耳=誘惑
目に飛び込んで来た光景に、彼女はドアノブに手をかけたままの状態で立ち尽くしていた。
「……っ、ぐはっ」
「なあ。お前、自分が頭下げれば事が丸く収まるとでも思ってんのか? ……舐めてんじゃねぞ」
普通に生きていればなかなか聞くことはないだろう人を殴る鈍い音と呻き声。そのあとに続く、恫喝というに相応しい低く重さを孕んだ声は彼女もよく知る人物のものだ。
ここで繰り広げられているのは喧嘩などという生易しいものではない。
もっと血腥くて非情な行為だ。
「ん?」
止めていた足を動かせば、彼女が来ていたことなんてとっくに気づいていたくせに、さもいま気づいたかのような顔をして男はこちらに視線を向けた。まるで彼女に見せつけるように、床に蹲る相手の腹に蹴りを叩き込みながら。
「っと、もう約束の時間だったか。……おい、コイツは奥に運んどけ」
慣れた様子で部下に命じて、男は改めて彼女へと向き直る。
「すまんな、お嬢さん。変なとこ見せちまって」
この男の謝罪ほど重みのない言葉もそうないだろう。
生まれてこの方自分が悪いなんて思ったことがないような男だ。いや、自分が悪いと自覚していてなお、だからどうしたと鼻で笑うような男なのだ。
「……っ」
近づいてくる男に身体が震えた。
湧き上がってくる感情を抑えることができない。
「驚いたか? あー、顔色も良くねぇし、今日はもう帰って……」
心配げに顔を覗き込んでくる男の言葉を聞いた瞬間、彼女のなかで何かが弾けた。
「こんなことで私が怖気づくとでも思ったわけ? ……バカにしてくれるわ」
暴力が怖くないとは言わない。それでも、今更こんなことで怖がったりなど……この男を嫌いになったりなどしない。なのに、まるで忠告でもするかのようにわざとそれを自分に見せつけるのが腹立たしい。
遠回しに線を引かれているようで気に食わない。
「私はっ! ここがどういう場所かも、あんたがどんなヤツかもわかってて好きだって言ってんのよ!!」
男と同じ道を生きる覚悟なんてない。
それでも、彼女はこの想いを自覚したときから男と離れる選択肢が自分のうちにないことを理解していた。
男は知らないのだ。
彼女がどんな気持ちで彼へと好きだと伝えたのか。
どれほど悩み、考えたのか……何も知らないくせに。
「舐めるんじゃないわよ」
この茶番には、彼女の気持ちなんて所詮子どもの気の迷いで、現実を知れば目を覚ますだろうという男の考えが透けて見える。
大人の物差しで勝手な理屈を押しつけて、彼女の想いを否定する権利はこの男にだってないはずだ。
「今日は帰るわ」
鋭く睨みつけてから抑えきれぬ苛立ちを表すかのような足音を立て、入って来たドアへと向かう。男は何も言わない。
なんで引き留めないの。
たった数歩で着いてしまったドアの前で踵を返し、ぼけっと突っ立っている男のもとへと戻ると不思議そうな顔をする男の服を掴んで、ドスを利かせた声で呟いた。
「連絡してこなかったら、殺す」
自分ばかりが好きだ、なんて嘆く気はない。
それでも少しくらいこっちを向いてほしくて、彼女と揃いのピアスが揺れる左耳に噛みつくようなキスを贈る。
「……痛っ」
微かに血の味が広がる口に笑みを浮かべ、今度こそ部屋から出て行った。――だがら彼女は知らない。
「ったく、可愛い誘惑されちまったなぁ」
という男の呟きを。
愛おしげにピアスを触るその姿を。
タイトル「こっちを向いて」
作者:吉遊