龍家の墓守
「百華国の花嫁」番外編で、珀輝と春蘭の出会いを描いてみました。百華国の「翠月2」の後にお読み頂くと解りやすいと思います。
重く垂れこめた鈍色の雲の下で、零下の北風が容赦なく生者の体温を奪い去る――――珀輝の葬儀は、そんな陰鬱この上ない厳冬の午後に行われた。
龍家の広大な墓所の片隅に、ひっそりと建てられた白い墓石。みごとな龍の彫像を頂く墓石の下に埋葬されるのは、珀輝が用意した彼に生き写しの人形だ。
けれども、この精緻な亡骸を身代わりだと疑う者は、誰もいない。
参列者の数は少数であるにもかかわらず、そのほとんどを珀輝は知らなかった。義理の参列者達を無視して、彼はただ、棺の前で祈りをささげる白龍姫の姿を、離れた丘の上から眺めていた。
龍家の「食客」として白龍姫のもとで過すこと約二年。彼女と夫の珀文英との静かな新婚生活をしばし見届けてから、ある日珀輝は彼女のもとを去る決意をした。
二年前、瀕死の彼に無条件で自分の命を分け与えてくれた、旺劉の血をひく白龍姫こと宝珠。旺劉の面影を宿す彼女に、別れを告げることすらせずに己の存在を消したのは、ひとえに珀輝のわがままゆえ――――。
墨染の胞をまとった彼女が、両手いっぱいに抱えた白い花束をそっと棺の上に置く。
「さよなら、珀輝」
小さくそうささやいて踵を返すと、近侍を従えた皇后は、二度と振りかえることなく歩み去っていった。
嗚咽どころか、涙すら見せずに。
それが冷たい態度だとは、別段思わなかった。
彼女は人前で泣くのが苦手なのだと、彼は薄々気づいていたから。
龍家はもともと白華族の皇族・珀家の分家だった。だが、宝珠の祖母が白龍の妻になって以来、珀家と龍家の立場は逆転した。
当時の宝珠は、龍家の長の一人娘だった。長である父に、息子はいない。ゆえに彼女は、将来国を率いることさえ視野に入れたスパルタ教育を施されて育ち、幼い頃から決して甘えを許されない立場に身を置き続けた。
彼女の世界に必要だったのは、四書五経に武術に兵法。偽りの頬笑みに隠された策謀と駆け引き――――。
周囲の国々との軋轢に悩まされていた当時の白華国において、弱さは最悪の罪だった。弱い皇族など、不要な存在だったのだ。たとえそれが、無垢でいたいけな姫君であったとしても。
宝珠が墓所を去り、参列者達が四散すると、とたんにしめやかさを放り出した珀家の女達が、声をひそめてささやき始める。
「皇后様ったら、相変わらず男勝りよねえ。誰が死んだにしても、涙ひとつ見せないんだから」
「白華帝の葬儀の時もそうだったんでしょ? 喪すら明けない内にさっさと珀家との再婚を決めたっていうし。あれじゃあ、白華帝も浮かばれないわ」
「いくら美人でも、情のない女はいやよねえ」
人気のない龍家の墓所で、ひとしきり宝珠の悪口を言った後、彼女達の姿もまた消えてゆく。
ほたり、ほたり。
純白の花弁のような雪が、空から舞い降りてきた。
それでも、珀輝は丘から離れない。丘の上に生い茂る木の蔭から、ただぼんやりと自分の墓を眺めている。
深緑の胞をまとい、周囲の木立に溶けこんだ彼が、心の中でおぼろげながらもさっきの女達に反論していた。
宝珠は非情なわけではない。幼い頃から心を殺して我慢ばかりしてきた不器用な彼女は、たとえどんなに悲しくとも、他の女たちのように泣けないだけなのだ、と。
(だが――――)
珀輝は一度だけ、彼女の頬にしずくが伝うのを目撃したことがある。
それは彼が宝珠に出会った日のこと。彼女が戦場で白華帝の亡骸を探して、累々と横たわる屍の中をさまよい続けていた時、ほんの束の間だけ目にした光景。
あの日、珀輝は人間の宝珠を、龍である自分の花嫁に迎えた。
彼女は便宜上とはいえ、彼の妻だ。しかも、今では旺劉と彼をつなぐ唯一の縁という、無二の存在でもある。
だが、宝珠は旺劉ではない。白龍王の血を引いているとはいえ、性別も性格も全然違う。
それなのに、彼女の持つ白龍の気が、統治者然とした振る舞いや鷹揚さが、ふとした折に見せる面影が、時おりどうしようもなく旺劉を彷彿とさせ、珀輝の心を掻き立てる。
