腕=恋慕
左の肩から先の感覚がない。
回復薬のおかげで魔物に負わされた傷はあらかた治ったし、戦闘直後は指一本動かせないほどだった体力もだいぶ回復してきている。
しかし、常備している回復薬では部位欠損までは治してくれず、仕方なくその辺に転がっているだろう自分の腕を探した。切り落とされた感触はあったものの、食われる隙は与えていないはずだから魔物の死体を漁る必要はないだろう。
腕を拾ったら早く仲間たちと合流しなくては。そんなことを考えながらまだ怠さの残る身体を気力で動かした。
ふいに忌々しい気配を感じて肌が泡立つ。
「探し物はこれですか?」
彼女が気配に反応して剣を構えるより先に飄々とした声が耳に届いた。
少し前までただの村娘だった彼女と四天王に並ぶ上位魔族である彼との間には歴然とした力量差がある。それを誰よりも自覚しているのは彼女だから、その事実に歯噛みするしかない。完全に気配を隠すことなど造作もないくせに、力の差を示すためだけに直前で己の存在を悟らせた彼は本当に嫌味な男だと思う。
「……っ」
「おっと」
目の前の魔族が持っているのが自分の腕だと認識した彼女はそれを奪おうと素早く手を伸ばした。男は笑みすら浮かべて避ける。
簡単に返す気はないのだろう。腕のためには、しばらく彼の戯れに付き合わなければならないらしい。それがわかる程度にはこの男のことを知ってしまっていた。
「何の用よ。弱った勇者を仕留めに来たの?」
怒ったような口調で言い、彼女は彼を睨みつける。
多くの人間が魔物や魔族を恐れ忌み嫌うのとは違った意味で、勇者である彼女も魔族である彼を嫌っている。それはもう、嫌いの前に大がつくほどに。
「はは、面白いことを言いますね。あなたみたいな弱い人間を僕がわざわざ仕留めにくるわけないじゃないですか」
「………………」
「それに、もし殺すならあなたが万全の状態のときに来ますよ。そうじゃないと楽しめないでしょう?」
彼女はこの男の気まぐれに生かされている。慈悲なんてない魔族の遊び道具として。そうでなければ初めて出会ったその場で彼女の旅は終わっていただろう。思い返して虫酸が走る。
「せっかく会いに来てあげたんですから、そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「大っ嫌いな男を見るには相応しい顔をしているつもりよ」
「相変わらずつれないですね」
ぼやくように言いつつも、彼の表情は楽しそうだ。
「それに、弱いのも相変わらずだ。この程度の魔物に苦戦するなんて……あなた、それでも本当に勇者なんですか?」
数多の魔物を配下としているはずの男は、地に伏す魔物の頭を無感動に踏み潰した。この男の――魔族のこういうところが、堪らなく嫌だ。嫌悪していると言っていい。
彼の足元からぐしゃりと嫌な音がして、彼女は思わず顔を顰める。心の中で、自分が殺した魔物の冥福を祈っておいた。人間が奉じる神は魔に属するものを許さないけれど、魔神や邪神ならこの魔物の魂も救ってくれるかもしれない。
「私は勇者よ」
魔を滅ぼすことを、魔を厭う以上に嫌悪していても。それでも彼女は勇者だ。神に愛され、聖剣に選ばれた唯一の存在で、多くの人間にとっての希望の光。
「どんなに弱くても、聖剣に選ばれた以上私が勇者であることに間違いはないわ」
「ああ、またそれですか。僕より先にあなたと出会うなんて無機物のくせに生意気ですよね」
また訳のわからないことを言い出した彼に呆れた視線を送る。先程とは打って変わって面白くなさそうな顔だが、まさか聖剣に嫉妬しているわけでもあるまい。
何の気まぐれか、この魔族は時折彼女に恋焦がれるかのように振る舞うことがあった。まったく理解に苦しむ。彼にとっては遊びの一種なのだろうが、愛を知らない種族に恋を語られても薄ら寒いだけだ。
「無駄話はそろそろ終わりにして。さっさと私の腕を返してくれない?」
こういうときは下手に反応せず無視するに限る。
「仲間とも合流したいし、あんたが私の一部に触れてると思うと……気持ち悪いから」
実際には、碌でもないことに使われそうで落ち着かないというのが正しい。けれど、この男の場合はそれを口に出すと“では期待にお答えして”と藪蛇になりそうだ。
「あなたの一部……」
てっきり“気持ち悪い”という発言に反論すると思っていたが、彼女の予想を外して彼は別の言葉に反応した。
ぼそりと呟かれたそれは本当に気持ち悪い。意味深に呟くのは止めてほしいと思う。きっと勇者の精神力を削る呪いの言葉に違いない。
鳥肌を立てる彼女に気づいているのかいないのか、彼はにっこりと微笑みかけてから彼女の腕を口元に運ぶ。
「!? ちょっと、食べないでよ!」
そう叫ぶと呆れた顔で見られた。彼にしては珍しい表情だ。
「あなたって……色気がありませんよね」
「な……っ、うるさいわね! そんなのなくてもいいでしょ!」
彼女の言葉にいささか興がそがれたらしい。いつも碌なことを言わない彼の口から溜め息が漏れる。肩を竦めてみせる彼に、彼女は額に青筋を浮かべた。
「口づける場所で意味が違うって知っていました? 人間って本当に変な生き物ですよね」
気を取り直したのか、彼はひどく楽しげな口調で魔族には縁のないはずの人間の文化を語る。人間のとひと括りにされていても、彼女の知識にはない話だ。他国の文化なのかもしれない。
最近、人間文化に興味が湧いたとほざいていたのは本当だったようだ。どこの誰に聞いたのか知らないが、相変わらず色んな人間にちょっかいをかけているらしい。その相手には同情する。
