鼻梁=愛玩
あどけない顔が今にも泣き出しそうに歪むのを見ていたくなかった。
彼と少女の関係は傭兵とその護衛対象くらいの関係でしかないけれど、子どもの泣き顔なんて見たくないのが人情ってもの。
彼が“おませなお嬢さん”程度にしか思っていない少女が実は貴族だとか、彼の身分が奴隷上がりの平民だとか、そんな言い訳に何の意味もないことはよく知っている。
子どもが、大人の事情で泣くのは見たくない。
まして、泣くことすら我慢するような子どもを前にただ突っ立っているだけなんてできるはずがない。
立場上、少女に手を差し出すことは望ましくないとわかっていた。
彼は所詮、彼女の父親に雇われているだけの身分だから。契約が切れればそれで終わり。必要以上の情は仕事の邪魔になるだけだ。
ここで少女に懐かれたりなんてしてしまったら痛くもない腹を探られて面倒なことになる。そうとわかる程度には彼も経験を積んでいる。
それでも――それでも、顔で笑って心で泣いている子どもを放っておくことなんてできないだろう?
「お嬢さん、泣きたいときは泣いたらどうですか?」
他の護衛が面倒事に巻き込んでくれるなと顔を顰めるのを尻目に、彼は泣きそうな顔で父親の背を見送っている少女に声をかけた。
少女にとって彼は道具のようなもののはずだから、返事はおろか何の反応も返ってこないことも覚悟している。けれど、予想に反して少女は彼を真っ直ぐに見つめた。キッと彼を睨みつける様子からは彼女の気の強さが窺える。
今からこれでは、将来はたいしたじゃじゃ馬になりそうだ。
「っ、わたしは泣いたりしないわ。……だいたい、誰よ、あなた」
「一応、初めて会ったときに自己紹介はしたんですがね」
「知らない」
苦笑する彼に、少女の態度はにべもない。
「俺の名前は――」
「いいわ、どうせ覚えないもの」
名乗ろうとした彼の言葉を遮って、少女は力なく首を振る。
苦しそうにも見える瞳は目の前の彼を映さず、どこか遠くを見ているようだった。
「どうせ……どうせ、あなたもすぐにいなくなるのよ。わたしを放ってどこかに行っちゃうの。お母様も、先生も……みんな、そうだったもの」
優しかった母親も専属の家庭教師も仲の良かったメイドも、もう少女の周りにはいない。
離縁され、解雇され、少女が誰よりも慕い尊敬する父親の手によってこの邸から放逐された。少女にとってはこの邸が世界のすべてだから、世界に自分以外誰もいないのと同じことだ。
「そのお菓子」
彼も少しは少女の事情を伝え聞いていたから、空気を読まずに話を逸らした。
このまま苦しませるだけなら、自分のこれからの仕事を危うくしてまで話しかけた意味がない。
「そのお菓子、美味そうですね」
「え?」
彼が指差す小さな菓子。
完璧に整えられたテーブルの上の皿に溢れんばかりに乗っているそれは父親から少女への贈り物だ。食べきれないくらいの量の、少女の好みから外れたお菓子。彼女と父親の関係を表すようにいつも放置されている。
「それをくれたら、俺はお嬢さんに雇われてあげますよ」
「わたしに?」
心なしか少女の瞳が輝いた気がした。
「はい。だから、お嬢さんの父親が何て言ったって、お嬢さんがもう来るなって言わないかぎりは俺はお嬢さんの傍にいます。いらないお菓子ひとつで、悪くない取引じゃありません?」
悪戯に誘う少年のような顔で彼は笑いかける。
少女は少しの間だけ考えるふりをして、あどけない顔にニヤリと子どもらしからぬ笑みを浮かべた。
「――いいわ。雇ってあげる」
この瞬間、少女は彼の雇い主になった。
――まだ、このときはその関係が数年も続くだなんて思っていなかったけれど。
「じゃあ、契約成立だ」
そう言って、彼は好きでもない甘いお菓子を口に放り込んだ。
◇◇◇
「ちょっと! 雇い主の前で何をぼーっとしてるのよ!」
子ども特有の高い声に、彼は現実に引き戻された。
