手のひら=懇願
不思議だ。
部屋の中なのに雨が降っている。
「泣いてるんですか?」
重たい瞼をゆっくりと開けば、想像通りの人物が彼女の言葉にくしゃりと顔を歪めた。その顔を見て、この人もずいぶんと変わったものだとしみじみ思う。出会った当初は表情筋が死んでいるに違いないと内心笑っていたのだが……いつの間に、泣けるようになったのか。
涙に濡れる紅い瞳はなんだかとても美しかった。
「残虐王の目にも涙、ですね」
「…………」
「あれ? 笑うところですよ、ここ」
「そなたの冗談はいつも面白くない」
「ひどいですねー」
彼は何か言おうとして口を噤んだ。
たぶん“ひどいのは死にかけているそなただ”とか言いたかったのだろうが、死にかけていると口に出してしまうのを嫌って止めたようだ。言葉にしなかったところで事実は変わらないというのに。
弱い人だ。
弱くて繊細で寂しがり屋な、彼女の夫。
残して逝くのが不安で不安で仕方がない。
「ところで、他のみんなはどうしたんですか?」
臨終間近の王妃の傍に女官はおろか侍医すらいないとはどうしたことだ。気を遣われたのか、見捨てられたのか少々判断に悩む。
「役立たず共は下がらせた」
「えっ、侍医もですか?」
「何が侍医だ。国一の名医など大言壮語も甚だしい。そなたを助ける術はないなどと戯けたことを抜かすから放り出した。明日にでも処刑してやる」
「やめてあげてください。侍医は本当のことを言っただけですよ」
解毒法のない薬を盛られたのだ。
責められるべきは侍医ではない。うっかり毒を飲んでしまった自分だ。悲しいことに、もっと気をつけるべきだったと後悔してもいまさら遅い。
「……っ、そなたは死なぬっ!!」
悲鳴のような声だと思った。
その声を上げさせたのが自分だとわかるから胸が痛い。
「ごめんなさい」
「謝るな! そなたは死なぬ! ……死なぬのだ」
まるで言い聞かせるように“死なぬ”と呟く彼を抱き締めたかった。
他人よりもずっと脆い身体で産まれ、長くは生きられないと言われ続けてきた彼女は死を恐れたことがない。
そんなものとっくの昔に受け入れていたから。
いまだって怖くはない。
なのに、泣きたくなるのはなぜだろう。
「約束しただろうが、嘘吐きめ」
そう、嘘だ。
――百歳まで生きて、おじいちゃんになったあなたを看取ってあげますよ。
そんなことはありえないと知っていながら口にしたのだ。
いつだったかの戯言がこんなにも苦しくなるなんて思わなかった。
ただの戯れだったはずの言葉を真実にしたいと、そんなふうに感じるようになったのはいつからだったのか。
「そなたは嘘ばかりだ」
「私、そんなに嘘吐いてますか?」
「吐いている。初めて会ったとき、我のことを愛していると言った」
「それは、嘘っていうか……社交辞令的なもので」
「冬の最中に大丈夫だと言い張って、雪のだるまなぞ作って風邪を引いた」
「あなたに見せてあげようと思ったんですよ。見たことないって言うから」
「泳げると言って湖で溺れたこともあるな」
「泳げるような気がしたんです」
打てば響くような言い訳を返していると睨まれてしまった。
「まだあるぞ」
「……もう聞きたくないです」
さすがにこれ以上自分の失敗談を聞かされたくはない。
「最期に文句ばかり言うなんて非道な夫ですね」
「最期ではない」
強張った彼の顔を見て、失敗したと思った。
せっかく和やかな雰囲気に持っていけそうだったのに余計なことを言ってしまった。
「…………」
「…………」
思い詰めた顔で黙っている彼はひどく苦しそうだ。
何か気の利いたことを言おうと思うのに、彼女の意識は次第にばらばらになっていく。
このまま目を閉じたら、もう二度と彼に会えないような気がした。
だから、伝えたいことをそのまま口に出していく。
「ちゃんとごはんは食べてください」
「あんまりみんなに無理言ったらだめですよ」
「処刑は最小限に」
「夜は寝てくださいね」
「……私の他に奥さん持たないでほしいなぁ」
ぽろりと漏れた本音に、また余計なことを言ってしまったと反省する。
彼をおいて逝くくせにこんな我儘を言うべきではない。
でも、撤回もしたくなかった。
「幸せになって」
「幸せなど、いらぬ。不幸でよい。誰よりも不幸でよいから……傍にいてくれ」
目覚めぬ間握り続けられた手は、いまは彼と同じ体温になっている。その手のひらに縋りつくように彼は口づけた。
「我を、おいて逝くな」
最期の願いくらい叶えてあげられたらよかったのに。
毒で死にかけているわりには元気だなと自分でも思っていた。
「昔から薬を飲みまくっていたせいで、毒も効きにくくなってるなんて……人生って何が幸いするかわからないものですね」
「やはり、そなたは嘘吐きだ」
三日三晩眠り続けた彼女に付き合った彼は拗ねたようにそっぽを向く。お互い絶対死ぬと思っていただけに決まりが悪いのはわかるが、ここは素直に喜んでほしいところだ。
「今度は嘘にはしません」
彼の手を握り強く宣言する。
「死ぬまで……死んでも、あなたの傍にいます」
嘘になどするものか。
自分の諦めが悪いことは十分に自覚した。悟ったふりはもうできない。彼の手を離すことも、できそうにない。
目を見開いて驚く彼に笑いかけ、あのとき伝え損ねた言葉を告げる。
――愛しています。
タイトル「たとえ不幸でもあなたの傍に」
作者:吉遊