宝珠本人には、そんな彼の心中など一生わからないだろう。
それでいい。彼女の人生に、これ以上の重荷など必要ない――――。
自分の彼女への想いが、圧倒的な「片想い」だということは、この二年間に嫌というほど思い知らされてきた。
彼女が旺劉の代わりになれるわけでもない。それでも、彼は一度でいいから夢を見てみてみたくなってしまったのだ――――自分の亡骸を前に、悲しみに暮れる彼女の姿を。
「何でそんな馬鹿なことを」と問われれば、魔がさしたとしか答えようがない。
けれども、現実の宝珠は彼のために一粒の涙すら流さなかった。最後の最後まで、暗く思いつめたような表情を崩さぬまま。
ほたり、ほたり。
雪の花弁が、彼女の姿を少しずつ隠してゆく。
ふいに、丘の上で独り残された珀輝の心に、言い知れぬ罪悪感と孤独が襲ってきた。
宝珠は二年前に、最愛の夫を亡くしたばかりなのだ。そして彼女はその苦しみからまだ立ち直ってなどいない。
龍である珀輝は彼女にとって、再婚相手となる人間の男から身を守るための、単なる便宜上の婚姻相手でしかない。とはいえ、それでも彼女は二年前に、瀕死の珀輝に自分の命を分け与えて救ってくれた恩人なのだ。
なのに、彼は恩に報いるどころか、身勝手にも彼女の心の傷をえぐるような、最悪の去り方を選んでしまった。
己の罪の深さと、自ら手放してしまった存在の重さを、今さらながら痛いほどに思い知らされる。
だが、もう二度と彼は宝珠の許には戻れない。
気がつくと、旺劉を失った時に空いた心の穴が、またしてもぽっかりと口を開けていた。
全てを闇に飲みこむような、狂気を孕んだ底知れぬ深淵。
この二年で忘れかけていた飢餓にも似た寂寞が、ふたたび彼を支配する。
ほたり、ほたり。
ほたり、ほたり。
純白のぼたん雪が視界を白に染めてゆき、むき出しの素肌があまりの寒さに感覚を失い始める。
心がまるごと穴に吸い込まれてゆきそうになり、行くあてもない彼が胸中でつぶやいた。
(……このままここで土に還るのも、悪くはないかもしれぬ…………)
もともと、旺劉が死んでからの彼は、生きた屍でしかない。
しかも、自分勝手な理由で偽装死までした身には、それが最も相応しい未来である気さえした。
ほたり、ほたり。
降りしきる雪が、彼の全身を白に染め上げてゆく。
銀世界の一部となりかけていた珀輝が、己の末路を決めかけていた時。
ふと、視界の隅を、大きな灰色の塊が横切った。
(熊……いや、人か……?)
目を凝らして見ると、その「何か」は頭から腰までを、すっぽりと一枚の古布で覆っていた。
どうやら、人のようだ。脇には蓋つきの編み籠を抱えている。
(墓所の墓守であろうか。それにしても……)
龍家の墓を管理する者にしては、ずいぶんとみすぼらしいいでたちだ。
しゃがみ込んで丸くなった墓守が、もそもそと敷地の隅を移動していった。
純白に染まりつつある世界をのそのそ動き回るみすぼらしい姿が、まるで白龍の中に混ざった己を彷彿とさせて、彼が微かに苦笑いを浮かべる。
墓守は先ほどから墓所の更地に生えている草を切り取っては、籠に放りこんでいた。ねずみ色の作業衣は男物だが、白い繊手からすると、どうも中身は女性らしい。
籠がいっぱいになると、彼女は墓地の隅にある墓守の家へと入ってゆき、空の籠を抱えて戻ってきた。
(そういえば、龍家の今の墓守は女性だと聞いたことがある。それにしても、なぜこのような時期に草むしりなど……?)
だが、草むしりにしては、取る草を一つ一つ確認しているし、だいいち草の根はしっかり地面に残したままだ。
興味に駆られた珀輝が、そろそろと木立の蔭から姿を現し、墓所へと下りはじめた。
だだっ広い墓地へと裏門から侵入し、作業に夢中の彼女に背後から近づいてゆく。
がさり。
後方から野生動物の気配がしたが、彼は無視した。
珀輝とて龍のはしくれだ。たとえ虎が襲ってこようとも、龍界からの追手でなければ心配はない。
それよりも、気になるのは彼女の方だ。
彼女からは、微かに紫龍の気配を感じる。
(まさか彼女は、紫龍なのか……?)