「おっと、すみません、お嬢さん。……ちょっと、昔のことを思い出してまして」
「昔のこと?」
「お嬢さんに雇われたときのことですよ。お菓子で、ね」
「っ、……あ、あれはあなたが言い出したことでしょうっ!」
意味ありげに言うと、少女は顔を真っ赤にして怒る。
あの頃に比べると、彼女はかなり素直に感情を表現するようになった。貴族令嬢としてそれが良いのか悪いのかはわからないが、なぜか少女の父親も何も言わないので彼は気にしていない。
おそらく、少女の根は変わっていない。ただ、感情を殺すようにしていただけで、もともと感情豊かな子なのだろう。子どもはそれくらいの方がいい。
少女にだいぶ肩入れしてしまっている自覚のある彼など、彼女がいかにも貴族のお嬢様然とした女に育ったら泣いてしまうなと常々思っているくらいだ。
「それに、今はちゃんとお金で払ってあげてるわ!」
あの父親相手に交渉に行った少女の雄姿を思い出し、彼は顔を引き攣らせる。
……あれは、なんというか、とんでもなく心臓に悪かった。
「それはそれで……なんていうか、子どもにお金払われるっつーのも心苦しいんですがね」
「懐が苦しいよりは良いでしょ」
ふふんと笑って胸を張る少女は可愛い。目に入れても痛くないくらいだ。たまに、たまーに、憎たらしいと思うこともあるが、それもご愛嬌である。
そんな彼女に彼は苦笑を浮かべるしかない。
「お気遣い、痛み入ります」
「わかればいいのよ。ウィルは良い子ね」
少女の言葉に彼はたちまち渋面になった。
“ウィル”というのは彼女の母親が昔飼っていた犬の名前らしい。つまりはペットの名前。それで呼ばれるのはさすがの彼も嬉しくない。
「だーかーらー、犬の名前で呼ぶのは止めてくださいって。俺の名前は――」
「あら、ウィルは勇敢な守護者って意味なのよ? 素敵でしょ?」
「え、そうなんですか? それなら確かに……って、騙されませんからね? ちゃんと俺の名前を――」
最後まで言い切ることはできなかった。
少女が突然走り出したからだ。
「ちょ、お嬢さん!?」
子どもというのは、ときに大人には理解できない行動をする。
大人びた少女もその例に漏れず、その過ぎるほどの行動力で彼を困らせていた。
「ウィル!! あそこっ、あそこにリスがいるわ!!」
はしゃいだ声を上げる少女に、“そりゃ、森なんだからリスくらいいるでしょうよ”という言葉は呑み込んだ。言ったが最後、何倍にもなって返ってくるに違いない。
「あ……木に登っちゃった」
これでは近くで見られないと少女は残念そうに肩を落とす。
「あー、お嬢さん。そんなに、見たいですか?」
「見たい!」
「……いつになくいいお返事で。へいへい、雇われ者はお嬢さんのために精一杯働きますよ――っと」
言い終わる前に、彼は少女を抱き上げた。
木の上にいるリスにも触れられるようにと右腕に乗せる。肩車をしても良かったのだが、そんなことをしてはスカートを履いている彼女に毛を抜かれるだろう。彼はまだ禿げたくない。
「う、うわっ、ウィル……高い!」
意外にも少女は戸惑っている。
もっと泰然として“もっと右に行け”だの“木に近づけ”だの命令してくると思ったのだが、予想が外れて肩透かしを喰らったような気分だ。そういえば、少女にこうしてやったのは初めてだったかもしれない。
しかし、その高さにもすぐに慣れてしまったのか、しばらくすると少女は歓声を上げて木に手を伸ばし始めた。
「っとと。……お嬢さん、危ないからあんまり暴れないでくださいよ」
「あなたが落とさなければいいだけよ」
「はいはい。横暴だなあ」
溜め息を吐きつつぼやく。
少女を抱え上げるくらい彼にはわけないが、それでも暴れられると困るのだ。“はしゃぎすぎないでくださいよ”と至極真っ当な注意を少女に投げかけ、もう一度彼は深い溜め息を吐いた。きっと少女の耳には彼の声は届いていないに違いない。
