首筋=執着
押し倒した男の腹の上に乗り、銃口を額に突きつけた。
吸血鬼を殺すなら心臓か頭を狙う。
なんの問題もない。ハンターの理屈に則った行動だ。なのに、彼女の指はぴくりとも動かない。引き金に指を掛けながら……撃つことができない、なんて。この期に及んで自分はどこまで愚かなのか。
「撃たないのか?」
読めない表情でそんなことを聞いてくる男が憎かった。いま、この男の命は彼女が握っているというのになぜ平静でいられるのだろう。
外すことのない距離が彼女を追い詰める。
自分がほんの少し力を込めるだけで、彼は死ぬ。
この瞬間のためだけに生きてきた。このときを何よりも望んでいた。なのに、触れ合う身体から伝わる彼の少し低い体温が彼女の心を乱す。
「撃てないのか?」
物を知らぬ子どもに教えるかのように、彼は銃を握る彼女の手に自分の手を添える。こういう余計な世話を焼くのは昔から少しも変わらない。大きな手も、彼女を見る瞳も……悲しいほど記憶にあるままだ。
彼女はこんなにも変わってしまったのに。
男の手を振り払い、銃のグリップでその頬を思いきり殴る。
「!」
いきなりの行動に驚きはしても、大した打撃ではないのだろう。痛みに呻く様子すらなかった。そのくせ、彼女の手には男を傷つけた痛みが残っている。それがまるで自分と彼との違いを見せつけられるようで、胸が苦しい。
憎めば憎むほど、恨めば恨むほど……苦しくなる。
「ルーチェ」
「……っ、黙ってくださいっ!!」
そんな名前じゃない。
それはとっくに捨てたのだ。彼を殺すと決めたときに。なのに、彼に呼ばれただけで消したはずの想いが確かな熱を持って彼女の心を焼いていく。
彼女の望みは叶わない。
彼女は男のたった一言を待っている。現在も過去も、これから先もずっと。きっと死が訪れるそのときまで。
――ともに生きよう。
その言葉を待っている。
あるいは、彼の牙が首筋に沈み自分のすべてを奪うそのときを。
「……愚かですよね。私も、あなたも」
「…………」
殺すこともできず。さりとて、離れることもできはしない。殺す気も殺される気もない鬼ごっこは、曖昧な関係を続けるにはぴったりで。
どちらかが、想いを言葉にしたときがこの関係が終わるとき。
先に手を離したのは彼。自分から手を伸ばすのを躊躇ったのは彼女。似た者同士の二人は拒絶されるのが怖くて、決定的な一言を口にできない。
構え直した銃をゆっくりと下ろす。
彼の瞳は片時も逸らされることなく彼女を見つめている。言葉にはしないくせに、そこに愛情があることを隠そうともしないこの瞳が苦手だ。
何も持っていなかった彼女に愛を、温もりを、優しさをくれたのは夜に生きる吸血鬼。
父であり、師であり……神のようにすら思っていた。
人としての生など彼とともにいれるならいくらでも捨てたのに。
「マスターは狡いんですよ」
ぽつりと呟き、男の首筋へと口づける。
自分に牙があればきつく噛みつき消えぬ痕を残してやるのに。
「……ルーチェ」
彼の言葉に首を振る。
“光”になんてなりたくもない。
――私は、あなたと歩む“闇”でありたい。
タイトル「光などいらない」
作者:吉遊