シャロンⅠ
「ここがお風呂、使い方は分かる?」
「大丈夫だと思う」
シャロンは帰宅早々、ハジを一階にある浴室に押し込んだ。床も壁も天井もタイル張り。換気用の小さな窓。そこに浴槽とシャワーが備え付けてあるだけの小さな浴室だ。
浴室を離れ二階に上がり、兄の部屋に勝手に入り箪笥を漁る。手頃なシャツを手にとって拡げる。シャロンの兄は身長が二メートル近い筋骨隆々の大男だ。ハジも華奢ではないが、流石にこのシャツはサイズが合わないだろう。
「まあ、大丈夫でしょう」
どうせ、着るのは今日だけなのだし、ハジが文句を言うとも思えなかったので、シャロンはこれで良しとした。文句を言っても「これが帝都の流行りだ」と言いくるめる。
シャツとズボンを持って、兄の部屋を後にする。
一階まで降りて脱衣所まで行くと、磨りガラス越しにハジがシャワーを浴びているのがわかった。
「ハジくん大丈夫?」
「ああ、なんとか」
シャロンはハジの身体から発せられる卵の腐ったような臭いを思い出す。そう簡単に取れるものだろうかと心配になる。洗面台の下からブラシをひとつ取り出す。浴室を洗うためのブラシだ。毛の一本一本が針金のように硬く、人の肌に合うわけも無い。が、ガラス戸を少し開け、それを中に差し入れる。
「臭いが落ちなければ、これを使って」
冗談のつもりだったが、予想とは裏腹にハジは受け取った。
「ありがとう」
ガラス戸越しにそれを使っているのがわかった、ガリガリと、身体を削っていく音がシャロンの耳に届くが、ハジは特に痛がる様子もなく身体を磨く。
「ハジくん大丈夫?」
「ああ、なんとか」
「……そう、それじゃあ、私、昼食の用意をするから」
ハジは記憶が無いのだから、不用意なイタズラはやめようと、シャロンは誓った。
気をとりなおし、台所で料理を開始する。
水色のシュシュで黒髪を留め、エプロンを付ける。
作る料理はペペロンチーノ。
シャロンは料理をつくるのが好きでもなければ得意でもない。
ただ、家の中に他に料理を作れる人間がいない為、シャロンは普段から台所に立つ機会が多い。
すると徐々に手抜きを覚えて、今では“大きな皿に簡単な料理を山盛りにする”と言うのが普通になってしまった。
丁度料理が仕上がった頃にハジは台所に顔を出す。
「シャロン、上がった」
「洗い残しは…… 無いようね」
浴室から出たハジの肌は真っ赤になっていた。剛毛のブラシで磨けば当然だ。引き換えにあの悪臭は無くなっていたが、シャロンの良心がジュクジュクと痛む。
シャツの袖とズボンの裾は雑に捲られてたが、どうせ兄のものなので見ないことにしておく。
「さあ、食事にしましょう、向こうに持って行って」
隣の部屋にペペロンチーノの乗った皿を持っていくようにハジに指示を出し、シャロンは瓶に入ったオレンジジュースをグラスに注ぎ、二本のフォークと一緒にそれを持って行く。
隣の部屋はダイニングで、四人掛けのテーブルがある。
ハジは皿をテーブルに乗せたのは良いが、椅子に座らずに立っている。
「まだやる事あるか?」
「もう無いわ。どうぞ、お座りになって」
「ご丁寧にどうも」
ハジは椅子に座り、シャロンもその対面に座る。オレンジジュースとフォークを大皿の横に置き、
「頂きます」
「頂きます」
二人はそう言うとフォークを持ってペペロンチーノを口に運んでいく。
シャロンはパスタを綺麗にフォークに巻いているが、ハジはフォークで掬って啜って食べる。記憶を失っても生活習慣はあまり変わらないというが、彼はパスタの無い地方出身なのだろうかと考えた。
「ハジくん、あなた、自分の事のどれくらい忘れているの?」
記憶が無いなら聞かれて嫌なことは無いだろうと思ったシャロンは、色々聞いてみることにした。記憶の無い人間と話をするのは初めてだ。何を考え、何を思うのか興味があった。
「一月前に目が覚めて、それより前のことはなーんも覚えてない」
「ご両親は? いないの?」
「ああ、いない。親どころかなーんも無いよ」
ハジは特に気を悪くするわけでもなく、淡々とそう言った。
嘘をついている風には見えないかった。
記憶が無い事に不安を覚えたりしないのか、とシャロンは勘ぐったが、本人がそう言うのだから、は納得しておくことにした。
「俺のことは良いよ、シャロンの家は何やってるの?」
「うちは貴族、子爵家」
「貴族ッ!?」
ハジは手の持っていたフォークを止め家の中を不思議そうにキョロキョロと見渡す。
家は三階建てだが大きいわけでもなく、帝都の中では標準的な大きさだ。絵画や彫刻のような美術品も無く、使用人も居ない。昼食もシャロンが作ったペペロンチーノが乗った大皿が二つ。世間一般が思う貴族像と比べるとだいぶ質素なものだとシャロン自身も思う。
