手首=欲望
茜色に染まり始めた空を背に、礼拝を終えてそれぞれの家へと帰って行く子どもたちを見送る。
「じゃーねー、シスター!」
「さよーなら」
「さようなら。気をつけてね。寄り道しちゃダメだよー」
「はーい」
良いお返事だがきっとこのままどこかに遊びに行くつもりだろうな、と思った。いつもより早く終わった礼拝にはしゃぐ姿から彼女にはその様子がありありと想像できる。
「……さて、お片付けしますか」
いつでも元気いっぱいで嵐のような子たちが去ってしまうと、教会はあっという間にがらんとしてしまう。
物心つく前から教会にいるというのに、彼女はこの静寂が少し苦手だ。
静けさがこのまま自分を呑み込んでいってしまう気がするからかもしれない。育ての親である老司祭は“神の温もりがある”というが、残念なことに彼女はまだその温もりを感じたことはなかった。
「~♪」
見守ってくれている神様へと捧げる歌を小さく口ずさみながら、礼拝堂の中を掃除していく。ところどころ歌詞を変えた讃美歌など老司祭に聞かれれば二時間は説教されてしまうだろうが、日が沈むとともに眠るあの育ての親はそろそろ寝台につくころなので大丈夫だ。老人は朝も早いが夜も早い。
土埃を外へと掃き出していると、見知った人物がこちらに歩いて来るのが目に入り、彼女は箒を動かす手を止めた。
「あれ、騎士様? こんばんは」
「ああ」
「非番ですか?」
「そうだ。……礼拝は終わったのか?」
いつもの騎士団の制服ではなく簡素な白いシャツと黒いズボン姿の彼は、開いている扉から中の様子を覗いてそう尋ねた。
「はい。今日は司祭様が当番だったんですが、なにぶんお歳で。早めに終わったんですよ」
そろそろ百に手が届く老司祭はおもに朝の礼拝を取り仕切っている。今日は久しぶりに夕方の礼拝もと頑張っていたがさすがに短めに切り上げた。
最近毎日のようにこの小さな教会に礼拝へと訪れていた彼からすると迷惑なことだったかもしれない。
「お祈りなら礼拝堂開けましょうか?」
「いや、構わない」
「あっ、ひょっとして聖女様に会いに来られたんですか? 聖女様なら今の時間は大聖堂にいらっしゃると思いますよ」
美しく聡明な聖女は皆の憧れである。
普段は護衛として聖女を守るこの騎士も、そんな聖女に恋する一人だと彼女は睨んでいた。聖女の周りには容姿も性格も家柄も良い男性が多くいる。一押しの彼が少しでも聖女との仲を進められるように応援は惜しまないつもりだった。
「非番だと言っただろう。あの人に会いに来たわけではない」
しかし、とうの騎士は彼女の言葉に眉を顰め強い調子で否定する。その様子からは聖女への恋情の類は一切伝わってこない。
どうやら彼女の感ははずれたらしい。
教会育ちで恋愛とはほど遠い生活を送ってきた弊害がこんなところにでるとは。
「えっと、じゃあ……」
「いま時間はあるか?」
「え、あ、はい。私に何かご用でしたか?」
「用、というか……これを」
すっと差し出されたのは手のひらに乗るほどの小さな紙袋だ。
柔らかいピンク色に白い花が印刷されたその袋は彼が手にするには些か可愛らしすぎる。彼自身も自分に不似合いなことに気づいているのか、どこか気恥ずかしげに視線を逸らしながら袋を彼女の両手へと置いた。
「土産だ」
「わぁ! ありがとうございます。みんな喜びますよ」
「……皆にではない」
「え?」
「あなたにだ」
「あ、ありがとうございます」
彼の強い視線に少したじろぐ。
教会への差し入れなどはたまにもらうこともあるが、個人的に物をもらうのは子どもたち以外からは初めてだった。
ちなみに、子どもたちはわりと色々な物をくれる。どんぐりや押し花で作ったしおり、蝉の抜け殻……気持ちはとても嬉しい。
さすがに騎士からの贈り物が子どもたちと同じということはないはずだ。