結構な時間、リスに夢中になっていた少女だが、気がつくと彼の顔を見上げていた。
「何ですか、お嬢さん。俺の顔に何か面白いものでもついてます?」
「そうね、面白い形の目と鼻と口がついているわ」
「……それ、整ってないってことですよね?」
失礼なと声を上げれば、少女は楽しそうにくすくすと笑う。
こうやって、少女を抱き上げて一緒に遊んであげられるのはいつまでのことなのだろう。きっと、こんなに暢気な午後を過ごせるのもあとわずかだ。
少女にも、それはわかっているのだろう。彼女は聡い子だから。
「わたし、昔はよくウィルにキスしてたわ」
「……犬にキスするひとっていますよねー。愛犬家ってやつですね」
「そういえば、こっちのウィルにはしてないわね」
「いや、俺は犬じゃないんで……つか、お嬢さんにキスされたりなんかしちゃったら俺の命が危ういのでホントに止めてください」
彼は全力で首を横に振る。
小さい女の子に、しかも貴族令嬢にキスされるなんて、社会的にだけでなく色んな意味で彼の人生が終わってしまう。たとえそれに親愛の意味しかなくも、命がいくつあったって足りない。
いくら彼と少女の仲が良くても、信頼という形でつながっていても。彼はただの護衛で平民の男。彼女が父親や親類の頬に挨拶でキスするのとはわけが違うのだ。少女は誰とでも親しくしていい身分ではないから。
「ウィル」
また、犬の名で呼ばれた。
「わたしが結婚して邸を出て行っても、わたしのこと忘れないでね」
一緒に来いとは言われない。
隣国の貴族に嫁いでいくことが生まれたときから決まっている彼女に、ただの雇われ護衛に過ぎない彼がついていくことは無理だから。二人ともがそうとわかっているから。
「……――」
「っ!?」
なんとなく感傷的な気分になっていると、少女が彼の耳元で囁く。
それは風に掻き消されてしまいそうなほどの小さな声で、けれど確かに彼の耳に届いた。
少女が口にしたのは彼の名前。
ウィルなんて犬の名前ではなく、彼の本来の名前。
初めて、少女に名前を呼ばれた。
「ずっと守ってくれてありがとう。わたしの可愛い――」
鼻に口づけられる。
まるで、犬の鼻先にキスを送るように。
「え、ちょ、え、ええええええぇぇぇ!!!」
「うるさい!」
あまりの衝撃に叫んだら、不機嫌そうに顔を顰めた少女に今度は鼻を噛まれた。
鼻に噛みつくなんて、犬は彼よりも少女の方だろう。もっと恐ろしい猛獣かもしれない。
思いっきり噛んだらしく、彼の鼻がかなりの痛みを訴えている。鏡を見たら歯形がついているのではないだろうか。
これから邸に戻った後のことを考えて、彼は憂鬱な気分になった。同僚にどうしたか聞かれるのが怖い。いや、それよりもまず少女の父親に尋ねられてなんて答えれば……。
「ウィル? まさか怒ってるの?」
「…………」
「ちょっと、ウィル?」
彼が黙っていると、少女は途端に焦り始める。
さすがにやりすぎたと思っているのか、謝りこそしないものの少し決まり悪げだ。
甘やかすから付け上がるのだと思っていても、彼の中に彼女を甘やかさないという選択肢はない。男の鼻に噛みつくような少女が本当に大人になってしまうそのときまで、彼くらいは子供扱いして甘やかしても許されるだろう。
「犬の名前で呼ぶし、鼻には噛みつくし……お嬢さんはホント、俺のことを何だと思ってるんですかね?」
「それは、もちろん――」
あっという間に気を取り直した少女は自信満々に答える。
「――わたしの可愛いおっさんよ!」
その言い草に、自分がもうすっかり“おっさん”と言われる年齢になってしまったという認識のある彼はがっくりと肩を落とした。
静かな森に、少女の伸びやかな笑い声が響く。
これは、そんなうららかな午後のひととき。
――いつかは消えてしまう、穏やかで幸福な日々。
タイトル「わたしの可愛いひと」
作者:雨柚