないの?」
見ず知らずの年頃の男の子の声を真似る彼女に、彼は思わず噴き出した。
相変わらず、雰囲気とかそういうものをぶち壊すのが上手いひとだ。
「それ、どこ情報? テレビか何かの見すぎだよ」
「えー。でも、お向かいのタチバナさん家の息子さん、そんな感じらしいわよ?」
「あの子、確か中学生でしょ。思春期なんだよ。井戸端会議の話題にするのは止めてあげて」
他愛ない話をして、顔を見合わせて笑い合う。
そんな時間が、何よりも好きだった。
ひとしきり無駄話に興じた後、心地良い沈黙が二人を包む。
言おうか言わまいか迷って、彼は結局それを口にした。
「母さんももう歳だし、俺より良い男は捕まえられないと思うけど……俺に反対されたくなかったらマトモな男を連れて来てね」
母親に懸想する自分より、よっぽどマトモな男を。
そうだったら、きっと諦められる。
そのとき彼が諦めるのはこの恋なのか、それとも――。
「母さんが悪い男になんて引っかかったら、俺、きっと死んじゃうからさ」
彼女から一番初めに貰った――この、生命なのか。
タイトル「胎内回帰」
作者:雨柚




