髪=思慕
ノックのあとに鍵を開ける音が聞こえて、この男のこういうところが嫌いなのだと改めて思う。
「ご機嫌はいかがですか?」
「最悪」
顔も向けずに切り捨てるように答える。
こんな小さな抵抗など男は気にも留めないだろうが、どれほど無駄であろうと抗うことをやめることはできない。自分からすべてを奪った男に対する、それが彼女の矜持だった。
しかし、男は彼女の態度など意に介さない。
「おや、夕食ににんじんでも入っていましたか?」
まるで、いままでの関係が何一つ変わることなく続いているように振る舞うのだ。……もう、過去には戻れないのに。彼がその手ですべてを壊してしまったというのに。
「お前と話をしていること自体に虫唾が走るわ」
「ひどいですね」
「お前の顔を見るのが嫌。お前の声を聞くのが嫌。お前が存在しているのが嫌」
「おやおや。ずいぶんと嫌われてしまったものだ」
過去、彼女の教育係として傍に在った青年は、いまはこの国の王となった。
――彼女の父親を殺して。
なぜそんなことになったのか、彼女は未だにわからない。
孤児であった男の才を見い出し、宰相にまで取り立てたのは父だ。幼い娘の教育を任すまでに父は彼を信頼していた。
そして、それは彼女も。
周りから冷血と恐れられている彼が自分にだけは甘い笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。小さい頃から、ともすれば実の父よりも彼女の傍にいてくれた男。そんな彼にいつからかほのかな想いすら抱いていた。
「嫌うなんて……そんな生温いものじゃないわ。憎んでるのよ、心の底から」
優しい過去がいまの彼女を苛む。
こんなふうに裏切るのなら、傷つけるのなら、最初から何も与えないでほしかった。与えられた温もりは、いまや業火となって彼女の心を焼き尽くしている。
「つれないですね。こんなにもあなたを一途に思っているというのに」
彼女の言葉など男には届かない。
憎まれている相手に触れるとは思えない優雅な手つきで、男は彼女の髪に口づけた。
「……っ!」
それを目にした瞬間、カッと頭に血が昇った。湧き起こった衝動のままに隠し持っていた短剣で男の唇が触れた髪を切り落とす。
身体が熱い。
怒りのせいか。憎しみのせいか。
髪に神経でも通っていたかのように身体が……心が、悲鳴を上げる。切り落としてもなお燻ぶる何かを払い除けたくて、彼女はもう一度短剣を振るった。
美しい髪が無残に床へと散らばる。
「!」
彼女の行動を予想できなかったのか、さすがの男も驚きに目を瞠った。
「お前が私に触れて良い場所なんて一つもないのよ!」
髪も手も足も……唇も、もうどこにも触れてくれるな。
男の熱は彼女に過去を思い出させる。
いっそ、この髪と一緒に切り捨ててしまえたらよかったのに。
「…………」
微かな沈黙のあと、男は自分の手に残った髪を見ながらポツリと呟いた。
「私にはどうしても欲しいものがあったんです」
「何? 国? 宰相にまでなっておいて強欲なことね。与えられる地位では満足できなかったってことかしら」
「いいえ。国など、地位など……求めたことはありませんよ」
「じゃあ、どうして……っ!」
どうして父を殺したのだ。
どうして、彼女を裏切ったのだ。
「わかりませんか、姫様。私が望んだのは――」
熱を孕んだ瞳が彼女を射抜く。
彼女を見据えたまま、男は手のなかにある髪にもう一度口づけた。……その仕草は誓いのようであり、忌まわしい呪縛のようでもあった。
「あなただけです」
カチャリと、どこかで鍵のかかる音が聞こえた。
タイトル「囚われたのは」
作者:吉遊