額=祝福
ヒトの額にはカミが宿るらしい。
外つ国の考え方だそうだが、あながち間違ってもいないだろうと人間から“神様”と呼ばれる存在は思う。さすがに己と同じものが宿っているとは考えていないが、霊力や神力と呼ばれるものは確かにそこに宿るからだ。
だから、彼がヒトに力を与えるときはいつもそこに触れるようにしている。
――ちっぽけなヒトのちっぽけな場所に。
「そなたに祝福を」
「近く、幸福が訪れるだろう」
「我が力を与えよう」
何百、何千、何万と繰り返した言葉を今日も口にする。
それはもうただの作業で、彼にとっては何の意味もない行為だ。何の利にもならず、ただただ己に課せられた役目をこなすだけ。誰に与えられた役目なのか、いつまで続くものなのか、そんなことすら彼は知らない。
ときに崇められ、ときに畏れられ、ときに迫害され……そんな日々を送ること幾星霜。この世に生じたときにはあったはずの疑問も、自己の存在やヒトへの興味も、現世への関心も、もはや彼の中には残っていない。
彼は惰性でここにいる。
己をカミとして迎え入れた村に留まり、言われるがままに力を振るっている――それが彼の日常。
「神様、本日もありがとうございました」
最後のヒトが去ると、ずっと傍に控えていた村人が声をかけてきた。
この村人は神職にあるものらしい。彼にはこのヒトと他のヒトの違いはわからないが、カミである彼に声をかけてくる村人はこのヒト以外には数人しかいない。
「ああ。そなたも、今日の務めご苦労であった」
彼がそう言葉をかけると恐縮したように頭を下げて去っていくのも、いつものこと。
変化のない日常は彼の心を空虚にしていく。
今日も、昨日と何の違いもない一日になって彼の空っぽの心をさらに虚ろにしていく――本来なら、そう決まっていた。
「かみさま……っ!」
彼が社に戻ろうとすると、後ろの茂みから動物が飛び出してくる。高く声を上げながら向かってきたその動物は勢い余って彼にぶつかった。
いや、違う。動物ではない。ヒトだ。
「はじめまして、かみさま!」
それは、ヒトの子どもだった。
その子どもはぶつかったことを謝るでもなく、彼に抱きついた格好のまま元気よく挨拶する。礼儀正しいのか、そうでもないのか、ヒトに興味のない彼には判断がつかない。
彼を見上げる瞳はきらきらと輝き、思いきり彼にぶつけたせいで鼻は少し赤くなっていた。
「………………」
何も応えない彼に何を思ったのか、少女はぶつかってきたときと同様に勢いよく頭を下げる。
そして、口を挟む隙もないほどに感謝の言葉を並べ立てた。
曰く、“神様”のおかげで今年も豊作だった。
曰く、“神様”のおかげで母親の風邪が治った。
曰く、“神様”のおかげで友人と仲直りできた。
曰く、“神様”のおかげで家の雨漏りが直った。
曰く、“神様”のおかげで――。
「知らぬ」
咄嗟に、彼はそれを口にしていた。
「え?」
「そなたの家の雨漏りも、今朝の空が青く澄んでいたことも、昨晩の食事が美味であったことも――我は知らぬ」
やや素っ気ないともいえる口調で言い放つ。
豊作だったことはともかく、少女が語る些細な出来事は彼の力の及ぶところではない。だから感謝されるいわれはないと、そう伝えたつもりだった。
「うん、だいじょうぶ! かみさまがしらなくても、わたしがしってるから!!」
彼の困惑を知ってか知らずか、少女は笑顔で訳のわからないことを言い出す。
意味がわからない。
なんなんだ、この生き物は。
「なんなのだ、そなたは」
言ってしまってから、久方ぶりに心のままに言葉を口にしたことに気づいた。
ここ数百年、心動かされることなどなかったというのに。ヒトに何かを思うことにもう疲れきっていたのに。突然、彼の眼前に現れたヒトの子は容易く彼を翻弄した。
今、彼は動揺している。少女の言動に、凍りついた心を揺り動かされている。
「わたし? わたしは――」
誇らしげに名を名乗って聞いてもいない己の年齢まで答える少女は、見れば見るほどどこにでもいるヒトの子だ。
「うーん……ちょっとしゃがんで」
少女は偉そうにもそう言って、彼の袖を引いた。
いまだ困惑の渦中にいる彼は少女の言葉に疑問を持つこともなく大人しく従ってしまう。
彼がしゃがむと、少女は膝に乗り上げた。ここに他のヒトがいれば、不敬だと悲鳴を上げたかもしれない。けれど、幸か不幸かこの場には動揺を露わにするカミと自由奔放なヒトの子しかいない。
「かみさま、みまもってくれてありがとう。あなたに――かみさまにも“こうふくがおとずれますように”」
そう言って、少女は彼の額に口づけた。
彼はこの風習を知っている。この村では“神様”が村人の額に触れて祝福することにあやかって、親が子どもの額に口づけて幸福を祈るのだ。
それは、つまり。
「我の、カミの幸福を祈るというのか? ……ただのヒトの子が?」
「わたしがしあわせなのはかみさまのおかげだって、おかあさんがいってたから」
少女は少女なりの理屈で動いているらしい。
それは、カミである彼には理解しがたいものだった。
「だから、おかえし。かみさまもしあわせになりますように……って」
そう、ヒトとは理解しがたいもの。
けれど、その心に惹かれて止まないから興味が尽きない。力を持つ彼より遥かに弱く、ちっぽけな存在のくせに、この世の何よりもその生命をきらめかせている。だからこそ、困っていたら手を貸して、何の利がなくとも力を与えて、その幸せを願ってやりたくなる。
それを、彼は思い出した。ずっと昔に抱いていた感情を。
何の力も持たないはずのヒトの子の祝福は――今この時、確かにカミに小さな幸福を与えた。
タイトル「それはちっぽけで愛おしい」
作者:雨柚