何が入っているのだろうと、微かに胸を高鳴らせながら紙袋を開ける。
「チョコレート! 私、大好きなんですよ!!」
艶々と輝く宝石のようなそれは、彼女にとって普段口にすることのできない高級品だった。
月に一度の贅沢となけなしの小遣いからチョコレートを一粒買うのが精一杯の彼女には嬉しすぎる贈り物である。
袋を大事に抱きしめ、騎士へと感謝の言葉を告げた。
「ありがとうございます。大切に食べますね」
「いま食べないのか?」
「え? ……勿体無くて、すぐになんて食べれないですよ」
口に出してから幼子のような物言いだと気がついて頬が熱くなる。
もう十六になるというのに恥ずかしい。
赤くなった彼女とその彼女を凝視する彼の間に暫し沈黙が落ちた。照れたように俯く彼女が彼の視線に込められた熱に気づくことはない。
「そんなに好きなら、また買ってくるから食べたらどうだ?」
「いいんですか……って、いや、そんな悪いですし!」
思わず本音が零れた。
慌てる彼女を笑いながら、彼は再度“食べたらいい”と促してくる。ここまで言われると食べないのも申し訳ない。
そおっと袋から取り出したチョコレートはいままで食べたどれよりも美味しそうに見えた。
一口大のそれをゆっくりと口へ運ぶ。
鼻を擽るカカオの香りにやはり一回で食べてしまうのを勿体無く感じて、悪足掻きで半分だけ齧ってみた。
が、それがいけなかった。
「ちょ、え、うわ!?」
どうやらチョコレートの中には酒が入っていたらしく、口に入らなかった分が彼女の手へと流れ落ちていく。
予期せぬ状況にあわあわと意味もなく手を上げ下げしていると、目の前の騎士がすっとその手を取った。
「え?」
彼はそのまま彼女の手を引き寄せ、手のひらから手首へと流れようとしていた液体を――舐めた。
「……っ!」
あまりの驚きに声にならない悲鳴を上げる彼女を気にすることなく、騎士は手首、手のひら、指とその舌を這わせる。
自分の全神経が彼の触れる右手に集中している気がした。
耳の奥から、鳴り響く心臓の音が聞こえてくる。
「……すまん」
何に対するものかよくわからない謝罪を口にする騎士にどう答えたらいいのか。
まだ、手は握られたままで。
頭も心臓もまったく落ち着きを取り戻していない。
この場に頼れる老司祭はおらず、元凶である彼を縋るように見つめてしまったのは混乱していたからだ。そして、その表情が騎士にどんな衝動を起こさせるかなど彼女の知るところではない。
「そんな顔をするな」
ぼそりと呟かれた言葉を理解する前に、彼女はもう一度彼のもとへ引き寄せられていた。
距離が近い。
思わず一歩後ろへ下がろうとした彼女を制止するように彼は触れる手の力を強めた。
しかし、彼はそれ以上距離を縮めることはせず、躊躇うように一瞬視線を逸らせたあと……ゆっくりと彼女の手首へと唇を落とす。
それは、先程人の手を舐めた人物とは思えないようなささやかな口づけだった。
「…………」
彼女は言葉もなく騎士を見つめることしかできない。
身体が熱かった。
彼は今度は何も言わずに彼女の手を離した。
その瞳は、まだ彼女を映したままだ。
いつの間にか地面へと落ちていた紙袋を拾い上げ、騎士は彼女の手にそれを握らせる。
「また買ってくる」
それだけ言って、背を向けた。
騎士団へと帰るのだろうその後ろ姿を見送りながら、ずるずると地面にへたり込む。腰が抜けたのかもしれない。
いま自分は茹でた蛸なんて目じゃないくらい赤い顔をしている自信がある。
「なんなの……」
全部夢だと逃避してしまいたい。
しかし、無情にも手に残る彼からの贈り物がこれが夢ではないことを伝えてくる。
「ほんとに、なんなのよ」
食べたはずのチョコレートの味は……まったく思い出せなかった。
タイトル「溶けない熱」
作者:吉遊