頬=親愛
不毛な恋だと誰かが言った。
彼がどれだけ想っても、それは横恋慕でしかなくて。
親友よりも彼の方が彼女を愛していると告げて、目の前の細く柔らかな身体を掻き抱いてしまいたい。でも、それをすればきっと隣にもいられなくなるから――友人という立場すら失ってしまうから、臆病な彼は口をついて出そうになる言葉を必死に飲み下した。
「あー、ほんとゴチソウサマです」
随分なのろけを聞かされたと肩を竦めてみせる。
「なっ……私、そんなつもりじゃ……っ!」
のろけたつもりはないと慌てて首を振る彼女。
他愛ないことで頬を赤く染める様子は惚れた欲目を抜きにしても愛らしい。
彼女が頬を染める理由が、もし自分にあったのならどれだけ良かっただろうか。つい、そんな埒もないことを考える。
彼女が彼の親友を想っていることを誰よりもよく知っているのに、図々しくてとどまることを知らない彼の恋慕の情は増すばかりだ。
幸せになってほしい。
でも、他の男と幸せになる姿は見たくない。
せめて彼のいない世界で幸せになってくれと思うのに、親友と彼女への友情がそれを邪魔するのだ。穏やかな親愛の情は、なんの強さも感じないのに熱く激しい恋情を優しく押し止める。
己がこんなにも友情に厚い男だったなんて初めて知った。
彼らの幸せに影ひとつ落とさせることはできないから、彼は痛みを抱えたままこの世で一番大事な二人の傍にいる。
最も近い場所で、想い合う二人を見ている。
「キスしてほしいだの、キスしたいけど恥ずかしいだの……それがのろけじゃなくて何なんだよ?」
俺なら、そんなことを君に求めはしないのに。
俺なら、君の気持ちが育つまで待ってあげられるのに。
俺なら、もっと上手く――もっと君を大事にできるのに。
「……だって、できないんだもん」
「何で? キスなんて口と口をくっつけるだけですよー、お嬢さん?」
「それだけじゃない!」
「あっ、もしかしてディープなやつ? なら、君にはちょっとハードル高いか。あいつも無茶言うなー」
「なっ、ちが……っ! …………っ、違わないけど、違っ……!!」
「どっちだよ」
顔を真っ赤にして慌てる彼女を笑う。
からかわれたと怒る彼女が好きなのは彼の親友。
それでも愛おしくて堪らないから、彼は彼女にそっと手を伸ばした。
「なら、練習する? 俺と」
「……え?」
「俺ならあいつより上手に教えてあげられるよ?」
彼女の口が声なく“何を”と形作ったのを見てとった彼は、ぐっと顔を近づけて彼女の耳元で囁く。
「……キスの、仕方」
「!?!?」
目の前で赤く染まった耳をかじりたい衝動をどうにか抑え込んで、彼は彼女から離れた。
そして、金魚みたいに口をパクパクさせる彼女を腹を抱えて笑う。
「顔、真っ赤だね」
「もうっ、からかったのね!?」
からかいじゃないと、本気だと口にしてしまえば呆気なくこの瞬間は終わってしまうだろう。
「ははっ、ごめんごめん。独り身には辛いのろけだったからさ」
「だからって……ひどいわよ、もう。だいたい、のろけじゃなくて私は真剣に相談したのに」
「あー……そういや、何で俺に相談したの? いや、頼ってくれるのはいいんだけどさ。同じ女の子の方が相談しやすいんじゃない?」
彼の疑問に、彼女はキョトンとした顔で返した。
「だって、一番信頼してるもの」
何でもないことのように言う。
それは、まるで刀の切っ先を喉元に突き付けられたような気分だった。
「――駄目だよ」
「え?」
「俺なんか信頼しちゃ駄目だ。…………男はみんな狼だからね」
言ってしまってから、彼女が怪訝な顔をしているのに気づいて慌てて取り繕う。
正直に言いすぎた。本心を明かすつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。……隠すことには慣れているはずなのに、彼女の前だとどうにも調子が狂う。
「なにそれ。じゃあ、狼さん、相談のお礼をしてもいい?」
「お礼って、俺、とくに何もしてないんだけど」
「話を聞いてくれたじゃない。寂しい独り身相手に悪いことしちゃったわね」
彼女の言い方に、彼は苦笑を浮かべた。
少し根に持たれてしまったようだ。
「まあ、くれるならもらうけど。お礼っていったい――」
言い終わる前に彼女の顔が近づいてきた。
彼と彼女の影が重なる。
それはひどく残酷な――。
「今日はありがと。あなたも遊んでばっかりいないで、今度は口にキスしてくれる子見つけなさいよね!」
そう言って去っていく彼女の後ろ姿を呆然と見送りながら、彼は頬に――さっきまで彼女の唇が触れていた場所に手をやった。
頬へのキスは確か“親愛”だったか。
その手のことに疎い彼女が意味を知っていたかは定かではないが、きっとキスに込められた思いに大きな違いはないだろう。
「頬なら親愛。唇なら愛情……か」
そう呟いて、彼は自分の手を見下ろす。
頬に触れていた手を。
「……っ」
急いで水場に駆け込んだ。
蛇口を捻り、勢いよく出てきた水で顔を洗う。
冷えた水は彼の頭を冷やすには十分で。程なく冷静さを取り戻した彼は乱雑にタオルで顔を拭った。
「――親愛に一生縛られるなんてご免だ」
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように呟く。
惚れた女の唇の感触を後生大事に生きていく自分を想像して吐き気がした。
頬の感触は呆気なく消えてしまったのに、彼の中の親愛と恋情は消えてはくれないのだから質が悪い。
そんな質が悪い女を、自分は一生愛し続けるのだろう。
そう思って――堪らなくなって、彼は目を閉じた。
タイトル「親愛よりも、君に捧ぐ」
作者:雨柚