ハジⅠ
「ハジ、起きたまえ」
「うん? ミレーユ、俺寝てた?」
「ああ、ぐっすりと」
ハジはフカフカの座席でうたた寝をしていると、ミレーユに肩を叩かれ目を覚ました。
ミレーユは今年で三十歳と言っていた。ボサボサの髪を束ねたポニーテール、目の下の濃い隈、血色の悪い唇。本当なら背の高く、グラマラスな体躯がきっと男心をくすぐる女性のはずなのに、猫背も相まって“老”と言う単語を連想させる。
ハジは最初、一等客室の豪華な内装や、移り変わる車窓に気が気でなかったが、流石に丸一日汽車に揺られると感動も薄れる。それよりも心地よい汽車の振動が眠気に変わってハジを襲った。
眠気まなこで窓を見る。暗く向こうを伺うことはできない。窓ガラスには自分の顔が映り込む。真っ黒色の癖毛の髪、目つきの悪い三白眼、しかも瞳の色は蛍光塗料を思わせる発色の緋色だ。趣味の悪い人が見ればハンサムと言ってくれるだろうか。
「うそ、もう夜?」
ハジは腹を摩り、腹の調子を確かめる。
朝食を食べたのが八時くらいだった。疼いていない空腹感から察するに、まだ正午にもなっていないはずだ。
「長いトンネルに入っているだけだ」
「ほう、トンネル?」
「そう、山に穴を掘ってその中に線路を引いているんだ。トンネルを抜けれは直ぐにハウシュカだ。荷物をまとめてくれ」
「ああ、わかった」
と言ってもハジにこれと言った荷物はない。汽車に乗る前にミレーユに買ってもらったシャツとズボン、薄手のマントくらいなものだ。
対してミレーユは、物を探すときにトランクケースの中身をひっくり返す癖があるようで、せっかくの一等客室には中身が撒き散らされたトランクケースが四つ転がっている。
ミレーユは開いたトランクケースの中に大雑把に荷物を置くと、特に整理もせずにトランクケースの口を閉じ、上から体重をかけ金具をはめようと奮戦している。
見かねたハジは皮肉を込めて、
「手伝おうか、教授殿?」
「ああ頼む」
ハジは別のトランクケースを手に取り、そこらに散らかっているミレーユの荷物をひとつずつ丁寧に収めていった。同じ形の物は揃えて、衣服は綺麗に畳んで。
するとミレーユと違い、トランクケースは抵抗することなくすんなりと、それでいてミレーユが押し込もうとしていたよりもずっと多くの荷物を飲み込んで口を閉じた。
「ハジ、それはいけない」
「はあ? ちゃんとしてるだろ?」
「女性物の下着を手に取ったら少しは動転しないと」
「はぁ?」
確かに下着を手に取った覚えはあったが、面倒なのでミレーユのことを無視してトランクケースに荷物を収めて続けた。
「君は歳は幾つだ?」
「いや、知らないけど、十四か、十五じゃないの?」
「そうだろう? だったら女性用下着に心躍らせるの本当というものだろう? 若い男子として問題じゃないかね?」
「……女性用下着で心躍らせている若い男子と、密室で二人っきりって方が妙齢の女性として問題じゃない?」
「……確かに、コレがジレンマと言うものか」
「一生悩んでろ」
ミレーユはトランクケースから手を離し、顎に当て考え込む。
ハジは二つ目のトランクケースを収め、三つ目のトランクケースにミレーユが格闘していた分の荷物も収めて。結果、すべての荷物を収めると、ミレーユが最初に手にしたトランクケースは空のまま金具を留まることになった。
「ふう、終わりッ」
作業を終えるとハジはまた座席に腰を落とした。その時だった。
車窓から急に強い光が射し込んで目が眩んだ。
ハジは眼を細めて外をみると、一面に青。
明るさに目が慣れるとそれは膨大な量の水だと分かった。
「海に見覚えはあるかね?」
「いいや、これが海か、すごいな」
ハジは車窓を押し上げるように開け、隙間から顔を出す。
風がハジの髪を撫ぜ、潮の香りが鼻を刺した。
「ほら、あっちに見えるのがハウシュカだ」
ミレーユが指差す方には巨大な街があった。
ハウシュカはユーグラナ帝国の帝都である。二つの陸からそれぞれ半島が突き出し、それを遮るように海峡がある。両岸の間は短い所では一キロも無く、しかもその間に幾つもの島が浮かんでいる。陸路海路共に交通の要衝で、海峡の周辺には古くから多くの人が住んでおり、百五十年前に帝都がハウシュカに移ってからは人口は増える一方だ。
遠目からでも高い建物や停泊している船舶が見て取れた。
ハジがその景色に見惚れていると、突然リィィンリィィンと鈴の音が鳴り響く。
窓から首を車内に戻すと、ミレーユの目の前には真っ黒い板のような物が浮かんでいた。
相当不可思議な光景であるが、ハジは特に驚かない。それが連絡用の魔術だと知っていたからだ。
「何、なんかあった?」
「ああ、知り合いから返事が来たのでな」
ミレーユがそう言って黒い板の前に手をかざすと、ランプの灯りを消すようにフッと消えてしまった。
それから二十分もしないうちに汽車は止まる。
ハウシュカ中央駅は帝国国内において、最大級の規模を誇っている。
なんと言っても、帝都に住む百万人の胃袋を満たすための食材を毎日各地から運んでこないといけないからだ。
とは言っても、その手のものは深夜から早朝にかけて運ばれてくるので、昼前のこの時間帯は最も人が少ないことになっている。
ところが、見渡す限りに人人人。
みんな大荷物を持って足早に駅舎の中を歩く。
前を行くミレーユは肩越しにチラチラとハジを伺いながら、