「腕は“恋慕”だそうですよ。恋慕う……僕とあなたにぴったりだと思いません?」
気が触れたとしか思えないようなことを口にして、彼はそれに唇を寄せた。
血に塗れたものに。傷だらけなうえに土で汚れた部位に。魔物に切り落とされた彼女の腕に。頭のおかしい魔族の男は見せつけるように――口づけた。
「……っ」
彼女の身体をぞくりとした感覚が走り抜ける。その口づけに感触はない。切り離されている場所に口づけられたのだから当然だ。けれど、それは錯覚してしまいそうなほどの何かを秘めていて。
人間が魔族を理解できないように、彼らに人間の感情は理解できない。魔族は刹那の快楽を求める永遠の存在。そんな彼らが愛を知るわけがない。
――そう思うのに。そうと知っているのに。わかっている、はずなのに。
「あんた……お気に入り相手ならそこまでするの?」
思わずそんなことを口走っていた。
“お気に入り”とは彼が常日頃から言っていることだ。お気に入りの玩具、特別に気に入っている下等種族……いつからだろう、お気に入りとだけ言われるようになったのは。
「お気に入り……?」
「いつもあんたが言ってることでしょ」
独りごちる彼にムッとしながら告げる。困惑したように呟かれては、まるで彼女が自意識過剰のようだ。覚えがないとは言わせない。
「勇者なんて魔族にとっても珍しいみたいだし……珍しいものを気に入っててもおかしくないでしょ」
まるで取り成すような言葉だ。なぜ彼女がこんなことを口にせねばならないのか。そうは思いつつも、常とは異なる態度の彼は不気味でしかなく、気恥ずかしさを誤魔化しつつ口にした。
叩きつけるように彼女が言い放った台詞に何か思うところがあったらしく、ややあって彼は口を開く。
「もし――もし、僕があなたを気に入っているとして」
つい先日にもお気に入りだと言っていたというのに、この男は仮定としてそれを言葉にした。本当に何を考えているのか読めないうえに訳のわからない男だ。
「その理由が、あなたが勇者だからなんていうつまらない理由なのだとしたら」
時折深く考えながら、自分でも戸惑うように言葉を紡いでいく彼はひどく人間臭い。上位魔族なんて人間とかけ離れた存在なのに。
彼は一度目を閉じてから、ゆっくりと瞼を上げる。
「僕はあなたを殺します」
どこに本気があるのかわからない魔族の言葉は真剣そのものだった。いつになく本気を感じさせるそれには殺気すらあるような気がして、彼女はわずかに身を震わせる。それは本能的な恐怖だ。
「そんなつまらない結末にならないように、せいぜい気をつけてくださいね?」
魔族に脅える勇者を嘲笑うように、男は楽しそうな笑みを浮かべて付け加えた。数瞬前まで纏っていた空気はすでに霧散している。気のせいだったかと思うほどの変わりようだが、芯から冷えきった身体が実際にあったことだと証明していた。
脅えが消えると、彼が口にした忠告に苛立ちが募る。
気に入る理由なんて彼にしかわからないものなのに、何をどう気をつけろというのか。やっぱり彼は性格がねじ曲がっている。この男の“つまらない”の基準はさっぱりわからない。むしろ、わかってしまえたら人間として終わりだとすら思う。
「ああ、そうだ。これ、もういらないので返しますね」
黙ったままの彼女に何を思ったのか、彼はポイッと彼女の腕を放り投げた。もう興味が失せたらしい。本当に自分勝手で最低な男だ。そこが魔族らしいと言えばそれまでだが。
慌てて彼女は地に落とされた腕を拾い、自分の腕を雑に扱った男を睨んだ。
「今回は腕でしたけど……次は首から上がいいですね。景気よく飛ばしちゃってください」
彼女の視線など意に介さず、彼は勝手なことを言い出す。
腕を切り落とされたのだってこの男のためなどではないのに、次は首を飛ばせなんてふざけているとしか思えない。言っている内容は物騒極まりないのに、口調も表情も食堂で料理を注文するかのような気軽さで、それがさらに彼女の神経を逆撫でする。もともと魔物も魔族も嫌いだが、目の前の魔族はそれ以上だし、この男のすべてが不快だ。
彼女は眉根を寄せ、苦々しい顔で口を開く。
「いつまでも弱いままだと思わないことね。そう簡単に……あんた以外にこの首を飛ばされたりしないわよ」
ふいっと顔を逸らしてから、しまったと思った。
これではまるで彼にだけは負けることが確定しているみたいだ。魔王を倒すならこの男も倒せるくらいに強くならなくてはいけないのに。
悔しく思いながら、どうせニヤニヤ笑っているのだろう彼に向き直る。彼女の予想は外れていた。
「っ」
大きく目を見開いて驚きを露にした顔。それは常の余裕ぶった彼からは想像できない表情で、滑稽に思えるほどだ。
「それは……それは悪くない。うん、悪くない気分だ」
魔性は妖しく、けれど見惚れるほどに美しく微笑んだ。
「あなたの首は僕が予約しておくので、次に会いに来るときまで大切にしてくださいね。くれぐれも僕以外の誰かに奪われたりしないように」
その命も、人間の言う心とやらも――そう囁いて彼女の大嫌いな魔族は目の前から姿を消す。
残されたのは原因不明の苛立ちに拳を握る勇者と、魔族の口づけを受けて曰く付きになった彼女の腕だけ。
その後、仲間の回復魔法により腕はもとに戻ったが、その左腕に触れては嫌そうな顔をする勇者が見られた。
タイトル「いつか恋を知る彼はまだ愛を知らない」
作者:雨柚




