爪先=崇拝
今日も無事に政務を終えた女王は、その疲れを一切見せない優雅な足取りで私室に戻る。
女王の姿を認めて敬礼する衛兵に微笑を返して、後ろに緩く手を払えば、ぞろぞろと彼女の後をついてきていた護衛たちは一礼して下がっていった。
ここで初めて、女王は一人になれる。……いや、正しくは彼と二人きりに。
「いるんでしょう? ――報告を」
誰もいない虚空に声をかけた。
彼女は気配など探れないから、自分以外の存在が他にあるかどうかがわかるわけではないが、彼がこの場にいることは知っている。
「御前を失礼いたします、我が君」
音もなく現れたのは黒ずくめの青年。
相変わらず、気を抜けば闇にまぎれて消えてしまいそうな格好だ。職業柄仕方がないにしても、女王の前ですらそれなのはいかがなものか。
目の前にいるのに、いつも傍に控えているのに、確かめないと存在を掴めない。それが彼女には腹立たしかった。
「私の庭はきれいになったかしら?」
「はい、蔓延っていた雑草はくまなく刈り取りました。すべて、我が君の御心のままに」
彼女は青年の報告を聞きながら長椅子に横たわり、行儀悪くも肘掛けに脚を乗せる。特別に作らせた長椅子は彼女の身体をなんなく受け止めた。座り心地だけでなく寝心地も最高だ。
この国の女王として他人には見せられない姿だが、傍らに膝をつく彼が誰より口が堅いことを彼女は知っている。彼女はそれだけ彼を信頼していた。表で女王に忠誠を誓う騎士たちではなく、裏の存在である彼を。
「そう」
答える彼女は素っ気ないが、それはいつものことだ。彼が任務の成功しか口にしないのと同じくらい、いつものこと。
彼は女王の影だ。
諜報員で、暗殺者で、護衛で、そして誰よりも女王に忠実な者。この国の暗部と呼ばれる組織を統括する長で、組織も彼の存在もほんの一部の者しか知らない。人知れず任務をこなし、女王の統治を完全なものとするために存在している。
権力者は綺麗事だけでは生きていけない。“美しき女王陛下”と国内外から称賛を浴びる彼女とて、その例外ではないのだ。むしろ、この国の史上初の女王となった彼女こそ闇は深い。
青年は女王と深淵をともにする者。
そして、彼女の――。
「靴、脱がせて」
足を視線で指し示すと、彼が近づく気配がした。
靴を脱がせるだけだというのに、彼がするとまるで何かの儀式だ。それくらい慎重で……彼は決して彼女に触れない。もっと脱がせにくい靴を履いておけば良かったと彼女は何度目かの後悔をした。そうすれば、触れざるを得ないだろうと。
「……別に触っても怒らないのに」
もし、そうなったら――触れるしかない状況になったら、彼はどうするのだろう。
案外、躊躇いなく彼女に触れるのだろうか。命令だからと言って。
……こんなに近くにいるのに、彼女には彼が自身に触れる様を想像できなかった。
「お戯れを」
青年はいつも女王の“戯れ”など軽く流してしまうから。
「そう、ね……あなたの言う通り、ただの戯れだわ。私の頼みごとは今回も上手くいったみたいね」
「我が君の命とあれば当然のことです」
「ふふ、頼もしいかぎりね。やっぱりあなたに任せて良かったわ」
彼女がそう言うと、彼は初めて表情を覗かせた。心底嬉しそうに、堪らなく幸せそうに、彼は微笑む。
普段が無表情だからか、その変化は鮮やかだ。だからこそ、彼女はこの瞬間がとても好きだった。
「ねえ」
青年は女王を絶対の存在に置いている。それは影として当然のことだ。だが、彼が彼女に抱く想いは女王に仕える臣下というより神を崇める神官に近い。
きっと、彼は彼女がただの女だということを知らない。女王の仮面を外してしまえば、ただの愚かな女になってしまうことを。
「褒美をとらせるわ。私の優秀な影に。あなたは何を望む?」
「いえ、自分は――」
「金? 宝石? それとも土地かしら? 何でも良いわよ、あなたが望むなら――この、女王でも」
挑発するように告げても、彼は表情を動かさない。
それがひどく腹立たしい。そう思ってしまう彼女は完璧な女王ではないのだろう。とくに彼の前では。その自覚はずいぶん前からあるが、彼女はそれを正そうとも思わない。
「お戯れを」
彼はもう一度同じことを言った。
ほんの少しだけ困惑が滲む声に、彼女はわずかに口角を上げる。
「ご褒美は何がいい?」
猫撫で声というのだろうか、彼女の口から漏れたのは甘い声音。
それは、まるで恋人に愛を囁くようなものだった。でも、きっと青年にとっては悪魔の囁きに違いない。
熱に浮かされるように彼が言う。
「我が君に――あなたに、触れる許可を」
それに頷いてみせて、彼女は誘うように艶やかに微笑んだ。
彼の喉仏が上下する。
「………………」
この場を沈黙が支配した。
その空気を壊すように先に動いたのは彼のほう。ふらふらとした彼らしくない足取りで、何かに操られるように彼女へと近づく。
そして、彼女の足元に跪いた。
――それは、一瞬のことだった。
彼の唇が彼女に触れる。
己が触れるならそこしか許されないというように、彼は彼女の爪先に口づけた。
「申し訳ありません」
すぐに離れていった彼に、何かを言おうとして止める。
口にするにはあまりに愚かだったから。そんな言葉が自らの口からこぼれることを彼女の矜持は良しとしなかった。
恋に狂った女ほど滑稽なものはない。
「ねえ、私のことをどう思ってる?」
それでも、これだけは口にせずにはいられなくて。
「っ、……お許しください」
「言いなさい」
彼が命令に逆らえないと知っていて、彼女は強い口調で命じた。
諦めたように一瞬だけ目を瞑り、彼は真っ直ぐに彼女を見つめる。それは、女王に向けるには不敬なほどに不躾で、熱っぽく、焦がれるような視線だった。
「女王陛下……愛しき我が君。私は、あなたを――」
そうして、彼は彼女が望む言葉を口にする。
彼が去った後、彼女は長椅子に横たわったまま天井を見上げた。
しんと静まり返った室内には彼女以外の気配はない。しかし、近づくなと命じていない以上どこかに控えてはいるのだろう。目に見えなくても、音も気配も感じなくても、常に彼は彼女の傍に存在している。
彼女が呼べばすぐに現れるはずだ。それが彼女の声なら、どんなに小さな呼び声にでも彼は答える。
優秀な影はどんな呟きも拾ってしまうと知っていて彼女は口を開いた。
「うそつき」
愛しいあなたがくれるのは、私がほしい愛じゃない。
――神でも王でもない、ただの愚かな女の呟きは彼女の影だけが知っている。
タイトル「想いはどこまでもすれ違う」
作者:雨柚