「逸れるなよ」
「分かってるよ」
前を歩くミレーユの後ろを、トランクケースを載せたカートを押しながらついて行く。
駅舎の天井は高く、飴色のガラスが張っていて、陽光を優しい色に変えていた。腹に響く匂いの先には売店があり。その近くではホットドック片手に新聞を読んでいる男がチラホラ。
壁には映画の広告がズラリと並び、大抵は男女が見つけあっているか、キスをしているかだ。
しまった。
ハジがそう思った時にはもう遅かった。
辺りの物に眼を奪われていると、いつの間にかミレーユの背中は無くなっていた。
視線を左右に揺らしながらカートと押していく。
「ハジッ!」
そう呼ばれたほうを見ると、直ぐにミレーユを見つけることが出来た。足早に彼女の元に向かった。
「すまん、やらかした」
「まあいい、行くぞ」
ミレーユは駅員に切符を二枚渡すと二人は改札を抜ける。
そこは大きな広場になっていた。
乗り合い馬車に路面電車に蒸気自動車。
それぞれに人を下ろし、乗せて、車輪を回して去って行く。
そこから左右伸びる整備された大通りがあり、人々が慌ただしく行き交う。
モルタル化粧の背の高い建物が並び所々から黒煙を吐いて、潮風がそれを遠くに運ぶ。
広場にある馬を模したモニュメントの前に来ると、ミレーユは突然、
「それじゃあ、ここからは別行動だ」
「はあ? 帝都の一人歩きなんて出来ないぞ」
「ああ、ちゃんと考えてある」
ミレーユは辺りをキョロキョロと見渡すと直ぐに目当ての人を見つけた。遠目でもわかる目立つワインレッドのトレンチコート。
それに向かって右手をふらぁとあげ左右に振りながら、
「シャロン、ここだ」
声に気付いた娘は組んでいた腕を解き、焦らす様にゆっくりした足取り二人の元へやってくる。
風に揺れる長い艶やかな黒髪に、大きな瞳、薄い色の唇。スラッと伸びた四肢と引き締まった体躯。
スポットライトで照らしているような強烈な存在感がそこにだけあった。
女性雑誌の表紙を飾っていそうな美人だが、同時に強かさも兼ね備えて見えた。ハジには自分より歳上に見えた。
周囲の人々も目を惹かれるようで、すれ違う人はみんな振り返る。
彼女は決して荒げること無く、それでいて確かな怒気を含んだ声で、
「で? この忙しい時期になんの御用ですか?」
「うん? 入学式の前日にドタバタしているほど、君は計画性がないのかね? もう必要なものは送っているんだろう?」
からかう様なミレーユのせいで、シャロンは眉間に皺が一本できる。
ハジは不思議と息苦しさを感じる。
シャロンはさっきより少しは荒げて、
「で? この忙しい時期になんの御用ですかッ?」
「うんまぁ…… 紹介しよう、この子はハジ。訳あって私はこの子の後見人になったんだ。この子には記憶が無くてな」
「どうも」
「記憶喪失?」
ある日、ハジが目が醒めると病院のベットで寝ていた。それまでの記憶は全く無かった。その病院に出張で来た、魔導学校の教授であるミレーユに引き取られることになった。「いい実験材料になる」と言ったミレーユのとても良い笑顔がハジの一番古い記憶だ。
「私の立場上放っておくわけにもいくまい?」
ミレーユは彼女を指差して、
「ハジ、この娘はシャロン。この娘も今期の魔導学校の新入生だ。すでに実戦経験もある。何分魔導能力が飛び抜けていてな。通り名は…… なんだったかな?」
シャロンは目を逸らして不満気に、
「……怪物」
「プッ」
ミレーユは口を手で押さえたが笑い声が漏れる。
「シャロン、記憶の方はともあれ、この子も魔導に秀でていてな、私はこの子を今期の入学生にしたいんだが…… 生憎時間が無い。私の代わりに今日一日面倒見てくれ」
呆れたシャロンはこめかみを押さえながら、
「今期って、入学式は明日よ。そもそも手続きは?」
「なぁに、事務方には貸しがある。教授会に根回しすればねじ込めるさ」
「そんな無茶な、無理しないで来期を待ったいいじゃない?」
「……君は“あの”家で私と一緒に暮らすのと、寮で学友と一緒に暮らすのと、どっちが健全だと思う?」
ハジはミレーユのトランクケースの扱いから彼女の家の中を想像した。きっと洋服箪笥や食器棚、いや家中のあらゆる場所があのトランクケースの様にぐしゃぐしゃなのだろう。
シャロンは溜息を一つ吐いた後に、
「分かったわ。頼まれてあげる。これ貸しだからいい?」
「助かるよ」
ミレーユは広場の一頭建ての小さな辻馬車を見ながら手を振る。すると辻馬車は三人の元までやってくる。御者は馬車を降りるとハジの押していたカートの上のトランクケースを車に乗せる。
ミレーユは一度辻馬車に乗り込こもうとするが、思い返して乗り込むのをやめる。
「そうそう、必要なものも買っておいてくれ」
懐から蝦蟇口の財布とメモと銀時計を出してシャロンに渡した。
シャロンはメモを一読してから、
「本当にこれで良いの?」
「ああ、本人もそれでいいと言っている。頼んだぞ?」
シャロンは鋭い眼光でハジを睨んで、
「なんだよ?」
「なんでも?」
「それじゃぁ、私は行くぞ」
ミレーユは改めて辻馬車に乗り込み御者に合図を送ると、辻馬車はパカパカと蹄鉄を鳴らしながら去っていった。
「それで、俺たちはどうする?」
「そうね、取り敢えずあなたを風呂に入れないと。あなた、凄い臭いするわよ」
シャロンは鼻を摘みそう言った。