一瞬、龍界からの追手かと警戒して木陰に身を隠したものの、すぐにそれが杞憂だとわかり、心中で安堵の息をもらす。
本物の紫龍とは比べものにもならない希薄な龍の気は、おそらく紫龍の生まれ変わりか、あるいは紫龍と人の子の子孫か――――。
古びた布に覆われたその姿をひそかに凝視していると、ふと彼女が作業の手を止めて、面を上げた。
彼女が目元を覆う布を片手でまくり上げると、長いまつ毛に縁どられた双眸をすがめて、視線を珀輝の斜め後方に見据える。
ボロをまとった彼女の素顔は、予想外に若く美しかった。
宝珠すら霞んでしまいそうな、華やかな美貌の墓守。どこか堂々としたたたずまいが、なぜか旺劉を思い起こさせて、珀輝はしばし彼女に見とれた。
(我は、どこかで彼女を見たことがある。だが、どこで……?)
がさり。
近くで音がすると、コフコフと荒い吐息が聞こえてきた。
どうやら腹を空かせた熊が、墓への供物を目当てに降りてきたらしい。
いつの間にか墓守が、音もなく籠を地面に降ろしていた。
それどころか、気がつくと彼女は、墓所に飾られていた巨大な龍の彫像を、両手で肩の高さまで持ち上げている。
磨き上げられた白い像は彼女よりもはるかに大きくて、彼は思わず目を見張った。
巨岩そのものの彫像を軽々と持ち上げるなど、ただの人間にできる技ではない。
龍と人間の子孫にすら不可能だ。
(まさか、彼女は――――?!)
かすかに疑惑の表情を浮かべた珀輝が、彼女の顔をもっとよく見ようと、木陰から数歩身を乗りだした時。
驚いた彼女が、つと彼に視線を向けた。
黒曜石の瞳に黒絹の長い髪。雪花の肌に浮かぶ紅唇。
陰鬱な墓よりも玉座こそが似合う、圧倒的な存在感。
その姿を目に焼き付けた珀輝は、今度こそ彼女が誰であるかを察した。
本人を直接見たことはない。だが、天界どころか龍界ですら彼女の絵姿を知らぬ者はいない――――。
(我の思い違いではない。やはり彼女は……!)
よりによって人界への転生を望んだという、かつての玉皇大帝に間違いなかった。
(それにしても……玉皇大帝とあろう者が、ここまで堂々と転生違反をしていたとは)
彼女の怪力は、まぎれもなく人外のものだ。
もはや呆れを通りこして、笑いが浮かんでくる。
前玉皇には、ずいぶんと敵が多かったとも聞いている。無力な人間に転生したのをいいことに、天界から刺客を送ってくる輩がいても不思議ではないのだから、紫龍の力を保持するくらいのずるには目を瞑れということなのか。
いずれにしろ、天界最強と言われていた彼女に対して、真っ向から不正を糾弾したところで、力ずくでねじ伏せられて終わりだ。誰もがそう恐れて口をつぐんだ可能性は、十分にあるのだが。
(この分では、前世の能力すら隠し持っていてもおかしくないのう……)
それどころか、「記憶持ち」と呼ばれる転生のタブー例だというオチすらあるのではないだろうか――――。
いまにも熊に石像を投げつけようとしていた当の前玉皇は、珀輝の出現に驚いて、ふいにその手を止めていた。
だが、珀輝の後ろには、飢えた熊が迫っている。
ほんの刹那のうちに状況を理解した彼女が、すぐさま彼を救うべく、こんどこそ巨像を熊に投げつけようとして、腕に渾身の力を込めた。
――――ところが。
いったい何を思ったのか。彼女は急に珀輝を二度見して、目を大きく見開いたかと思うと、突然、熊ではなく彼の方へと体の向きを変えた。
ついさっきまで彼を守る決意に満ちていた瞳が、今は明らかな怒りと嫌悪を込めて鋭くこちらを睨んでくる――――。
侮蔑と憎悪には慣れているが、初対面の彼女にこれほど嫌われる理由が思い浮かばない。
(そういえば確か、前玉皇は白龍と白銀龍が大嫌いだった、と巷間では密かに伝わっていたが――――)
だからといって、灰色龍の自分に何の関係があるというのか。
確かに白龍である旺劉の養子ではあったが、彼女は自分とは初対面のはずだ――――。
珀輝がうだうだとそんなことを考えている間に。
「ふんっ!」
裂ぱくの気合とともに、彼女が巨大な彫像を猛スピードで彼(、)に(、)向って(、、、)投げつけてきた。