「思ってたのとなんか違うな」
「よく言われる」
「貧乏なのか?」
そういう事を何の気なしに言えるのはすごい、とシャロンは感心した。
「うちは代々軍人だから質素が家訓なのよ。そうじゃないと前線で無駄にひもじぃ思いするから」
シャロンはフォークで棚を指す。そこには数々の勲章が置かれている。ただ、埃をかぶっており、本来の輝きを失っている。
シャロンが知る限り、一族はみんな軍人だ。幾人も将軍を輩出していて、祖父も今は帝国大将の地位にいる。
「なるほど、じゃああれもなんかの勲章?」
部屋の隅に棚があり、そこには小さな金属で出来た一組の像があった。軍服を着たガタイの良い紳士の像とパーティドレスを着た淑女の像だ。目尻の皺の一本まで丹念に彫り込んだ像は一点の曇りも無く照明の光を浴びて輝いていた。
家の中の落ち着いた雰囲気の中でそこだけ火の付いたように存在感がある。どんなに芸術に疎い者でも気になるだろう。
「……あれは」
シャロンは言い淀んだ。
別段隠す事ではない。ただ少し、シャロンの心がズキリと痛んだので、口に出すのに少し勇気がいるだけだ。
「あれは死んだ両親よ。父の渾名が鉄人だったから。写真や肖像画なんかよりずっとらしいと思って」
努めて淡々と言ったが逆にそれが彼女の尋常らしかなぬ事を示していた。
「結婚記念日に二人が食事に行ったら、その店で爆弾テロがあってね。ドカンよ」
「そうか」
ハジはもう像の事について何も聞かなかった。
二人は重苦しい空気の中で黙々とパスタを口に運ぶ。なんとかこの空気をかえるきっかけが欲しいとシャロンは思った。
ハジが最後の一口を運ぶ時にはもうシャロンも食事を終えていた。
綺麗に食べるシャロンよりも、自分の方が早く食べ終えると思っていたようで「へぇ」とハジは感心して声が漏れる。
シャロンは少し得意げに、雰囲気を吹き飛ばすつもりで鼻を高くし、
「早食いは軍人の基本よ」
「腹痛くなるぞ」
「ならないわよ」
シャロンは用意しておいた琥珀色の液体を二つのティーカップに注いで、片方をハジの方へ差し出した。息を吸い込むまでもなくわかるほどの、濃い香ばしい甘い香りが部屋中に広がる。
ハジはティーカップを覗き込みながら、
「なんだこれ?」
「紅茶よ、知らない?」
「ああ知ってる、葉っぱの煮汁な」
「煮汁言わない」
シャロンがティーカップに口を付けた。
柑橘系に似た酸味と、後から来る品のある渋味。少ない小遣いで買った上物の紅茶だ。
ハジも紅茶を口にする。
ズズッと啜る音が聞こえたのでシャロンは思わず眉間に皺が寄った。
「感想は?」
ハジは舌を火傷したのか、舌を出しながら、
「あふい、もっと冷たいほうが好きだ」
「そう」
シャロンは色々と言いたいことがあったが、グッと堪える。相手は記憶がないのだ。
「さて、一息ついたら出かけましょうか」
「どこに?」
「色々よ。取り合えず服をなんとかしないと、制服も見繕わないといけないし。ああ、私の制服も受け取らないと」
「じゃあすぐに出ないと」
ハジは息を吹きかけて紅茶を冷まし、それを一気に飲んだ。
勢いそのままに立ち上がりながら、
「明日までにできるのか?」
「なんとかなるでしょう、夕方までには」
「夕方?」
魔導学校の入学式は明日だ。それまでに諸々の用意が出来れば良いと考えるのはおかしくは無い。
ただ、学生寮の入寮は今日なのだ。
既に新入生の入寮の受付は始まっている時間だし。夕方からは歓迎式典も催されるはずだ。
今が正午過ぎ。歓迎式典の開始が十八時。
「服ってそんな簡単にできるのか?」
「大丈夫、この時期ならもう職人の手は空いてるだろうし、なんとかするでしょう。それより良いの?」
ハジは首をかしげ、
「何がだ?」
「ミレーユから渡されたリスト。これ戦闘用の魔導礼装よ。あなた戦闘手を目指すの?」
魔術師の中でも、特に戦闘に特化している者を戦闘手と呼ぶ。魔術師となれば、質素に暮らせば生活に不自由することはない事もあり、わざわざ死傷率が高い戦闘手になりたがる者は少なく、大抵はそれを家業としている家に生まれたから気がついていたら戦闘手となっていた、というのが多い。かく言うシャロンもその一人だ。
「ああ、大丈夫、問題ない」
「少しは魔導能力が優れているみたいだけど…… 他にいくらでもできることがあるでしょう?」
「もう決めたことだから」
「せっかく心配しているのに」
ハジははぐらかす風でもなく、
「行こう、時間が無いんだろう?」
ハジはそう言ってテーブルを離れ玄関に向かう。
「やれやれ」
シャロンは戦闘手がどれだけ大変か小言を言ってやりたかったが、口から出ない様に紅茶を一気に飲み干した。




