腿=支配
こんな感情はただの気の迷いだ。
由緒正しい公爵家に生まれ、その優秀さゆえに若くして父の爵位を継いだ。年下の王太子を側近として支えながら、ゆくゆくはこの国の宰相となる……それが、自分だ。
「あら、閣下。会いに来てくださったんですか?」
だから、その自分がこんな女に執心するはずがない。
血筋も教養もないような女のもとに通っているのは、なんらかの感情からではなく溜まったものを吐き出すためだ。王女と婚約している身では派手に遊ぶこともできないから、手っ取り早い方法を合理的に選んだ結果である。
彼女はそういう職業の女で、たまたま彼と相性が良かったから、少しばかりその関係が続いているに過ぎない。
そうでなければ、ならない。
「無駄話をする気はない。……さっさと服を脱げ」
自分の口から出た言葉に彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
彼女を前にすると彼はいつもこうなってしまう。
彼とて貴族の男である。彼女がいくら娼婦であろうと、最低限の女性に対するマナーくらい持ち合わせている。平素の彼ならば女性に対してこのような物言いをする男がいれば、相手が貴族であれ平民であれ眉を顰めただろう。
なぜか、彼女にだけは上手く言葉が紡げない。
彼はいまのところ、その原因を気の迷いを起こしていることに対する苛立ちだと解釈していた。
「相変わらず、せっかちな人ですね。他の子にそんなこと言ったらいくら公爵様でも引っ叩かれますよ」
「言うわけがないだろう。第一、私はお前以外を買う気はない」
「……そう」
少しだけ目を泳がせた彼女のそれが自分の言葉に対する照れだとは微塵も思わない彼は、なかなか服を脱ごうとしない彼女をそのまま寝台へと押し倒した。
「きゃっ!?」
「遅い」
「もう、仕方のない方」
彼女と話をするのは苦手だ。
その顔も声も仕草も話し方も……彼女のすべてが彼を落ち着かなくさせる。自分では制御できないその感覚は虫唾が走るほどに不快で腹立たしい。
適当に服を剥けば、嫌がるどころかクスクスと笑い声を漏らす。
寝台へと横たわる身体は彼の知るどの女よりも美しい。
彼女をどれだけ抱こうと満たされることはない。それを、彼は自分の求めるものが彼女にはないからだと思っていた。身体を重ねるたびに飢えていくような気がするのは、彼女に何かが足りないからだと。
「…………」
「? どうかしました?」
「痕が」
彼の小さな呟きに、彼女は困ったような顔をする。
見下ろす彼女の身体にはいくつかの紅い痕がついていた。
腕、胸、腹……薄く残るそれは他の客が彼女を愛した印だ。自分と同じように彼女を求める客がいるのはわかっている。
彼女は娼婦なのだから。
「痛っ」
それでも、自分以外の誰かが彼女を組み敷くさまを想像すると頭が煮えた。
怒りのままに彼女の足を乱暴に押し開くと痛みに抗議の声を上げたが、恥らうこともなく秘された場所を晒す。
彼が求めるものなど何も持っていない女だ。
血筋も家柄も教養も貞淑さも何一つない。
なのに、なぜこんなにも欲しているのか。
「痕をつけたまま来るな。……不愉快だ」
「こんなのただの戯れでしょう。貴族の皆様はつけないの? 情緒がないのね」
「意味のないことなどしてどうする」
「意味って……。愛し合った証でしょう?」
「娼婦が愛、か」
「嫌な言い方しますね。娼婦にだって愛はありますよ」
微かな怒りを滲ませ自分を見つめる彼女に、言いようのない苛立ちを感じる。もやのように彼の心を覆うそれは重く息苦しさを孕んでいた。
「愛している男が……」
いるのか、なんて。
それこそ聞く意味がない。
必要もない。
自分には関係がない。
だから、この胸の痛みはただの気のせいだ。
「消える証に意味などないだろう」
いずれ消えるものだ。
どれほど強く刻みつけようとも永遠に残すことはできない。
「想いは残るから良いんですよ」
「想いなど」
残して何になる。
いくら自分のものだと印をつけても、彼女を手にすることなどないのに。
白く何の痕もない彼女の太腿に紅い色をつけてやれば、この苦々しさが少しは消えるだろうか。そして、その痕とともに抱える感情も消え失せればいい。
ゆっくり彼女の太腿へと唇を寄せる。
触れる寸前に湧き上がった感情の名を彼は知っていた。
知っていて、気の迷いだと判断してきたそれは、いまこの瞬間ですら認めることはできないもので。
「想いなど……どこにもない」
だから、痕など残さない。
タイトル「認められないこの感情の名は」
作者:吉遊