眼球=狂気
死ぬときは、何ひとつ残すことなく消えていく。
それが原初からある世界の理。
彼ら妖精の宿命。
「――ああ、きれいなアオだ」
薄暗い部屋には、瓶から取り出した“ある物”を恍惚とした表情で見つめる青年がいた。それにしか興味がないのか、瓶の方は投げ出されたように床に転がっている。
見れば、周囲には同じようにいくつもの瓶が置かれていた。棚にあるものこそ整然と並べられてはいるが、中身のない空の瓶は放り出されたままだ。
周りを見回した少女は身震いする。
ここには狂気しかない。こんなところからは一刻も早く逃げ出したいと思うのに、手足を拘束する頑丈な枷がそれを邪魔していた。身体を動かす度に耳に届く鎖の音は彼女の気力を奪っていく。声が枯れるくらいに叫んで助けを呼んでも誰も来ない。それをこの数日のうちに嫌というほど思い知らされた。
ここは人間である少女がいるべき場所ではない。
妖精の王が創り出した小さな空間。だから、狂った妖精に囚われた哀れな姫君を助けに来てくれる王子様はこの場所まで来られない。どうあがいたって、彼女は狂気から逃げられないのだ。
「だが、やはりあの子のものには敵わないな。蒼穹のようなあの瞳には」
そう呟いた青年は人間離れした美貌を苦しげに歪ませ、手にあった物を――人間の眼球を口に入れた。
食べているのだ。それも人間の、少女と同じ人間の眼球を。少女はそれが元は生きた人間のものだったと知っている。目の前の狂った妖精がどれだけ人間を殺して、そして、どれだけその瞳を奪ったかを知ってしまっていた。
本来なら、世界の祝福を受ける妖精の瞳は息を飲むほどに美しい蒼を湛えている。しかし、妖精の王であるはずの青年の双眸は禍々しい紅。呪われた色を宿す青年が少女には恐ろしくて仕方ない。良き隣人であるはずの妖精の暴挙に怖気が走る。躊躇なく眼球を口に運んだ青年はすでに妖精なんて可愛らしいものではない。彼女の目には美しい青年が怪物のように映っていた。
おぞましい行為を見てしまった少女の全身から血の気が引いていく。今の彼女はさぞかし蒼ざめた顔をしていることだろう。
「よく、似ている」
一瞬たりとて、この恐ろしい生き物から目を離しはしていないのに、いつの間にか青年は彼女のすぐ目の前にいた。
黒く染まった指先で顎を掬われ、上を向かされる。どこまでも虚ろな紅と目が合った。
「本当によく似ている。まるで、あの子の瞳みたいだ。――人間のくせに」
最後に付け足された冷たい声に身体の震えが止まらない。いずれそう遠くないうちに自分の眼球も抉り取られるのだと、瓶に入れられて棚に並べられるのだと――殺されるのだと思うと、みっとなく恐怖で歯がガチガチと鳴った。
人間で蒼の瞳と持つ者は稀だ。
天上を彩る蒼。それを持つことは世界に愛された証だった。だから、本来ならば少女はこんな恐怖を感じることなく、貴い色を身につけて生まれた王女として安穏と暮らしていたはずだった。狂気に染まった妖精の王に攫われなければ、それこそ一生分の幸福が約束されていたのに。
どうしてこんなことになったのかと考えることに意味はない。すべて、もう手遅れなのだから。
おののく少女が思わず目を瞑れば、掴まれた顎に痛いほどの力が加わる。まるで、許さないとでも言うように。
「閉じるな」
命じ慣れた声に背筋を震わせながらも瞼を上げた。
「人間のくせに、あの子と――我が愛しき妹と同じ色を持っているなんて、許されることじゃないと思わないか?」
「っ、……私の、私のせいではないわっ! あなたの妹君を殺したのは――」
「そう、お前たち人間だ」
「私じゃないっ、私は関係ない!!」
必死に叫ぶ少女をうるさく思ったのか、それとも興味をなくしたのか、青年は彼女の顎から手を外し身体を離す。
やっと離れてくれたと安堵したのも束の間、次の瞬間には髪を掴まれ後ろの壁に叩きつけられた。痛みに少女の顔が歪む。
「あの子は……っ、あの子はお前たちのせいで死んだ!! あの子は何ひとつ残さずにこの世界から消えたんだ! お前たちがっ、お前たち人間があの子を消したんだろうが……っ!!!」
その悲痛な叫びは獣の咆哮にも似ていた。
「なのに、なぜのうのうと生きている!? 世界はなぜお前たちを生かしているんだ!?」
――自分の愛しい子はもういないのに。
そんな言葉が聞こえた気がした。
「わ、私は……」
「もう、いい。……いくらあの子の瞳によく似たアオを宿していたからって、生かしていたのが間違いだったんだ」
青年が伸ばした手は正確に少女の首をとらえる。力を入れられれば、容易く息を奪われた。
「あ……く、…………はっ」
誰か、誰か、誰か。
誰か、助けて。
父様、母様、私を助けて。
「……に、いさま」
ふいに、首を締め付ける力が弱まった。
この隙にと渾身の力で青年の胸を押して距離をとる。意外にも、青年の身体は簡単に少女から離れていった。
身体が求めるままに足りなくなった酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。気がつけば瞳に溜まっていた涙が一筋の軌跡を描いた。
「きれいだ」
そう言って、青年は再び手を伸ばす。びくりと肩を揺らす少女など気にも留めず、少女と別の誰かを重ねるように優しい仕草で涙を拭った。
それは、ひどく優しく、愛おしげで。
「――ああ、あの子の色だ」
切なげな声。
愛すら感じさせるほどの優しさで、青年は少女の右眼を抉った。
「いっ、あ、ああ、ああああぁぁぁぁ……っっっ!!!」
甲高い絶叫が部屋中に響く。
瞳を失った眼窩を抑えてうずくまり、痛みにのたうつ少女。それを気にする素振りもなく、青年は何より愛しいものを見る眼でついさっき抉り取った眼球に唇を寄せる。
そして、彼は血塗れの蒼穹に口づけた。
「あの子は消えてない。だって、ここにあるじゃないか」
それも、こんなにたくさん。
微笑む青年の目にはもう何も映っていない。いつしか愛する色とかけ離れてしまった紅い瞳には、ただ虚ろな闇が横たわっている。
――こうして、瓶詰めにされた眼球がまたひとつ棚に並べられた。
タイトル「瓶詰めにされた狂気」
作者:雨柚




